来世こそは畳の上で死にたい
前世では〝先生〟のせいで不本意な死に方をした私だが、残念ながら今世もまた彼のせいで安らかな最期を迎えられる気がしない。願わくば、せめてーー
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目と目が合った、その瞬間。
目の前にいるのが前世において自分と関わりのあった男――その生まれ変わりであると、私は唐突に理解した。
彼に関する情報で頭の中が溢れ返り、パズルのピースが一つ一つ嵌まるようにして前世の記憶が完成していく。
茫然とした心地のまま、私は口を開いた。
「せ、先生……ご無沙汰してます」
「……ああ、バイトちゃん……君か」
相手も驚きを隠せない様子ながら、記憶の中にあるのと同じように私を呼んだ。
前世の私は大学に通う傍ら、目の前の男のもとで事務のアルバイトをしていた。
先生と呼ぶのは、彼が大通りに面したそこそこ家賃が高いオフィスビルの三階に事務所を構える弁護士先生だったからだ。
若いが遣り手と評判で、私が知る限り仕事が途切れたことがなかった。
しかし、忘れてはならない。勝者の影には常に敗者が存在するのだ。
敗者の憎悪は勝者ばかりでなく、時に勝訴を捥ぎ取った弁護士にも向かう。
事務所に脅迫電話がかかってくるのなんて日常茶飯事。
包丁を持った男が押しかけてきた時には、私もさすがにやべー職場だと感じた。
先生が、私を名前ではなく「バイトちゃん」なんて呼んでいたのも、前述のような理由でアルバイトがすぐに辞めてしまうから。先生なりの線引きらしい。
もちろん私だって、身の危険を感じてアルバイトを辞めようと思ったことがある。
それでも、なかなか踏ん切りがつかなかった。
だって、給料は相場よりずっと良かったし、先生は性格に問題があってもイケメンだったし――何よりあの職場、賄いが出たのだ。
何ということはない。料理が得意ならしい先生が、自分の食事のついでに私の分も用意してくれていただけのこと。一人分作るのも二人分作るのも労力は変わらない、とか何とか言って。
とにかく、不覚にも先生に胃袋を掴まれてしまった私は、すっかり危機管理能力が鈍っていたのだろう。
さっさとアルバイトを辞めなかったことを、後々死ぬほど後悔することになった。
その時の記憶がまざまざと甦ってきて、思わず手に力が入る。
「……っ」
とたんに、先生の端整な顔が歪んだ。
ところで、〝先生の〟とは言ったが、今私の目の前にある男の容貌は記憶の中にある先生のそれとは随分と異なっている。
前は黒い髪と焦げ茶色の瞳の、ごくごく一般的な日本人の色彩を纏っていた。
一方、今は髪こそ黒色だが、瞳は澄み渡った空みたいな綺麗な青色だし、何より顔立ちが人種レベルで違う。まあ、どっちも結局はイケメンなのだけれど。
それでも不思議なことに、私は目の前の男と記憶の中の先生が同一人物であると確信していて、疑おうという気さえ起きなかった。
それに、以前と見た目が違うのは先生だけではなく……
「こんなに脱色したら髪が傷むじゃないか。この不良娘め」
「いや、髪を脱色したくらいで不良呼ばわりされたらたまんないですよ。そもそも、今のコレは生まれつきですし……」
前世のカラスの羽根みたいな色から、白に近い金色になった今世の私の髪をさらりと撫でて、先生は説教くさい顔をする。当方の顔立ちも前とはまったく異なっているはずなのだけれど、先生も私を〝私〟として当たり前のように認識しているみたいだった。
ちなみに、今の私の瞳は赤銅色。どこか禍々しさを覚える夕焼けみたいな色だ。
夕空と青空――そんな対照的な瞳の色をした私と先生は、二度目の人生においてこうして思いがけない再会を果たした。
