悪役令嬢は死亡フラグから逃げられない!
悪役令嬢ものが書きたくて少し変わったヒーローを出したいと考えた末にオネェ様系魔王という変わり種が生まれました。御笑納下さい。
目の前に居たのは人の形をした美しい獣だった。
獣に人の道理が分かるのかと「彼」の圧倒的なまでの存在感に圧されていた青年。人という枠組みで美醜を計るとするなら輝くような金色の髪も、空を写したような群青の瞳も、冷淡なまでに整った造形の顔も美しい青年ではあったが。
青年と対峙する「彼」を前にすれば、幼子が描いた落書きのように見える。
「彼」の腕の中から目を見上げた先にある「彼」の造形はさながら名のある、それも後世に名を残すレベルの画家が生涯を賭けて描いた名画であった。
微かに吹く風に揺れ動く髪は夜の帳色、瞳は欠けることを知らない望月なら、肌は三賢人が捧げた乳香の甘く漂う煙だろうか。
なによりも美しい配列で各部位が収まる相貌は見るものに寒気すら覚えさせるほど整っていて人外めいてすらいた。
事実「彼」は人ではないことを僕は運が悪いことに知っていた。知っていたからこそ、酷く戸惑うのだ。
見せつけるように僕の頭に頬を寄せて、耳に甘く余韻を残すようなテノールで「彼」は笑い出す。
「躾がなってない子犬にきゃんきゃん吠えられても、これっぽっちも怖くなんかないわよぅ?まったく飼い主の顔が見たいものだと思わないダーリン!?」
「····土御門先輩は人間だよハニー。」
この「魔王」どういう訳かオネェ様である。凍り付いてく周囲を見ながら僕はがっちりとウェストをホールドしてくる魔王の腕から遠い目をした。
人生には多少の不運が付きまとうものである。
それは道端でガムを踏むような些細なものから、マンションのベランダで水撒きをしていた住人に水を頭からぶっかけられ着ていたシャツが濡れたり。
「芦屋メイ!今日この時をもって君との婚約を破棄させて貰おう!」
婚約を決めていた青年に婚約破棄を言い渡されるまで、実に多岐に渡るのである。
卒業祝いの学園主催のプロムナード。華やかに着飾る卒業生たちがペアの男子、あるいは女子をいまかいまかと待つダンスホール前。
「僕」もまたペアであるはずの男子生徒を待っていた。相手は婚約者、卒業と同時に籍をいれることになっている人物だ。
とある友人の薦めで滅多にほどかない三つ編みをほどいてハーフアップにして、分厚い瓶底眼鏡はコンタクトに。
服はこれまた友人の強い薦めで大胆に背中を晒すデザインのドレスを着ていた「僕」を見て待ち合わせていた彼は一瞬呆けたあと。腕に凭れている女子生徒を背に庇いながら冒頭の言葉を告げたのだ。
『だからアタシが言った通りになったじゃないのハニー。』
足下の影から二つの金色の目が僕を見上げる、賭けはアタシの勝ちよと笑う声に「僕」は力なく笑い婚約者たちに向き直る。
さて、客観的に見て、公衆の面前で婚約を破棄された場合において女性が取るべきことはなんだろうか。
例えば相手を罵倒すること。
生憎と目の前の青年は頭の出来がたいそうよろしい。僕が数少ない語彙を駆使して罵倒したところで、その百倍もある語彙を用いて返して来るだろう。
ならば別れたくないと泣きすがるべきか。
それは相手に僕に対する情が幾らかあった場合のみに通じる手段だろう。長年に渡って婚約者だった僕を放り出している時点で情など無いと見て良い、まさにこれ無情である。
上手く言えたがまったくもって面白くもない、笑えない冗談である。
もっとも本当に笑えないことは、この世界が「乙女ゲーム」の世界であり、僕こと芦屋メイが悪役令嬢という立ち位置にいることだろうか。
生まれたときから自分の立ち位置を理解している人間は居ないものだ、しかしながら何事も例外というものがある。
生まれながらに自分が求められている立ち位置、すなわち役割を僕は理解していた。それが幸運なことであったのか、不運なことであったのか。
自分自身では間違いなく不運だったと言わせて貰いたい。
なぜなら生まれたときから僕は将来、家同士で取り決めた婚約を公衆の面前で破棄され、親兄弟どころか一族郎党すべてから見放されて、最後には自分を裏切った婚約者に殺されることが既に決まって居たのだから。
それに気づいたときに僕は声を大にして嘆いたが、残念ながら乳幼児の僕の口から出た叫びはおしめが濡れて不快なのかしらと乳母の微笑ましげな笑みで黙殺されてしまったのだけれども。
もっとも生まれて間もない子供が明瞭に大人顔負けに世の不運を嘆いていればおかしな子供だと思われるものだ。ならば僕がこのとき喋れなかったのはいわば不幸中の幸であったのだろう。
乳母にあやされ再び揺りかごのなかに戻された僕は見た目通りの赤ん坊ではなかった、中身はもうすぐアラサーのオタク趣味にまみれた「私」だ。
言ってしまえばどこに出しても恥ずかしい喪女である。とは言え、オタクというだけで白目が向けられた激動の時代を生き抜いて来た経験から一般人に擬態することなどお手のものであり。
見た目だけならばインスタにパンケーキを投稿しちゃうお洒落女子を装っていた。もっとも、本人は生クリームましましのコジャレたパンケーキよりもコラボカフェのコースター付きのドリンクをしこたま飲みたいと思うような人間だった。
そんな「私」がゆるふわ女子の擬態を解ける自宅の安アパートのワンルームは言わばお城、またの名を魔窟と呼ぶのだが。
には歴代の嵌まっていたゲームや漫画がところせましと溢れていた。しかしオタク趣味に人間性を捧げてきた「私」にはまさに宝の山だったのだ。
そんな部屋のなかで、もっとも多くの関連グッズが置かれていたのが「あやかしにしき-愛しき吸血鬼に口づけを-」通称バンキスだ。
十年前に乙女ゲームの最大手の会社が発売したバンキス。有名どころの声優のフルボイスに美麗なスチル画、そして多重に張り巡らされた伏線の妙、キャラクター同士の関係性。
なによりも発売に先駆けキャラクターの原案画を描いた漫画家によるコミカライズで触れた奥深い物語性から、発売前にして多くの女子たちの心をバンキスは鷲掴みにしていた。
バンキスは架空の学校である「逢魔ヶ刻学園」に一人の転校生が現れるところからスタートする。
それが艶めくボブカットの桃色の髪に、若草色の瞳をした八重歯が特徴的なヒロインである姫宮皐月だ。
イギリスの貴族で妻子ある男が観光で訪れた日本の料亭で出逢った女性との間にもうけた女の子で、複雑な事情から母と二人暮らしで生きてきたが病気で母を亡くしたこと。
とき同じく本妻が亡くなったことを機に父であるイギリス貴族に引き取られ、なにかと煩いイギリスよりも環境が良い父の知り合いが学園長をしている全寮制の「逢魔ヶ刻学園」に転入してきた姫宮皐月。
だが彼女には決して知られてはいけない秘密があった。
彼女の父は中世から脈々と血を繋いできた吸血鬼の一族の当主であり、姫宮皐月は吸血鬼と人間のハーフであるダンピールだったのだ。
18歳になるとき姫宮皐月は吸血鬼として生きるか人間として生きるか決めなければならない。
彼女は自分がどちらで生きるべきか、誕生日を迎える卒業前のプロムナードの日までに考えることになる。だが姫宮皐月はこのとき知らずに居たのである。
逢魔ヶ刻学園にはダンピールである彼女だけでなく、一年にしてサッカー部エースのウェアウルフのハーフに始まり窓辺の貴公子と注目を集めるドライアドの孫、二年生でヨーロッパをかつて震撼させた黒魔術の使い手たる魔女の息子である双子たち、三年生でヒロインとはクラスメイトの剣道部の若き主将で不器用な天狗の末裔。