ただし、はっきり言って、タイミングは最悪だった。
「先生、せっかくの再会の場面でこんなことを言うのは気が引けるんですが――死んでください」
「気が引けるという割には、随分はっきり言うんだな」
私の手には小型のナイフ。刃の部分は先生の脇腹に突き刺さっていた。
溢れ出た血で手が滑りそうになった私が柄を握り直せば、その震動が傷に響いたのか、先生がうっと呻いて顔を顰める。彼の額には脂汗が滲んでいた。
刃は短く、それ自体の殺傷能力はあまり期待できない。
しかし、先生はキングサイズのベッドの上に仰向けに倒れ込んだ状態で、腰の辺りを跨いで伸し掛かる私を払い退けることも、脇腹に刺さったナイフを抜き取ることさえできない様子だった。
やがて、ぜいぜいと呼吸まで荒くなり始めた彼が、忌々しげにちっと舌打ちをする。
「……っ、くそ……最悪な気分だ……さては君、刃に毒を仕込んでいたね?」
「すごい、まだ喋れるんですか? 普通は即死するはずなんですけど……さすがは先生、しぶといですね」
「そういう、バイトちゃんは……っ、相変わらず、辛辣だ、な……」
「ええ? 褒めてるんですよ? だってコレ、どんなタフなヤツでも確実にコロリと逝くと評判の、森の魔女の新作ですもん」
森の魔女というのは、この国の国境沿いに広がる深い森の奥に住む老婆の通り名だ。魔女といっても魔法を使えるわけではなく、薬草を育てて生計を立てている。
薬と毒は紙一重。
森の魔女は薬も作るが毒も作るため、裏社会においても大変重宝される人材だった。
そんな人物から毒を調達した私はというと、現在グローバルに活動する冷酷非道な反社会的組織の一員となっていた。
前世を鮮明に思い出した今となっては、まるでスイッチが入れ替わったみたいに、今世のここまでの人生が他人のもののように感じられる。
売られたのか誘拐されたのかは知らないが、とにかく赤子の時分に組織に引き取られた今世の私は、彼らの手駒となるべく育てられたらしい。幼少時代の過酷な日々は、お豆腐メンタルな今の私では所々モザイクを入れてダイジェストで思い出すのがやっとだった。
どうにかこうにか生き延びて、暗殺者としてある程度大成した私が任されるのは、専ら要人を腹上死させるだけの簡単なお仕事だった。どんな偉人でも、ベッドの中ではただのスケベなおじさんである。
そんな私の今回のターゲットとなったのが、間もなく玉座を譲り受けることが決まっているこの国の王太子。
それが、たまたま前世の雇い主の生まれ変わりであると気付いたのは、私室に一人きりだった彼にナイフを突き刺した直後だった。
窓の外は真っ暗。壁掛け時計を見れば、日付が変わるまで残り半時間といったところだ。
「刺す前に先生だって気が付いていたら、さすがに私も躊躇していたとは思うんですけどね。すでに刺してしまった以上はどうしようもないです。解毒薬は森の魔女しか作れないですし、そもそもこの毒、体内に入る前に抗体ができていないと中和が間に合わないそうですから」
「ふ……もう……手遅れと、いう、わけか……」
先生の命の灯火が消えるのも時間の問題だった。
私は彼の脇腹からナイフを抜いて血を拭い、せめてもの慰めに傷口を清潔な布で押さえて手当てをした。
すると、先生は薄く目を開けて私を見上げ、ねえ、と震える声を発する。
「冥途の土産に、聞かせてくれないかな。俺を殺すよう、君に命じたヤツが誰、なのか……」
「えー、ムリムリムリ、ムリですよ。黙秘します。依頼者に関しては守秘義務があるのご存知でしょう?」
「そうか……黒幕が分からないなら仕方がない……俺が死んだら、バイトちゃんのもとに化けて出るとしよう……」
「え? ば、化けてって……?」
ぎょっとする私に、先生が畳み掛ける。
「言っておくが、全力で呪うぞ? 毎夜夢枕に立つし、足を引っ張って寝かせないし、金縛りにも遭わせてやるからな。あと、鏡を覗いたら、百パーセント背後に立って映り込んでやる」
「えええ……古典的。やだなぁ、先生が言うと冗談に聞こえないですよー」
「冗談ではないからな。ほら、どうする? 早く言わないと死ぬぞ? ああ……去年死んだ祖母が迎えに……」
「わー! わっわっ、待って待って! 待ってください! い、言うっーー言いますから、まだ死なないでえっ!!」
ターゲットに依頼者の名前を明かすなんてことはもちろんタブーである。
ただ、先生が間もなく死ぬことは確定していたし、自分が手を下したという罪悪感も手伝って、私はついつい口車に乗せられてしまった。
「もしもですね、私が捕まって拷問でも受けるようなことがあれば、依頼人は王位継承権第二位の第二王子――先生の弟さんだと言うよう命じられていました」
「ふうん……その言い草では、真犯人は弟ではないね? となると……まさか、弟の次に王位継承権を持つ、叔父関係かな?」
「ブッ、ブーッ。残念、ハズレでーす。先生らしくもうちょっと捻くれた答えがくると思いましたが、意外に単純なんですね?」
「……まどろっこしい……さっさと黒幕が誰なのか教えろ。ほんとに死ぬぞ? 今すぐ死ぬぞ!?」
苛々した様子で死ぬ死ぬ言い出すせっかちな先生に、私もいい加減に焦らすのをやめて核心を告げることにした。
「依頼者は先生のーー王太子殿下の側近です。確か、先生とは十数年来の付き合いでしたっけ?」
私の言葉に、先生は絶句した。
それはそうだろう。真犯人が、今世の先生にとっては最も気の置けない相手だったのだから。
先生の死を望んだのは、幼馴染にして大親友。これから新国王として立つ彼を、一番近くで支えてくれるはずの男だったのだ。
「……なぜ、あいつが?」
信じられないと言いたげな先生に、私は肩を竦める。彼が裏切られた理由は、案外ありきたりなものだった。
「先生、婚約者がいるでしょう。なんちゃら公爵家の末娘。彼女とあなたの側近がデキているんですよ」
「は? 着飾って噂話をするしか能のないあんな女、俺を殺してまで手に入れるほどの価値があるか? 欲しいならくれてやるのに……」
「ぶっちゃけると、先生の婚約者は妊娠しています。彼らは〝亡き王太子殿下の子供を身籠った婚約者〟という肩書きが欲しいんですよ。そうすると、お腹の子供に王位継承権が発生しますからね」
「……そう、きたか」
この国の王太子となんちゃら公爵令嬢の婚約は周知されていたので、公爵令嬢のお腹に子供がいると判明すれば、父親は当然王太子であると考えられるだろう。比較的貞操観念の高いこの国でも、婚約者同士の婚前交渉には世間も寛容である。
ところが実際は、王太子と公爵令嬢はいまだベッドを共にするどころか、キスをしたこともないらしい。
彼らが初心なわけではない。王太子が、父親である現国王が決めた婚約者に対して愛情どころか興味すら持てず、そんな相手のために玉座の引き継ぎに忙しい中で貴重な時間を割く気にならなかったからだ。
「先生がご令嬢にあんまり冷たくするものだから、それをフォローしていた側近の方とくっついっちゃったんですよ。先生はもうちょっと、女心というものを勉強すべきだったと思います」
「男女にかかわらず、建設的な会話ができないやつの相手をするのは嫌いなんだよ……」
「それで? 当て馬にされた気分はどうですか、先生?」
「……聞くまでもないだろう……最悪、だな……」
初夜と産み月の計算が合わなくなって、いずれ不貞を働いたことが王太子にバレてしまうに違いない。