そして陰陽師の一族の御曹司にして九尾の狐の先祖返りといった一癖も二癖もある青年たちがいることを。姫宮皐月は時に彼らとぶつかり合いながらも友情を深めていき、何時しか恋に落ちる。
だが誕生日が近づくに連れて吸血鬼である姫宮皐月には抑えきれない吸血衝動に襲われるようになる。そして明かされる第二の秘密、望みさえすれば血を吸った相手を吸血鬼に変えられる力。
姫宮皐月の力を利用するべくイギリスから本妻の子であり次期当主たる生粋の吸血鬼が、そして学園の鬼門にある石塔を壊したことで長年に渡って封じられていた魔王が姫宮皐月の前には現れ。
学園存亡を賭けた戦いが始まるなかで果たして彼女は愛するあやかしと吸血鬼として悠久を生きていくのか、それとも人間として短い人の寿命を寄り添いながら生きるのか。
彼女が悩みながら下した決断は、というのがバンキスのメインストーリーだ。そうストーリーを聞くだけならば魅了的ではあるがどこにでもある乙女ゲームだった。
だがバンキスが他の追随を許さなかったものがある、それが蓋を開けてしまえばクソゲーだったことだ。
なにせ乙女ゲームの名を被った、ホラーアクションだったのだバンキスは。
逢魔ヶ刻学園はこの国の鬼門を封じるという裏の役目があり、学生や教員は裏門より現れて数多の仲間を闇に葬った人間たちを憎み、国家転覆を謀るあやかしたちを退治しなければいけないのだ。
そのために逢魔ヶ刻学園にはあやかしの血を引くもの達が集められていたのである。毒をもって毒を制するように、相手があやかしだというのならば、力あるあやかしをぶつける。
その見返りとして本来討伐すべきであるあやかしたち、つまりヒロインや攻略対象たちを学園は見逃し、人間社会での地位を保障していたのだ。
このことから昼間は乙女ゲームに相応しい輝かしい青春が送られるのに対して、放課後は学園の名であり、魔と出逢う時間に相応しくあやかしたちと繰り広げる血みどろのホラーに早変わり。
しかもだ、死に覚えゲーだったのだ。バトル時には昼間のうちに会話などで親密度を上げておいたキャラクターがランダムで助けに来てくれる、筈だった。
だが致命的なシステムバグで攻略キャラがバトル時に現れないためヒロインだけで挑むことになるが、ヒロインは基本的に回復スキルしか使えない。
あやかしとバトルするときは攻撃の他に説得と回避といったコマンドがあるが、説得を選択した場合は説得に応じたあやかしはヒロインの式神になる。
はずだったがバグにより基本的に説得してもあやかしは式神にはならず。ならばと回避で戦闘を避けると攻略キャラとの親密度が下がる。
必然的にバトルすることになるがヒロインは紙装甲と来ているうえ選べるはずの難易度は最初からルナティックモード、ヒロインの自爆による死で初日からバッドエンドを迎えるのだ、バンキスは。
だがそれだけなら、それだけならバンキスはただのクソゲーで終ったはずだ、しかしバンキスを語るうえで欠かせないのがヒロインのライバルキャラの理不尽な死である。
バンキスにはヒロインである姫宮皐月の他に攻略対象である陰陽師の一族の御曹司で土御門葉月という青年の婚約者がライバルキャラとして登場する。
ライバルキャラの名は芦屋メイ、名門の陰陽師の一族である土御門とは双璧をなす祓い屋の大家芦屋家の令嬢である。
アクションパートでは攻略キャラではないからか芦屋メイは普通にお助けキャラとして登場する。
また、ろくに攻撃手段をもたない姫宮に代わり、メイは自身がもっとも得意とする「魂鎮めの神楽舞」であやかしたちを祓う。
メイについて語るには、まず彼女の婚約者に触れなければならない。先祖に九尾の狐を持つ土御門家の御曹司葉月は、先祖返りから金髪碧眼の眉目秀麗た青年だ。
また美しいだけでなく学業の成績もよく、ヒロインが所属することになり、また裏ではあやかし退治の組織であるという生徒会の会長としてリーダーシップを発揮して学生らの支持も厚い。
そんな葉月の婚約者である芦屋メイは幼い頃から家同士の取り決めた婚約者だった。長きに渡り時の朝廷の寵愛を奪いあう関係からいがみあっていたという土御門家と芦屋家。
しかし、両家共に時を重ねるごとに一族の人間は陰陽師としての力が弱まっていた。そこで一族を復興させるために、歴代のなかで先祖帰りから祖たる九尾に迫る霊力がある葉月。
幼くして優れた術師として頭角を現していた芦屋メイの二人を添わせることで次代に希望を繋ごうとしたという経緯があった。
そこで葉月とメイが十歳になったとき、老舗の料亭で顔合わせが行われた。葉月としては自分の意思を無視して家同士で取り決められた婚約だ、迷惑だったのだろう。
親が挨拶をしている隙に式神と入れ替わり、料亭の庭園に葉月は逃げ出してしまう。誰もがそのことに気づかないなか、芦屋メイだけは入れ替わりに気づいていた。なにせ芦屋メイにとって葉月は、初恋の、忘れられない相手だったからだ。
まだメイが幼稚園生だったころ彼女の霊力に惹かれて園内に現れたあやかしに襲われ、まだ術師の修行を始めたばかりだったメイは他の生徒を庇うだけで精一杯だった。
だが拙いながら張った結界が破られ、異形のあやかしの鋭利な乱杭歯がメイを飲み込もうと開かれたそのとき、偶然幼稚園の側を車で通り掛かった葉月が身を挺してメイを助けたのだ。
膨大な霊力の扱いになれるため、既に術師として修行して実力を認められていた葉月にとってあやかしは恐れるには足りぬもの。
あやかしを歯牙にもかけず、退治したあとは家に学友を待たせているからとさっさと名も告げずに立ち去った葉月。
けれど、入り口に立ったばかりといえ術師であるメイには彼が土御門家の御曹司である葉月だとすぐに気づいた。メイは圧倒的な力量差を前に憧憬を覚えると同時に、颯爽と窮地を救った葉月に忘れられない恋をしたのだ。
もっともこの人助けは頼られることが多い葉月にはよくあることで、メイを助けたことなど葉月はこれっぽっちも覚えてなんかいなかった。
それでもあの日のお礼が言いたくて、庭園に逃げ出した葉月をメイは追い掛けた。
けれど追い掛けた先で見たのは料亭の中居をしていた母に忘れ物を届けに来て庭園に迷いこみ。
あやかしに襲われたところを葉月に助けられた、珍しい桃色の髪にいきいきと輝く若草色の瞳をした少女、ヒロインである姫宮皐月が彼の頬に口づけているところだった。
「私がいつか貴方のお嫁さんになってあげる!」
「君みたいな子だったら、僕としても大歓迎だよお嬢さん。」
仲睦まじい少女と少年のやり取りを見ながら、芦屋メイの初恋は告げることなく破れたのだ。
それでも何時かは自分を見てくれる、世の中には親の取り決めで仕方なく婚約をしたけど、後々には仲の良い夫婦となった人間はごまんといる。
現にメイの両親がそうだった、ならばいつか葉月と自分もそうなれると、そう信じてメイは葉月の隣に立つのに相応しい女性になろうと大人ですら眉をしかめる過酷な修練を積んだ。
時に全身の神経が焼け切れるような痛みに襲われ、臟腑が捩れて血を吐きながらも、メイは葉月の隣に立つことだけを夢見て術師として大成するまでになった。
その甲斐があって逢魔ヶ刻学園に通う頃には同年代の術師として葉月に実力を認められるようになる。
だが一人の女の子として葉月はメイを見てはくれない。