未来の王妃を寝取った側近は良くて国外追放、最悪の場合は処刑だってあり得るのだ。婚約者の実家である公爵家も社会的に死ぬことになるだろう。
王太子殿下の口さえ封じられれば……
そう言い出したのは、追い詰められた男女のうち、果たしてどちらが先だったのか。
「その情報は確実なんだろうな? 物的証拠は?」
「組織に実際に依頼してきたのは仲介人ですけど、黒幕は先生の側近と婚約者で間違いないですよ。情報は確実ですし物的証拠もあります……っていうか、王宮に潜入したついでに私が証拠を集めました。うちのボスが、場合によっては後々それをネタに奴らを強請るつもりですので」
「へえ、随分阿漕な商売をするものだ……」
「当然ですよ。うちは生粋の反社会的組織ですからね。それに、人を呪わば穴二つって言いますでしょう? 何でしたら今後、側近と婚約者からは血尿が出るくらい財産搾り取って報いてやりますから、先生はどうか成仏してくださいね」
「搾り取られた奴らの財産が、君が言うところの反社会的組織の資金になると知っては、全然安心できないんだが……」
荒かった先生の呼吸が、だんだんと静かになってきた。
もう目を開けていることも侭ならないらしく、案外長い睫毛が血の気の失せた彼の頬に影を落している。
とたんに言いようの無い寂しさを覚えた私は、先生の頭を自分の膝の上に載せ、汗ばんだ黒髪を労るようにそっと撫でた。
最期の時は近い。きっともう彼は日を跨ぐことができないだろう。
バイトちゃん……、と虫の息の先生が口を開く。
「……俺を、恨んでいるか?」
唐突な問いに、私はとっさに首を横に振った。だが、目も開けていられなくなってしまった今の彼には見えないと気付いて、「いいえ」と口に出して返事をし直す。
すると、先生は震える声で問いを重ねた。
「うちの事務所に……俺のもとにいたから、殺されたのに……?」
前世の私は、事務所を訪ねて来た見知らぬ男の手によって人生の幕を下ろされてしまった。
先生を逆恨みする連中には何度か遭遇したが、さすがに拳銃を携えてやってきたのは、その男が最初で最後だった。
アルバイトをさっさと辞めておけばよかった、と前世を思い出した今となっては後悔している。
前世の先生に関しても、職業柄ある程度敵ができるのは仕方がないにしても、もうちょびっとくらい煽り体質を控えればよかったのにと言ってやりたい。
それでも……
「先生を恨んだって、あの不本意な死に方が私の前世の結末だった事実は変わりません。終わったことをとやかく言ったってしょうがないでしょう? 未練がましいのは性に合わないんです」
私がそう告げると、先生は最後の力を振り絞ったかのように薄く目を開けた。
わずかに見えたその青を、私は深く心に刻み付ける。
先生、と続けた言葉は、不覚にも震えてしまった。
「今度生まれ変わる時には、あんまり恨みを買わない生き方をしてくださいね。ああ、いっそ、犬とか猫とかに生まれ変わって私のところに来たらいいんですよ。そしたら、私が一生可愛がってあげますからね?」
「……」
先生は何も答えなかった。おそらくは、もう喋る力もなかったのだろう。ただ、口元が少しだけ笑ったような気がした。
先生の呼吸がさらに浅く、そしてか細くなっていく。やがてそれが途切れるのを見届けて、私はぐっときつく両目を閉じた。
前世ーー事務所に押しかけてきた男は、応対に出た私の胸を問答無用で撃った。そして、その場に倒れた私を一瞥することもなく、先生がいる部屋の奥に向おうとしたのだ。
その足に縋って歩みを止めようとしたのは無意識だった。
私自身、命を賭して守ろうとするほど当時の先生に思い入れがあったわけではないから、きっととっさの行動だったのだろう。
男は私を振り解き、自由になったその足で蹴り付けた。拳銃で撃たれたことよりも、そうして蹴られたことの方がずっと痛かったのを思い出す。