葉月は共に高みを目指す良き友人としては自分を見てくれる、いまはまだそれで十分だと、苦しい胸のうちを誤魔化していたあるとき、学園に一人の転校生が現れた。
それが姫宮皐月、あの日葉月に口づけた女の子だった。印象的な出逢いだったからか、葉月は姫宮が幼い頃に出逢った少女だとすぐに気づいた。
そのことに身の内が焼き爛れるような嫉妬の焔を感じながらも、葉月に放課後あやかし退治を行う生徒会役員として、元は一般人故にあやかしには不慣れだろう姫宮を助けるように言われ、メイは彼女を補佐することになる。
だが姫宮が偶然壊した石塔から解き放たれた無数の魔物、あやかしを越える最悪の敵、百年前に人類の前に立ちはだかった「魔王」に取り付かれ、操られるままにメイは国の鬼門を封じる学園を崩壊させるべく暗躍して。
物語の中盤に差し掛かり葉月ルートに入っていた場合は姫宮に血を吸われるだけでなく、姫宮を傷つけたことから葉月に肉体を灰になるまで霊狐の狐火で焼かれ殺される。
その後にメイを操っていた魔物の手懸かりを求めて彼女の部屋を姫宮が探索するパートがあり、そこでようやく遺品を片付けに来たメイの乳母、魔王に取り憑かれ学園の存亡を脅かした彼女は一族の人間には汚点としていなかったことにされ、乳母だけがメイの死を悼んでいたのだ。
その乳母により、彼女のバックボーンが語られることになる。姫宮の口からメイの真相を葉月は知るが、操られた彼女の仇を二人で取ろうと涙する姫宮を抱き締めるに留めた。
メイについて葉月が触れたのは、後にも先にもそれだけだったのだ。またメイの死でヒロインの第三の秘密が明かされることになる。
それが血を吸った相手の能力を奪うというもの、メイの血を吸い、身体に取り込んだことで彼女が得意としていた魂鎮めの神楽舞を姫宮は行えるようになる。
これによりアクションパートで姫宮は攻撃を行えるようになり、終盤では黒幕である魔王を退治するのに一役を買うことになる。
ちなみにヒロインのレベルアップのためか、全てのシナリオで必ずメイは姫宮の壊した石塔から解きはなれた魔物にとり憑かれ、相手が他の攻略対象になるだけで必ず殺される。
なおそのときはメイのバックボーンは葉月には語られない。何故ならば葉月を傷つけるだけだと言う配慮から。
その場合は葉月は学園からメイが消えても姫宮の実家に帰ったという言葉を鵜呑みにして詳しく探ろうともせず、終盤で黒幕と対峙して姫宮の神楽舞を見るに至り、ようやく真相を知るも自分のため優しい嘘をついたのだと姫宮に対する親密度パラが上がるというのだからたまったものではない。
ゲームをプレイした人間すべてに不憫にもほどがあるだろうと叫ばせた、そんなヒロインのライバルキャラに救いはないのかとゲーム会社に問い合わせが寄せられた。
そこで唯一メイが助かるシナリオがあることが明かされた、だがアクションパートのなかで特定のコマンド入力をしなければその隠されたシナリオに行くことが出来ないという。
そのうえ自力でたどり着けと言わんばかりにゲーム会社はそれから長く沈黙を保ち続け、実に十年間の時が流れることになる。
当時は花の十代だった私はご多分に漏れずバンキスに嵌まり芦屋メイの悲劇を大いに嘆いて、まさに躍起になって芦屋メイの生存ルートを探した。
けれど十年という月日のなかで私が大人になっても、芦屋メイの生存ルートは見つからないままで、だからバンキスファンの間ではあまりにも芦屋メイの死を嘆き暴動さえ起こしてしまいそうなファンたちを恐れて、ゲーム会社が芦屋メイの生存ルートがあるだなんて嘘を着いたのだと見なされていたぐらいだ。
『かーっ!やってらんないわあのセクハラ部長が!!』
あの日、私がまだオタク趣味のどこに出しても恥ずかしいアラサーの、ごくごく平凡なありふれた人間の一人である「私」だった最後の日。
上司の尻拭いで押し付けられた仕事を徹夜で片付け、一度着替えをしに自宅に戻ろうと始発の電車に乗り込んでいた。
始発の電車のなかでこれから出社する人、最終に乗れなくてこれから家に帰る人、あるいは朝早くから朝練に行く学生たちに混ざって「私」は眠気覚ましにと携帯からネットの海を漂う。
そこでバンキスのリメイクと共に、芦屋メイの生存ルートに行くための方法が公式から発表されたという記事を見つけ、思わず寝惚け眼を見開き記事をスクロールすべく指を走らせ。
『····なんだアレ?』
乗客の誰かが呟いた言葉に顔を上げた私が見たのは、車窓の向こう、背筋が粟立つほど不気味なまでに美しい七色のオーロラが空から降り注ぐ現実離れした景色で。
それが「私」が見た最後の光景になった。次の瞬間「私」が乗った電車は線路を踏み外し、強い衝撃に身体を打ち付けられたのを最後に「私」の意識は途切れ。
気がついたとき「私」は芦屋メイとして見覚えのある乳母、千代さんに抱かれていた。それが芦屋メイになった「僕」の始まりの記憶だった。
乳幼児の「僕」に成熟した大人だった「私」が入った影響だったのか、子供のころの僕は知恵熱を良く出して寝込んでいることが多かった。
オタクであった故に片寄ったものだったけれど膨大な知識のせいだと睨んでいる。けれど、芦屋メイの頭脳は、というよりかは子供特有のまっさらな脳は「私」の知識をスポンジのように吸収して幼稚園に上がる頃には寝込むことがなくなった。
幼稚園児にして大人顔負けの知識を得た僕は芦屋メイとしての役割を放棄しようと決意した、だって僕はまだ死にたくはない。
では死なないためにはどうすればいいのか考えたとき、芦屋メイの人生にあった分岐点に目を留めた。芦屋メイに分岐点があったとすれば土御門葉月と婚約者になったときだ。
葉月に対する恋心さえなければ、術師として過酷な修練をして術師として大成することもなく、術師としてヒロインの補佐を命じられ魔王に取り憑かれることもなかったはずなのだ。
それにファンの考察では芦屋メイが魔王に取り憑かれた原因は強い負の感情、ヒロインである姫宮皐月に対する嫉妬心があったからだとされていた。
つまり芦屋メイは、「僕」は葉月に恋をしなければ良い、当初こそ僕はそう考えていたんだ。それが芦屋メイの生存ルートが分からない以上、もっとも賢明な方法だと。
「私」の知識がなくったって僕には分かっていたはずだった、けれど昔の人はよく言ったものだ、抗い難いからこそ人はそれを運命と呼ぶのだと。
祓い屋の大家の娘として生まれたからには術師となるべく修行しなければならない。だが、術師としての修行は最低限に留めるつもりでいた。
ゲームでは芦屋家の後継ぎとして指名されていた「僕」だが、幸いにも僕には四人の兄弟が居た。ゲームでは末子でありながら兄より優れた術師になったが故に兄たちには疎まれていた「僕」だったけれど、葉月に会う前と言うこともあって兄弟仲は悪くはない。
長男で式神を操ることが得意でクールな春信兄さん、次男の卜占などの占いが得意で何時もにこやかな夏樹兄さん、三男と四男の結界術が得意で双子の無表情だけど感情豊かな千秋兄さんと千冬兄さん。
僕以上に芦屋家の後継ぎに相応しい人達が四人も居るのだから、僕が後継ぎになる必要はない。
それになにかと多忙な両親に代わり僕は兄様たちに育てられたようなもので、だからこそ彼らに疎まれないためにも僕は恋なんかしない、そう自分に言い聞かせていたはずだった。
「····何かあったのかメイ?」
登園するべく祓い屋をしながら商社に勤めているという春信兄さんが手を繋なぎながら歩いていた僕に問い掛けた。