それから、先生と男の間で何があったのかは分からない。
冷たいノラメントの床の上で、私の意識はゆっくりと遠のいていき、どうやら自分は死ぬらしいというのを漠然と感じていた。
痛みは、すぐに分からなくなった。
ただ、寒くて寒くて、そしてひどく心細かったのを覚えている。
そんな時、ふと、温かくて大きな掌が、私の頭を労るように撫でてくれた気がした。
「あれって、先生だったんですか……?」
最期の瞬間に感じた、あの誰かの体温が、死出の旅路に差しかかった私を少しだけ安堵させた。
おかげで、絶命するその瞬間は、そんなに怖くなかったように思う。
だから今度は私が、自分の手によって死に行く先生の頭を、心を込めてそっと撫でた。
「先生、ごめんね……またね……」
先生の呼吸が完全に止まり、罪悪感を押し殺し切れなくなった私が、自己満足の謝罪の言葉を口にする。
その時だった。
突如、ドタドタと慌ただしい足音が近づいてきたと思ったら、バン! と大きな音を立てて扉が開いた。
王太子の私室の扉をノックも無しに開けるとは、なかなか無作法な真似をする。
しかし、真っ先に部屋の中に飛び込んできた人物の顔を見たとたん、私はなるほどと納得した。
「ーー殿下! 王太子殿下、如何なされましたかっ!!」
蒼白な顔をしてそう叫んだのは、若い男だった。
彼こそが、今世の先生の幼馴染であり側近ーー王太子暗殺を私が所属する反社会的組織に依頼をした張本人。
ちなみに、側近の現在の役職名は近衛師団長で、王族の護衛を担う花形の仕事である。
ボスと仲介人が交わした契約では、日付が変わってから、夜回りの近衛兵がこの部屋を訪れて王太子の死体を発見する手筈になっていたはずだ。
それなのに約束の時間を待たず、しかも黒幕である側近本人が現場に踏み込んできたのは、何も彼が特別せっかちだからというわけではなさそうだった。
「貴様は何者だ! 殿下に何をしたっ!!」
側近は私に向って白々しくそう叫び、腰に提げていた剣を抜いた。
彼の背後からわらわらと現れた複数の近衛兵達も、つられたみたいに柄に手を掛ける。
どうやら側近は、〝王太子殿下を暗殺した現行犯を切り捨てる〟という名目で私の口を封じるつもりらしい。
もしかしたら、自分こそが黒幕だと私に悟られたことに気付いているのかもしれない。
そんな男の浅はかさを、私は嘲笑わずにはいられなかった。
だって、彼と先生の婚約者が、先生を――この国の王太子暗殺を計画したという証拠は、諸々の報告とともにすでにボスのもとに送ってあるのだから。
この場で私の口を封じたところで、彼らが反社会的組織に一生強請られる未来に変わりはない。
しかも、今のボスは仕事に対してはシビアだが、身内には滅法甘くて情の厚い人だ。
任務を見事完遂したにもかかわらず、依頼人によって部下が殺されたと知れば、その報復は熾烈を極めるだろう。
どちらにしろ、先生を裏切った側近も、身持ちの悪い婚約者も、私や先生以上に凄惨な末路を辿ることになるはずだ。
そんなことを、私は側近の男が振り上げた剣の軌道から逃れようともせずに考えていた。
磨かれた刀身が、部屋の中の灯りを反射してギラリと光る。
この時、私の自己防衛本能は完全にオフになっていた。
どうやら、生まれ変わった先生をこの手で死なせてしまったという事実に、私は自分が思う以上にショックを受けていたらしい。
今世の私の人生は、誰かを殺めることでしか成立しない。
だというのに、それを後悔してしまった時点で私はもう終わり。
ようは、今世に絶望したのだ。
後はただ両目を閉じて、大人しく二度目の死を受け入れようとしたーーその時だった。
ガキンーー!!