「幼稚園行きたくない···」
「また、あの夢を見たのか。」
幼稚園に通うようになり僕は「僕」に待ち受けているイベントを回避すべく動いていた。そう、葉月に初めて出会ったときのあやかし襲撃事件だ。
兄様たちに夢を見たとして幼稚園にあやかしが襲撃してくることを告げたのが三日前、このとき占術を得意とする夏樹兄さんが僕の言葉に裏付けをくれた。
幼稚園に行きたくないと部屋から出てこない僕を安心させるため千秋兄さんと千冬兄さんに連れてこられた夏樹兄さんは、筮竹を操るに連れて表情を険しくさせた。
『難しいな。』
『夏樹が悩むほどのことなのか?』
僕の部屋で顔を突き合わせた兄様たちはいずれも何時もにこやかな夏樹兄さんの険しい顔つきに戸惑っていた。春信兄さんが話を促すとベッドの端に腰掛けた夏樹兄さんは自分の膝に乗せた僕の頭を撫でながら頷く。
『凶兆なれど吉兆なり。』
あやかしが幼稚園に襲撃する、という夢が本当になるかは分からない。だが少なくともメイの未来を左右する出来事が起こると占いには出た。指し示されたのは人との出逢い、この先早くて三日後にメイの未来を決める相手と出逢う。しかしその出逢いは凶兆であると同時に吉兆。
『単純に見れば深く傷つけられることになるが、幸せも与えられるということらしいが回避することは不可能。』
その未来を回避することは難しい、というより下手に手を出すとメイの命運は十八で尽きるとある。
『命運が尽きる、死ぬということか!?詳しいことは分からないのか夏樹!!』
『こんなに難しい占いは俺も初めてだからな。』
だからなにがあっても良いように備えておこうと夏樹兄さんが選んだパワーストーンを春信兄さんが削って、最後に千秋兄さんと千冬兄さんが力を籠めて作ったオニキスのブレスレットを僕は着けていた。
兄様たち渾身のブレスレットのお陰で僕の霊力は隠されて霊的なものは僕を見つけられないらしい。
これなら霊力を嗅ぎ付けてあやかしが幼稚園を襲撃することはないはずだ、そのはずなのに嫌な予感が拭えなくて僕は春信兄さんの手を強く握った。
幼稚園の門の前、むずがる僕に苦笑して春信兄さんは目線をあわせるようにしゃがみ額をあわせるように笑う。
「なにがあっても俺たちが、今度こそメイを守る。」
それとも俺たちでは心許ないか、そう告げた春信兄さんに不安なのは春信兄さんたちも一緒なのだと僕は首を振り、安心させるように笑った。大好きな兄様たちがついてるんだから僕は大丈夫さ。
「行ってくるね春信兄さん!」
幼稚園の門の前で待っていた教諭の手を取って歩き出した少女に春信は手に残る少女の熱を取り零すまいと、指の関節が白むほどに手を握り締める。
「守ってみせるさ、今度こそ守り抜くと俺たちは決めたんだから···!」
春信兄さんと別れ、幼稚園の学舎に入ると後ろから勢い良く抱き着いてきた男の子に、蛙が潰れたような声で僕は呻く。
「おはよー、メイちゃん!」
「八千代ちゃんもおはよう。」
八千代と僕に呼ばれた男の子は桃色の髪を揺らして、若草色の瞳を輝かせながら笑った。この男の子は僕の乳母である千代さんの一人息子だ。
人形のように整った顔立ちをした女の子のように可愛い彼、その相貌はヒロインである姫宮皐月に瓜二つ。だから千代さんに僕の遊び友達として芦屋家の屋敷に八千代ちゃんを連れてこられたときのことは、驚き過ぎてよく覚えていない。
正気づいたとき、なぜか八千代ちゃんが僕と腕を組みながら兄様たちと睨みあっていた。僕が意識を無くしていた間になにがあったというのか、今なお兄様たちが教えてくれないので真相は藪のなかだ。
当初は本当に姫宮皐月と関係ないのか疑心暗鬼に駆られたが、八千代ちゃんは千代さんの子であることは間違いなく、どうやら芦屋家の傍系の家出身であった千代さん親子が姫宮皐月と関係がないこともそれにより明らかになって。
多少の疑いは残しているが、いまでは仲の良い友達だ。けれど良くも悪くも大人びたといえば聞こえは良いが子供らしくはない僕と居てつまらなくないのだろうか。
「私はメイちゃんと居てつまらないなんて思ったことないよ?」
メイちゃんと居るとね胸がポカポカするんだもんと笑う八千代ちゃんに僕は照れ臭くて顔を反らしてしまったけれど。八千代ちゃんは僕にとって大事な友達だ、だから。
「八千代ちゃんを傷つけるなら、あやかしだろうと僕は絶対に許さない!!」
兄様たちが施した守りは完璧だった。けれど芦屋家の傍系としてわずかならがらも霊力を持っていた八千代ちゃんを目当てにあやかしが幼稚園に襲撃してきたとき、僕は迷うことなくあやかしから庇うように八千代ちゃんの前に立ちはだかった。
お遊戯の時間に襲ってきたあやかしたち。咄嗟に結界を張ったけれど何時まで持つか分からない。
「八千代ちゃん!」
だから兄様たちに貰ったブレスレットを僕は八千代ちゃんに渡す。これが有る限りあやかしは八千代ちゃんには近づけはしない。
「だ、ダメだよメイちゃん!だってこれメイちゃんのおにーさんたちがメイちゃんを守るために渡したんだよ!!」
「確かに、兄様たちは僕を守るためにブレスレットをくれた。」
だから僕は僕の「心」を守るためにブレスレットを使うんだ。八千代ちゃんが傷つけば僕の心も傷つく。だから八千代ちゃんを守ることで僕は自分の「心」を守るんだよ。
「僕のために君を守らせて八千代。」
度重なるあやかしたちの攻撃にヒビが入った結界から飛び出して、僕はあやかしを惹き付けるように走り出した。少しでも八千代ちゃんから遠ざかるように。
「や、やだよ!やだよメイちゃん!!メイちゃんが傷ついてまで私は守られたくない!!待って!行かないで!前みたいに私を置いていかないでメイちゃん!!メイちゃん!!!」
走る、走る、走る。少しでも人が居ない場所を目指して、路地裏を曲がり行き合った突き当たりの壁に拳を叩きつけ。荒い息を吐きながら僕は振り返る、黒だかりのあやかしたちがけたたましく笑いながら近づいて来る。
「此処まで、かな。」
諦めから目を閉じた僕にあやかしたちが襲い掛かる。その刹那、空気の燃える匂いを嗅いだ。
「弱い敵ほど群れたがるものだな。」
幾つもの蒼く揺らめく狐火を空中に浮かばせ、九尾の狐の先祖返りだという事実をその姿で示した少年。土御門葉月はあやかしを前に不敵に笑ったのだ。
葉月を敵とみなし襲い掛かったあやかしが狐火に焼かれ燃やされていく。塵も残さず燃やし尽くされたあやかしに僕は力が抜けて地面に座り込む。
「こんなものか。」
狐火を仕舞うと彼はそこでようやく座り込んだ僕を見て頭を掻いて手を差し出した、とても面倒臭そうに。
「あやかしに襲われた民間人を助けないとあれば土御門家の面目が立たないからな。」
「···助けてくれてありがとう。」
彼は仕方なくだからなと言いながらお礼を言った僕に耳を赤くする。お礼を言われ慣れていないらしい、そっけない態度だけど口の端が緩んでいて、僕は小さく笑う。
僕が知る「葉月」はもっと淡泊な質だと思っていたけれど、可愛いところもあるんだと胸に何かが込み上げた。
学友を家に待たせているからと彼は名前も告げずに行ってしまったけれど、胸に灯った火に、僕は路地裏の壁に背中を預けて顔を両手で覆う。
たった一度の出逢いだった。それも彼にとってはよくあることだと切り捨てられるような、にも関わらず僕は好きになってしまったんだ。何時か「僕」に死をもたらす彼を、土御門葉月という少年を。