固いもの同士がぶつかる音が、私の頭上で上がった。
続いて、殿下っ……と、戦く声が前方から聞こえてくる。私を切り捨てようとした側近の声だ。
一体何ごとかと私が再び両目を開いたのと、背後から別の声が上がったのは同時だった。
「ーーどうした。幽霊でも見たような顔だな? 私が生きているのが不思議か?」
ばっと後ろを振り返れば、目と鼻の先にこの国の王太子のーー今世の先生の整った顔があった。
唖然とする私に、今さっき死に顔を晒したはずの先生がにやりと笑う。
ギチリ……と躙り合う音に頭上を見上げれば、私を一刀両断しようと振り下ろされた側近の剣を、先生の持つ剣が止めていた。
「王太子の人生というのはとかく物騒だな。枕の下には護身用の剣を隠して寝なければならないらしいーー信用していた側近に、いつ寝首をかかれても対処できるようにね」
「で、殿下、ご無事で……いや、でも、毒が……」
「へえ? 私が毒にやられたと? どうしてそう思う?」
「……っ、それ、はっ……」
側近は早々と墓穴を掘った。それを見逃すはずがない先生が畳み掛ける。
「ああ、そうだろうな。お前は私が毒を受けたと知っていて当然だろう。なにしろ、毒を塗ったナイフを携えたこの娘を送り込んだのは、お前なんだからな?」
「い、いえっ……そんな! 誤解です、殿下!!」
「おかしいと思ったんだ。いくらこの娘が手練でも、王宮の厳重な警備を擦り抜けて最上階にある私の部屋まで辿り着くのは容易ではない。おそらく手引きした者がいるのだろうと思ったがーーなるほど、近衛師団長のお前が融通を利かせたのならば簡単だったろうな」
「殿下、待ってください! 私はそんな女、知りません!!」
側近は必死に弁明しようとする。
そもそも彼のように死人に口無しを前提に計画を進めるのはとっても危険だ。だって、相手が思い通りに死人にならなければ、一気に形勢逆転されるのは目に見えているのだから。
案の定、先生は側近の言葉に聞く耳を持たず、おろおろしながら様子を見守っていた近衛兵達に向ってぴしゃりと命じた。
「この男を地下牢に連れていけ。王太子を殺そうと画策した国賊だ。それから、私の婚約者ーーあの女も拘束しろ」
先生の言葉を聞いたとたん、側近は我武者らに暴れ始めた。自らの部下でもある近衛兵達の手から逃れようとするが、所詮は多勢に無勢。
すぐさま取り押さえられた彼は、まるで親の敵のように先生を睨みつける。
十数年間築き上げてきた忠誠心は、恋心を前にして脆くも崩れ去ったらしい。
なぜ、公爵令嬢まで! 何の根拠もないまま拘束を命じるなんて横暴だ!!
そう喚く相手に冷ややかな笑みを返した先生は、ここまで傍観していた私の肩をぐっと抱いて告げた。
「あいにく、根拠も証拠も揃っているんだ。この娘がーー私の優秀な助手が頑張ってくれたからな」
側近の顔は、もはや真っ青になった。
そして近衛兵達によって連行されていく最中、私に向って「裏切り者!」と吼えた。
特大ブーメラン。乙です。
その後先生は、正体の知れない私を見ておろおろする近衛兵達を全員下がらせてから、部屋の扉に鍵をかけた。
ちょうどその時、壁掛け時計の長針と短針が、カチリ、と音を立てて重なった。
私の予想に反して日付を跨ぐことに成功した先生は、いてて……とぼやきながら脇腹を押さえてベッドに戻ってくる。
私はたまらず、尋ねた。
「ーー先生、どうして生きているんですか?」
私のナイフは確かに先生の脇腹に刺さった。血を拭って手当てをした時に、この目で傷口を確認している。
そこから体内に入った毒が、彼の身体を蝕んだはずだ。
それなのに、先生は生きていた。しかも、今はもうピンピンしている。
可能性があるとすれば、毒に耐性があったということだろう。
とはいえ、今回私が使ったのは森の魔女の新作で、あらかじめ解毒薬を服用しておかなければ即刻死に至るタイプなのに……。
ぐるぐると思考に囚われる私に、先生は前世みたく〝弁護士先生〟の顔になった。
「考えてもみなさい、バイトちゃん。今回の毒を作った魔女の住まいは、どこだったかな?」