幼稚園から報せが行き、八千代ちゃんの案内で僕を探しに来た兄様たちに僕は勢い良く頭を下げた。
「どうしても隣に立ちたい人が居るんだ!!」
だから僕に修行をつけてください。なにかを言いかけた春信兄さんを制して、千秋兄さんと千冬兄さんが僕にと話し掛ける。
「大人ですら血を吐く修行だ。」
「それでいて術師として大成するのは一握り。」
それでもやるのと問い掛けた千秋兄さんたちに僕は力強く頷いた。こうと決めると頑固なところ春信兄さんそっくりだと夏樹兄さんが笑う。
「だから春信兄さん、メイを認めてやって。」
未来はまだ定まっていない、もしかしたら俺たちが知らない未来がメイにはあるかもしれないじゃないか。
「いざというときは俺たちでメイを助け出せば良いんだからさ。」
夏樹兄さんが苦笑して険しい顔つきの春信兄さんの肩を叩いた。春信兄さんは溜め息を吐き出して後悔はないかと訊ねた。
「後悔したくないから僕は手を伸ばすんだよ。」
「····修行をつけるからには妹と言えど容赦はしない。」
「それじゃあ!」
「最初は修行を行うにあたって体力づくりから始める。」
それから僕は兄様たちに拝み屋として、術師として修行をつけて貰うことになる。春信兄さんの宣言通り修行は苛酷を極めた。
あまりにも辛い修行に弱音をはかなかったとは言わない。けれど不思議と誰かを、葉月を思い修行することは苦ではなかったんだ。
少しでも葉月に近づきたくて僕は修行に明け暮れた。そして十歳になるころ僕は芦屋家の後継ぎとして、優れた術師として認められて葉月の婚約相手に選ばれた。
そして見合い当日に連れて行かれた料亭で、僕は葉月と再会したんだ。
「僕を君は覚えているかい。」
「·····どこかであったことがあったか?」
つまらなそうに親同士の挨拶を見ていた葉月に僕は声をかけた。けれど葉月は僕のことを覚えてはいなかった。
だけどそれがなんだというんだ、覚えていないならこれから僕のことを覚えて貰えば良いんだ。
「僕は芦屋メイ!君の名前を教えてくれないか?」
「名前ぐらい親に聞いてないのか。」
「人から聞いたって意味がない、僕は君の口から名前を聞きたいんだ。」
「変な奴だな。」
仕方ないというように土御門葉月と告げた葉月にこれでようやく君の名を呼べると笑った。
そこで話が終われば良かったのだけれど、葉月は僕が席を外していた間に式神と入れ替わっていて、慌てて探しに庭園に向かうと「私」の記憶をなぞるように一人の少女が葉月の頬に口付けていたんだ。
「私がいつか貴方のお嫁さんになってあげる!」
「そう言うことは簡単に言うもんじゃない。」
けれど記憶の通りではないこともあった。
例えば少女の見た目。桃色の髪に若草色の瞳をしていたはずの姫宮皐月、けれど目の前の少女は可愛らしいがごくありふれた黒髪に黒目の容姿だ。違うと言えば葉月もゲームとは違って少女には少し素っ気なかったように思う。
記憶と異なる景色。もしかしたら未来は変えられるのだろうか。期待を胸に抱いた僕はその日から積極的に葉月に会うようになった。
当初は少しばかり煙たがられたけれど葉月が好きだと伝えることを惜しまない僕に何時しか諦めたのか、あるいは面倒臭くなったのかもしれないけれど葉月は隣に僕が居ても嫌がらなくなった。
だから舞い上がっていたんだ、未来は変えられたって僕は笑っていたんだからさ。
「いまの時期に転校生が?」
「メイちゃんがインフルエンザで休んでた三日前に転入してきたんだ。」
幼稚園の頃からの友人である八千代ちゃん。
高校生になり細い体つきは変わらないけれど、すっかり男の子らしくなった彼と逢魔ヶ刻学園に通学する途中、彼は思い出したように僕が休んでいた間に来たという少女について話し出す。
「····なんでもイギリスの名門貴族の血を引いているとかで名前は確か。」
「皐月ちゃーん!おーはよう!!」
「ふふ、朝早くから元気だね睦月君!」
サッカー部のエースでありウェアウルフのハーフ、大上睦月に抱き着かれながら笑う黒髪の少女。噂をすれば影だと八千代くんは彼女が転校生の姫宮皐月さんだよと僕に耳打ちをする。
(····違うと思っていたけれど彼女が姫宮皐月だったのか?)
不意に人込みのなか少女と目が通いあう。少女は僕を見て酷薄な笑みを浮かべて見せた。次の瞬間にはあどけない笑みを睦月君に向けていたけれど、僕は嫌な予感を胸に抱かずには居られなかった。
「復帰早々に悪いが、ひとつ頼まれごとをしてくれないか?」
「葉月が僕に頼みごとなんて珍しいね。」
放課後が迫る時間、生徒会副会長として生徒会室に顔を出した僕に葉月は後ろに控えていた少女と引き合わせた。
「彼女は姫宮皐月と言って、芦屋が休んでいたときに転校してきた学生だ。」
「はじめまして姫宮皐月です!」
我が校に早く馴れたいという本人の希望から欠員が出ていた書記として生徒会に入ることになったと葉月は言う。僕は葉月に生徒会に入るということはあやかしと戦うことだけど、本人は理解しているのかいと聞き返した。
「もちろん納得済みだ、本人自体は戦闘には向かないがヒーリング能力があるらしい。」
姫宮には補助に回って貰えば戦闘が格段に楽になる。とは言えつい最近まで一般人だった姫宮が実戦に慣れるまで時間が掛かる。戦闘に慣れさせるために同性である芦屋と組んで貰いたいんだが。
「すまないが頼まれてはくれないか?」
「あ、あの!一生懸命頑張りますのでご指導よろしくお願いします芦屋さん!」
張り切る姫宮さんに葉月は口許を緩め、頑張りすぎて怪我しないようになと彼女の頭を撫でる。年を重ねるごとに優秀であるがゆえに他者との間に壁を築くようになった葉月が見せた珍しい笑み。
僕はこのとき確かに、築き上げてきた僕たちの絆が崩壊する足音を聞いた気がしたんだ。
姫宮皐月という少女は驚くほど早く生徒会に馴染んだ。姫宮さんを追い掛けるように生徒会に入ってきて庶務をすることになったサッカー部の睦月君。
二年生で会計をしているドライアドの立花弥生君、同じく同学年の広報をしている魔女の息子である黒須無月君と在月君、三年生で剣道部主将でもある天狗の末裔で総務の風間卯月君。
そして生徒会長で九尾の狐の先祖返りである陰陽師の土御門葉月。いずれもあやかしの血を引くがゆえに人間に対して警戒心が強い彼等が姫宮さんには明け透けなぐらい心を開いていた。
そのことに言い知れない不安が込み上げる、なにか大事なものが手のひらから溢れ落ちるような、そんな不安が。
「最近、顔色が悪いよメイちゃん。」
「八千代ちゃん。」
授業がすべて終わり帰り支度を済ませるクラスメイトたち。そのなかで深く椅子に座ったまま動かない僕に、八千代ちゃんが駆け寄ってくる。メイちゃんは帰らないのと訊ねた八千代ちゃんに生徒会の仕事があるからと心苦しさを感じながら断る。
「····あの噂は本当だったんだね。」
生徒会メンバーが仕事をメイちゃんに押し付けてるって話。クラスメイトの喧騒が止まる、耳目が集まるなか、僕はそんなことないさと苦笑を溢す。
「放課後のあやかし退治はきちんと参加してるし。」
「姫宮さんに良い顔をするためにだよね?」
「そんなことは···」
「家にまで生徒会の書類を持って帰って、遅くまで仕事してるって春信さんたちから聞いてる。」
「兄様ったら、なにも八千代ちゃんにバラさなくったって。」
「···どうしてメイちゃんはそこまで頑張るの。」
私はメイちゃんがあの人たちに使い潰されるところなんて見たくない!!