「森……この国の、国境沿いの森の奥、です……」
「そう、国境沿い。あそこは国有地なのに、長年森の魔女が不法占拠している状態だった。これまでの国王は、魔女とトラブルを起こせば呪われるのではないかと恐れて放置してきたが、次の国王となる〝私〟はこの問題に切り込んだのさ。あいにく、呪いなんていう不確かなものは信じない質でね」
「さっきは、死んだら私のことを呪うって言ったくせに!」
私の抗議に、先生は鼻で笑って続ける。
「森の魔女には高額の賃料を払う余裕はなく、かといって立ち退こうにも他に行く場所がないと言う。そこで、彼女に提案したんだーー〝私〟に雇われてみないか、とね」
「え? 雇われてって……森の魔女が先生のお抱え薬師になってたってことですか!?」
先生の話によれば、土地の使用料を免除する上に、研究費という名目で資金援助までしているらしい。
というのも、毒ばかりが取り沙汰されるが、森の魔女の作る薬は民間薬としてこの国の庶民の間で重宝されているのだ。
次期国王である先生が彼女のスポンサーとなることで、国民は質の良い薬をより安価で手に入れられるようになっていた。
「毒を作ることは禁じていない。毒と薬は紙一重だからな。ただし、新たな毒を作った場合は早急にサンプルと解毒薬を提出するよう義務づけている。あとは、毒を売った場合の報告もね。以上のことは、〝私〟と森の魔女とが直々に交わした契約なので、側近も誰も知らないはずだ」
先生は森の魔女から毒を買った者がいる報告を受け、それが自分に対して使用される可能性を考えてあらかじめ解毒薬を服用していたのだ。
私に刺された後、先生が虫の息になったように見えたのは別に演技でも何でもなく、体内に入った毒の中和反応に伴う一時的な呼吸困難だったらしい。
そうとも知らず、冥土の土産にと求められるまま、ベラベラしゃべってしまった私のなんと滑稽なことか。
つまり、今回の私の任務は大失敗。
依頼者である側近も捕まってしまって、捨て身で任務を遂行する必要もなくなった。
「……私を、恨んでいますか?」
立場は完全に逆転した。先生と私の関係は、王太子とそれを殺そうとした暗殺者だ。
さっき自分が問われたのと同じ言葉を、私は先生に返す。
すると、先生もさっきの私をなぞるみたいに、いいや、と首を横に振った。
「〝終わったことをとやかく言ったってしょうがない〟だろう? 未練がましいのが性に合わないのは、俺も同じだよ。だったら、建設的な話をしようじゃないか」
先生は、私を捕えるつもりがないようだ。それは、この部屋から近衛兵達を下がらせたことが証明している。
おそらくは、私が先生を毒殺しようとしたことは元より、脇腹を刺した事実さえ隠蔽するつもりなのだろう。
私はひとまず反抗の意思がないのをアピールするために、凶器となった小型ナイフを差し出してその場で正座をした。ふかふかのベッドの上なのでちょっとばかり安定が悪いが、どうにかこうにか姿勢を正す。
対照的に、先生は胡座の上に片肘をついた行儀の悪い格好になって話を続けた。
「そういえば、バイトちゃん。君はさっき、随分面白いことを言っていたなーー確か、俺を一生可愛がってやるとか、なんとか」
「いやそれ、話を端折りすぎですから。私がしたのは来世の話ですよ? あくまで先生が、犬とか猫とかに生まれ変わった場合限定ですからね?」
「そんなあるかどうかも分からない来世の話をするなんて、現実主義者の君らしくないね。俺ならば、今世の君を一生側において可愛がると断言しよう」
「……へ?」
ぽかんとする私に、先生は満面の笑みを浮かべて畳み掛けてくる。
「知っての通り、今回の君の働きにより婚約者の席が空いたんだ。せっかくだから、君が座るといい」
「しょっ、正気ですか!? ショックのあまり、頭のネジが飛んじゃいました!? 確かに、古馴染みの側近さんと婚約者の方の裏切りは辛かったでしょうけど……」