声を震わせた八千代ちゃんに、言い辛いことを僕は八千代ちゃんの口から言わせてしまったと後悔した、それでも。
「それでも僕は葉月が好きなんだ。」
ごめんね八千代、君が僕を本気で案じてくれていることぐらい分かっているんだ。それでも、葉月のために出来ることがあるならなんだってしてやりたいって、思ってしまうんだ。
そう言って生徒会役員としてあやかし退治に向かう彼女を、八千代は手首に着けたオニキスのブレスレットを握り締めながら唇を血が滲むほどに噛み締める。
「私は許さないよ。」
メイちゃんを蔑ろにする土御門葉月も、私から名前と居場所を奪った「姫宮皐月」も、絶対に許したりしない。
日を重ねるごとに葉月は姫宮さんに惹かれているのが分かる。それでも僕は葉月が好きで、どうしたってこの恋を諦めることが出来ないんだ。例え死に瀕しているまさにいまこのときにも。
裏門に現れるあやかしを退治するため、生徒会役員として戦闘を繰り広げる最中、あやかしの攻撃を避けようとした姫宮さんを庇い学園の要石のひとつである石塔に葉月がぶつかった。
あやかしにより切り裂かれた腕から滴った葉月の血が石塔に触れたとき、無数の魔物が解き放たれてしまったのだ。
「あれは!」
溢れ出る瘴気のなか異形の魔物を従えながら現れたソレに葉月たちが息を飲んだ。
それはさながらに人の形で産み出された美しい獣。夜の帳のような黒髪を柔く後ろに撫で付け、欠けることを知らない望月のような金色の眸、怖じ気をもたらすほどに整った美しい相貌、黒衣の上からでも分かるしなやかに鍛えられた強靭な四肢。
だがその気配は獣のそれ。本能で決して勝てる相手ではないと悟る。その諦めにも似た感情を組み伏せて、ソレが差し向けた魔物たちを前に僕は神楽鈴を手にし、葉月たちを庇うように立つ。
原作のゲームでは石塔から解き放たれた魔物との戦闘は負けることが確定していた。どうあっても勝てない相手、だからこそ石塔戦は唯一親密度の下降を覚悟して回避することが推奨されていた。
だがそれはゲームでの話だ。ここは「現実」だ。例え負けると分かっていても戦わなければならない、後ろに誰よりも守りたいと思う相手がいるのならば。
「僕たちだけでは手がおえない!!ここは僕が抑えるから葉月たちは先生を呼んできてくれ!!」
「なっ!?だがそれではお前が!!」
「姫宮さんを死なせないためにも!!ここは逃げてくれ葉月!!!」
腕のなかで青ざめる姫宮さんに葉月は唇を噛んで彼女を抱えて走り出すのを見送り、葉月を追い掛けようとした魔物たちに神楽鈴を鳴らす。
柄から伸びる細布を左手に捧げ持ち、深く息を吸い目を閉じた。焦るな、焦りは隙を生む。魔物たちが押し寄せるその刹那。僕は閉じていた目を開き鈴の音にあわせて踊り出す。
拝み屋として、術師として僕がもっとも得意とするもの。それがゲーム「僕」と同じ魂鎮めの神楽舞だった。
神楽とはもとは神座が転じたもので、神宿るところにて舞をもって神を降ろすことが神楽舞だ。もっともこれから僕がしようとしているのは魔物を神に見立て、神楽舞を奉じることでこれを封じるというもの。
怖じ気を払うように僕は笑った。一世一代の大舞台と行こうじゃないか。血潮の音を囃子の代わりに舞い踊る。言祝ぐ祈りの歌を口ずさみ、荒ぶる御霊が和らぎたまうことを、ただ願う。
気がついたときには僕の周囲を取り囲んでいた魔物たちは姿を消していた。人の形をした獣を「魔王」を除いて。
「···生憎とアタシはアイツらと違って簡単には封じられてなんかあげられないわ。」
力尽きて地面に座り込む僕に歩み寄り顎を指先で上げさせ魔王が笑う。けれど誰か一人、このアタシに命を捧げるというのならばひとつだけ言うことを聞いてあげても良いわ。酷薄に釣り上げられた口許に僕は迷うことなく笑った。
「ならば、僕の命を持っていけ魔王。」
「死ぬのよ?随分と簡単に自分の命を投げ出すのね。」
「僕一人の命でカタがつくなら安いものさ。」
魔王はおかしげに笑い出す。これでもそう言えるのかしらと魔王は僕の額を指で叩く。思わず閉じた目を開けた僕が見たのは、先生を呼びに行ったはずの葉月と姫宮さんが抱き合っている姿だった。
「アンタ悔しくはないの?愛した男はとっくにアンタが死んだと思って他の女に愛を囁いているのに!」
頭を殴り付けられたような衝撃のなか、言葉で引き裂かれた痛みに思わず胸を押さえて声を溢した。
奪われた視界のなかで葉月は涙を流す姫宮さんに顔を近付け、やがて口づけ見詰めあう。途切れた光景を前に魔王は笑う。
「これでもアンタは自分の命を捧げるつもり?」
胸が苦しい、苦しくて堪らない。けれど本当は分かっていたんだ。葉月が僕をなんとも思ってなんかいないってこと。
それぐらい分かるさ。ずっと葉月の側に居たんだから。
だから気づいていた。葉月が姫宮さんに惹かれていることが。そのことに気づかされるたびに心は引き裂かれるように痛み、姫宮さんにどうしようもなく嫉妬して、何度も葉月から離れてくれと叫びそうになったこともあったんだ。それでも、それでも僕は。
「愛した人の幸せを祈れないほど愚かになるつもりはないんだ。」
泣きながら僕は笑う。苦しくて仕方がないのに僕はそれでも葉月が好きなんだよ、この命さえ捨ててしまえるほどに。そんな僕を愚かだとお前は笑えば良い。
「····バカな女。」
人間はどうしようもなく愚かで、だからこそ美しくもある。これだから人間は愛しくて仕方がないのよ。魔王はからかって悪かったわねと少し低い温度の指で僕の涙を拭った。
「封じられて腹が立ってたから、からかって見ただけよ。」
もっとも、アンタが嫉妬のあまり簡単に誰かを犠牲にするような子だったら、人間の質も落ちたものだと滅ぼしていたかもしれないけれど。
「アンタに免じて、もう一度だけ封じられてあげても良いわ。」
駆け付ける足音を聞きながら魔王は姿を消し、後には茫然とした僕だけが残された。こうして魔王は封じられた、そう表向きは。
「やっぱり時代はシークよ!」
灼熱の砂漠のなかにある異国情緒に溢れた街で出逢った異民族の青年とヒロイン、価値観の違いから衝突しながらも互いに認めあい仲を深めていきやがて恋に落ちるのよ。
きゃあと頬を染めて小説を抱き締めだす魔王、へたな乙女より乙女らしいが読んでいるのはハーレクインとはこれいかに。
芦屋の屋敷にある自室にて僕のベッドに横たわりながら鼻歌混じりにハーレクインを読む魔王。学園側には再び石塔に封じられたと思われてはいるが実際は少し違う。僕のなかに魔王は封じられているのだ。魔王は笑う。
「どこに封じられるか指定しなかったのはそちらの落ち度よ?」
かくして魔王は僕のなかに封じられた訳だが。いつでも僕のなかを飛び出して実体化出来るとあって、魔王はわりと杞憂気ままに過ごしている。
そのことを知っているのはいまのところ僕だけだ。魔王が身体のなかに居るなんて知られたら、魔王を利用しようと考える連中に命を狙われかねない。
現に一度は魔王が解き放たれたという情報をどこで仕入れたかは知らないが、良くない連中が学園に来るようになったらしい。
「というか、そのクソださい服はなんなの!?」
「ごく普通のシャツにフレアスカートだけど?」
魔王は僕の服装を眺めて三十点ねと笑顔で吐き捨てる。ダーリン若さがないわよ若さが。
若さが足りないって言われたってなあ。そんなにださいかとフレアスカートを摘まみ、ひそかに落ち込む僕に魔王は話を変えた。
「ねえ!高校を卒業したらお祝いに二人でドバイに行ってパーと豪遊しましょうよダーリン!!」
相変わらず突飛なことを言う魔王だ。とは言っても魔王との生活は割りと嫌じゃない。
修行に明け暮れていたこともあり、八千代ちゃん以外に気のおけない友人というものがいなかった僕にとって魔王は年上の友人みたいなものなのだ。
どういう訳か僕をダーリンって呼んでいるけれど。気になることは頑なに自分の名前を教えてくれないことだ。魔王が言うにはださいにもほどがあるから言いたくないのよ、だそうだ。何時か教えてくれないかなと思いながら僕は苦笑を溢す。
「残念だけど、高校を卒業したら芦屋家の後継ぎとして葉月に嫁ぐことになっている。」
お家復興のため土御門家と芦屋家はお互いの後継ぎを添わせる。そのことに変わりはない、例え葉月が姫宮さんを好きでも、お家のために僕たちの婚姻は必要不可欠なのだ。
「それに僕から婚姻を破棄することは出来ないんだ。」
今でこそ双璧と呼ばれてはいるけれど土御門家の家格は芦屋家より上なんだ、その関係上から僕が婚約を破棄したくても出来ないようになっているんだよ。
「つまりダーリンは婚約を破出来ないけれど、葉月っていう男はいくらでも婚約を破棄出来るのね。」
「葉月は、婚約を破棄したりしないよ。」
だって僕たちの婚約にはお家復興という長年の悲願が掛かっているんだから、それを投げ出すほど葉月は愚かではないはずだよ。ベッドに散らばった小説を片付けようと近づいた僕の腕を魔王が掴み覆い被さりながら笑う。
「···それなら私と賭けをしましょうか。」
「魔王?」
あの男は必ず婚約を破棄するわ、必ずよ。だから賭けをしましょう。私はあの男が婚約を破棄することに賭けるわ。
「もしその賭けに私が勝ったならその時は貴女は私のものよ。」
ぞっとするほどに美しい笑みを浮かべた魔王に、僕はどれだけ親しくても彼は魔王なのだと思い知らされたような気がした。
「もしその賭けに僕が勝ったら?」
「金輪際人の世に手を出さないと約束しましょう。」
けれど魔王はこのときには分かっていたのかもしれない。秘密裏に葉月が姫宮さんの父親に接触し、僕との婚約を破棄して姫宮さんを新たな婚約者としようとしていたことを。
「やっぱり変じゃないかな?」
『アタシがダーリンに似合うように見立てたドレスよう?バッチリ似合ってるから自信を持ちなさいな!』
魔王が解き放たれ以外は原作通りの道筋を辿って今日この日に学園主催のプロムナードが開催されることになった。
この日のために生徒会として準備に明け暮れていた僕は自分も参加することを忘れ、当日になってドレスを用意していないことに気づいた。
仕方無く母の御下がりである振り袖を着ようとした僕に待ったをかけたのが魔王、一体どこで手に入れてきたのか黒地に金の刺繍が施されたドレスを取り出して着付けてくれたのだ。
『本当に良く似合ってるわ。』
賭けなんて忘れて思わず拐いたくなるぐらいに、いまのダーリンは綺麗よ。
「なにかいったかい魔王?」
『こっちの話よ!』
プロムナードの会場前の控え室。プロムナードに参加するには男女のペアでなければならない。そのため控え室にはペアを組んだ学生たちで溢れかえっていた。
『そう言えばあの八千代ってボウヤが居ないみたいだけど。』
「八千代ちゃんは用事があるとかで不参加だってさ。」
『ふぅん?用事ねえ。』
それからどれだけ経ったのだろうか。待ち合わせ時間になってもペアである葉月は現れない。
このプロムナードは僕や葉月にとっては婚姻関係であることをお披露目する意味合いが強い、そのため必然的に葉月がペアになるのだが。控え室の入り口でわずかに起きた困惑の声に僕は顔を上げる。
そこにあったのは姫宮さんを抱き寄せながら歩いてくる葉月の姿だった。
「芦屋メイ!今日この時をもって君との婚約を破棄させて貰おう!」
恐れていたことが起こった。だというのに涙は不思議と流れなかった。心のどこかでは分かっていたのかもしれない。どうあっても葉月は自分を見ることはないと。
だから僕は愛してくれなくても良い、隣に立つことを許してくれるなら、僕はそれだけで幸せだからと。
ただそれだけを支えに生きてきた。それだけを僕は、僕は!
歪みだす視界を遮るように足下の影が揺らめき、少し低い温度の大きな手が目を塞ぐ。
「····まったく見てられないわよダーリン。」
驚愕の声が走る。突如として現れた魔王に控え室に居た学生たちが騒ぎだす。けれど、葉月には彼が何者かは分からないまでもただ者ではないと気づいたのだろう、姫宮さんを背に庇い睨み付ける。
「お前は何者だ!正体を現せ!!」
葉月が手に浮かべた狐火に思わず魔王を庇おうとした僕を制して、魔王はわざと葉月の狐火に身を投じて見せた。
「魔王!!」
狐火が身を包んだその刹那。強靭な四肢を持った獅子に似た獣が見えた気がした。獣は水を弾くように容易く火をふるい落とし。
「暖を取るには少しばかり生温かったわよ?」
元の背筋が粟立つほどに美しい人の姿を取ると悠然と僕の頭に頬を寄せて微笑んでみせたんだ。
「お前は何者なんだ···!」
「鈍い男ね。」
だからそんな見てくれだけしか取り柄がないような張りぼてに騙されるのよと魔王は吐き捨てた。
「俺の問いに答えろ!!」
「良いわ答えて上げる、しからば音に聞くが良い!我が名は神野悪五郎!!かつて山本五郎左衛門と魔王の頭の座を奪い合い勝利したる者の名である!!」
「····お前が、神野悪五郎だと!?」
かつて備後にて稲生平太郎という少年を三十日間に渡り怪異が襲ったという。様々な怪異に襲われながらも耐えに耐えた平太郎少年。
そして怪異の締めくくりに彼の前に現れたものこそ山本五郎左衛門。彼はとある人物と魔王の頭の座を賭けて日本を渡り歩いていた。その山本五郎左衛門が魔王の座を奪い合っていたものこそ神野悪五郎と言う存在だった。
「百年前のこと、魔王の座を賭けた勝負に挑み辛くも勝利するも山本五郎左衛門の奸計に嵌まり、人間たちに石塔に封じこめられていたのだ。」
-------今こそ長年の恨みを晴らすときなり!!