「もちろん正気だけど? あいにく、前世を思い出した今となっては今世の人間関係に全然実感が湧かないんだよね。おかげで、婚約者は元より側近に対しても別段思い入れはない。今の俺にとって、彼らはただの謀反人さ。首を跳ねるのに一抹の迷いもない」
「殺意高っ! さすが超合金メンタル。さらりと薄情なことを言いますねー」
とはいえ、反社会的組織の構成員に過ぎない私などを、先生の婚約者にーー未来の王妃の席に座らせようなんて、正気の沙汰ではない。
ムリムリムリ! と、ちぎれそうなほど首を横に振る私に、先生は猫撫で声になって続けた。
「難しく考える必要はない。依頼人が、側近から俺に交代するだけだよ。今回のことは願ってもない好機だった。〝私〟はね、常々裏の繋がりが欲しいと思っていたんだ」
「これから国王になろうという人が反社会的組織と癒着するなんて、健全じゃないと思います」
「無数の国々が犇めくこの世界で一つの国を維持していくとなれば、綺麗事ばかり言ってはいられないんだよ。不健全で結構。魔女だろうがヤクザだろうが、利害が一致するならば手を組むのも厭わない」
「曲がりなりにも弁護士だった人の言葉とは思えませんね」
そう突っ込みを入れつつも、私は前世で先生がよく口にしていた言葉を思い出していた。
『弁護士は正義の味方ではない』
いや、もちろん正義のために戦う清廉潔白とした弁護士もいるだろう。
性善説を推したい私は、心の中でそう一言断って自分を慰める。
とはいえ実際のところ、弁護士は聖職者ではなくビジネスマンだ。彼らの多くは弱者のためではなく、依頼者のためにその高等スキルを発揮する。
だから、極悪人を弁護したならば、被害者からすれば弁護士もまた極悪人に見えて当然なのだ。
そりゃあ、恨まれるよね。
前世で私を撃ち殺した男が何者であったのか、先生にどれほどの恨みを抱いていたのか、その恨みが妥当であったのか否かも知らないが、少なくとも巻き込まれただけの私としては迷惑千万な話だ。
終わったことをとやかく言ったってしょうがないと宣言した以上は今更先生を恨むつもりはないが、今世においても懲りずに危ない橋を渡っていこうとしている彼に、私はため息を吐かずにはいられなかった。
この境地には覚えがある。
前世において、先生の仕事絡みで何度も危ない目にあって、今度こそアルバイトを辞めてやるんだと思いつつも、結局辞められなかった時の心境と同じだ。
時給が良くて先生がイケメンで、彼の作る賄いに胃袋を掴まれていたのも事実。
だが、私がアルバイトを辞める踏ん切りがつかなかった最大の要因は、自分が離れたとたんに先生が死んでしまうのではないかという不安を抱いたことだった。
今回は、たまたま私が毒に頼って脇腹を刺したから傷は浅かったが、最初から刺し殺すつもりで急所を突いていたならば先生は助からなかったかもしれない。
命を狙われる確率は、玉座に就けば今よりもさらに跳ね上がるだろう。
私は、あーあ、と声に出してため息を吐く。
前世も今世も、結局は先生を見捨てることなんてできないのだ。
そんな私の気も知らず、先生は自分の言葉が否定されるなんて微塵も思ってもいない、いっそ憎たらしいほど晴れやかな顔をして宣った。
「バイトちゃんのことは特別に思っているんだよ。前世では何人も人を雇ったけれど、最後まで俺のもとに居てくれたのは君だけだったからね。ねえ、こうして新たな人生で再会したことに運命を感じないかい? ちなみに俺は感じる」
「こんな理不尽な運命、勘弁してくださいよぅ……」
この後、紆余曲折を経た末に、私が所属する反社会的組織のボスは先生と同盟を結ぶことを承諾した。
私はボスから、とある国の亡き国王の隠し子という偽りの身分を与えられ、まんまとこの国の王太子妃の座に収まってしまったのだ。
いよいよ即位の日取りも決定し、先生は相変わらず敵を作りまくって邁進中。
おかげで私は、ボスとの橋渡しを務めつつ、慣れないドレスに四苦八苦しながら先生に降り掛かる火の粉を払う毎日にうんざりしている。
不本意なことに、私は今世もまた安らかな最期を迎えられる気がしない。
願わくば、せめてーー
「……来世こそは畳の上で死にたい」