瘴気を吹きあらせながら笑う魔王は、けれども、なんてねと僕を抱き寄せて今更復讐しようだなんて思ってないわよと耳打ちして笑う。
「前にも言ったけれど人間のことはそんなに嫌いじゃないの。」
山本のショタコン野郎に出し抜かれたことは絶対に許さないけれど、山本に騙されていたと思えば人間を怒れないわよねと笑う魔王に僕は抱き着いた。
「だ、ダーリン!?いいいいきなり抱き着かれてもアタシまだ覚悟が出来てないわ!?こういうときはなんていうんだったかしら!??不束ものだけど末長く一緒に味噌汁飲みましょうだったかしら!!!???」
「····だって急に知らない人みたいになって怖かったから。」
あわあわと慌てていた魔王がピタリと固まる。魔王まで変わっちゃったんじゃないかって怖かったんだ。魔王の服を掴み頭を擦り付ける僕に魔王はもう少し配慮すべきだったわと僕の頭を撫でた。
「愛していたんですもの、少しずつ変わっていく様を見ているしか出来なかったのだから怖かったわよね。」
「本当は、止めたかった!止めて僕を見て欲しかった!!でもそれを口にしたら嫌われるって思ったらなにも、なにも言えなかった!!」
だって僕は葉月に嫌われたくなかった、僕を嫌いになって欲しくなかったんだ。その癖して葉月を変えた姫宮さんにはバカみたいに嫉妬してたんだから僕は臆病者の大馬鹿者だ。
「その臆病者の大馬鹿者だからアタシはダーリンを好きになったのよ。」
「魔王?」
「ふふ!賭けはアタシが勝ったわ!約束通り貴女は未来永劫に渡って私のものよ。」
魔王が僕を抱き上げて背中から突きだした巨大な翼を広げて地を蹴る。瘴気に阻まれながら葉月が叫ぶ。
「芦屋をどうするつもりだ魔王!!」
「この子はアンタを信じて我が身を賭けた、けれどアンタは想像以上に愚かでこの子は賭けに負けることになったわ。」
だからこの子には私の后になって貰うわ。例え肉体が滅びても未来永劫に渡りこの子は私のもの。
「私だけのものよ!後悔しても今更遅いわ!!」
風塵を巻き上げ空に消えた魔王たちに葉月は歯噛みする。すぐにでも追わねばならない。焦りを滲ませたことに葉月は戸惑う。
姫宮と交際するために邪魔な存在だったはずの芦屋。むしろ彼女が居なくなって清々しているはずではなかったか。不意に芦屋の笑みが頭を過る、なぜこんなにも息が苦しいのだろう。
「葉月君?」
何時も姫宮の笑みを見ると心が休まったはずなのに、どうしていまはなにも感じないのだろうか。
「やっぱりお前はメイちゃんを裏切った。」
ざわめきのなか皮肉を帯びた声が耳を打つ。着飾った学生たちのなかで、ただ一人だけ学生服に身を包んだ青年が葉月を睨み付けていた。その背後にはメイの兄弟が控えている。
「シンデレラは十二時の鐘で元の灰かぶりの姿に戻るっていうけど。」
お前は魔法が解けたら何になるんだろうな。八千代は、本来のヒロインになるはずだった少年は、顔を醜く歪ませた少女に獰猛な笑みを浮かべてみせた。
街の景色が見渡せる小高い丘。そこに危うげなく降りたった魔王は僕を腕から降ろして笑う。
「もう私しか居ないわ。」
だから泣いたって良いのよダーリン。魔王は僕を抱き寄せて頭を肩口に凭れさせて笑う。少し低い温度の指が僕の目尻を撫でる。それだけで流れなかったはずの涙が溢れ出した。
「好きだったんだ。」
「ええ。」
「ずっと葉月のことが好きで、好きでどうしようもなく好きで!!胸が張り裂けそうなぐらい僕は確かに愛していた!!」
愛していたんだ。そのはずなのに僕はどこで間違ってしまったんだろう。こうなる未来が来ないように頑張っていたはずだったのに。僕はなにを間違ってしまったんだ。それとも最初から僕は間違っていたのかな。
「人を好きになることに間違いなんてないわ。」
魔王は僕の頭に頬を寄せて背中を撫でる。ダーリンはなあんにも間違ってなんかいないわ。けれど言ってしまえば、相手が悪かったわね。ダーリンの愛よりも、あの小娘の張りぼての愛を選んでしまうんだから。
「張りぼて?」
「ダーリンは知らなかったみたいだけど、あの小娘ときたら裏では何人もの男に愛を囁いていたのよ。」
上手いこと顔を使い分けて囁く愛。それを張りぼてと言わずしてなにを張りぼてと言おうか。まあそれに気づかない男も馬鹿だけどね。
「これからどうしようかな。」
泣くだけ泣いて。涙が枯れる頃に泣き止んだ僕を膝に抱えて腰掛ける魔王を見上げる。あれだけ派手に逃げ出して来たんだ今更後に戻れはしない。
「帰りたいって言ったってアタシはダーリンを逃がさないわよ。」
「····えっと、あの后にするって本当だったんだ。」
「ダーリンったら!もう!本当の本当なのよ!」
「だって、その、魔王は恋愛対象は男だとばかり。」
「アタシ恋愛対象はバリバリ女よ?よく間違われるけれど。」
一目惚れってダーリンは信じてるかしら。アタシはずっと信じてなんか居なかったわ。魔王は僕の頬に手を添えて額をあわせて子供のように笑う。
「ダーリンと出逢うまではそんなものまやかしだって信じてなかったのよ。」
けれどダーリンと出逢って思い知らされたわ。抗い難いからこそ人はそれを運命って呼ぶんだってね。
「アタシを好きになってメイ。」
アタシは絶対にメイを悲しませたりしない、なにがあってもメイだけを愛するって誓えるわ。だから、だからアタシに貴女を、貴女の「心」をアタシに頂戴。
それ以外になにも望んだりしないから。だから。微かに頬に添えられていた彼の手は震えていた。その手を愛しいと思ってしまったから。
「僕の愛ってたぶん重いよ。」
「重いぐらいがちょうど良いから問題ないわね!」
むしろアタシの方が断然重たいわよとなぜか張り合う魔王に吹き出して僕は添えられた手に自分の手を重ねた。
「返品は受け付けないよ。」
「クーリングオフなんてするもんですか!」
存外にこの魔王ときたら俗世に染まっている。だけどこんな変わりものが僕にはあっているのだろう。嬉しそうに笑う魔王の首に僕は腕を回した。このときをもって「悪役令嬢」の芦屋メイは死んだ。
けれど僕の物語はまだまだ終わらないらしい。
「そう言えば夏樹兄さんの占いって当たったな。」
灼熱の砂漠だった土地を切り開き都市を築いた国で僕は思い出したように手を打つ。
「なにか言ったかしらダーリン?」
「占い通りになったなーって思っただけだよハニー。」
街中で駱駝に乗れるらしいわと目を輝かせて手招きする魔王に答えるように僕は笑って駆け出した。