おかしな銭湯
その銭湯は全くおかしな銭湯だった。
いや、銭湯がおかしかったというよりは、来た人が『おかしかった』という方が正しいのかもしれない。
その銭湯では和風の引き戸が、
中央から端に向かって開くようになっており、
一歩足を踏み入れると、
右側の壁を沿うようにして下駄箱が、
その下に靴を脱ぎ履きできるようにすのこが用意されていたのである。
そのため、私たちは、
玄関から入りたわいもない話をしながら、
すのこの上に靴を脱いで上がり、脱いだ靴を下駄箱に置いて風呂に入りに行った。
しばらく風呂につかり、脱衣場でしばらく涼んだのでもう帰ろうかと、
玄関まで来てみると、とても不思議な客がいた。
なんとその客は、
すのこを使わないようにわざわざ靴を脱いで下駄箱の上に乗り、
脱いだ靴を下駄箱に置いていたのだ。
私たちはとっさに『なんておかしな人なのだろう』とその人に聞こえないように二人でコソコソと笑った。
あんなに面白い客が来たのなら、次に来る人もきっとおかしいに違いない。
なぜかそういう確信があった。
なので、二人でその場でもう少し待つことにした。
次に来た客も、やっぱりおかしい人だった。
その人はなぜか靴べらがないと靴を脱ぎ履き出来ない人であった。
運動靴なのだから普通に脱げばいいのに。
また二人でクスクスと笑った。
そして、その次の客もおかしな客だった。
だが、この客だけは、今までのお客さんとなにかが違う感覚がした。
その客はかなりのご老人で、
口髭をサンタクロース並に蓄えていて、
なおかつ来ている服も、魔法使いが着るような白いローブを着ていた。
そして何故かこちらを見たまま、ずっと下駄箱の前で静止していたのである。
私はなかなかその場から動こうとしないご老人を不思議に思い、話しかけることにした。
「あなたは、なぜこちらに靴を脱いであがってこようとしないのでしょうか。」
私は聞いた。
その言葉でこちらをじっと見つめていたご老人の口が開き、
そこから年相応のしわがれた声音で、
言葉が紡がれるのを一つ一つ口の動きとともに見聞きした。
「だって玄関にあがったのならあなた方に笑われるじゃありませんか。」
ご老人は言った。
私は最初言われている意味が分からなかったが、
言われて初めて私はそれまで銭湯に来た人のことを、
笑っていたということに気がつきました。
だが、あれはおかしかったから笑ったのであって、
決して面白くなければ笑おうとも思わなかったのだ。
なので、私はご老人に、
「別に来る人全員に対して笑っているわけではないのです。おかしな方法で玄関から上がってくる方々がちょうど私たちの目の前に居たので笑っていただけなのです。」と言葉を返しました。
するとご老人は今まで真っ直ぐに見つめていたその瞳を暗闇に沈ませて、
「そうかそうか。では、私も玄関からしばらく動かなかったのだから、あなた方から見たらさぞやおかしな客なのだろう。だが、」
このご老人はこれ以上何を言おうとしているのだろう。
そして何を知っているのだろう。
いつもは心の奥底で眠っている本当の私がご老人の言葉に恐怖を感じ、
隣に友だちがいるということも忘れて、
足の先、手の先から心臓にかけて徐々に凍りついていくような気がした。
「どうして玄関では靴を脱いでからすのこに上がり、脱いだ靴を下駄箱に仕舞わなければおかしいのだろう。」
「どうして運動靴を靴べらを使って脱ぎ履きすることがおかしいのだろう。」
「それは本当に皆がおかしいと感じることなのかな。」
「そもそもあなた方の『おかしい』という感性は誰かの感性を真似したに過ぎないのではないのか。」
まるで、隣の友達に話しかけているのではなく、
私一人にご老人が語りかけているのではないのかという錯覚に陥りかけるほど、
ご老人の言葉に耳を傾けざるを得なかった。
だが黙って聞いていては、
自分の中にある長い年月をかけて今まで積み上げた大切な何かが、
音をたてて崩れていくような気がした。
そして大切な何かを失くした先にあるのは、
そのときの自分には到底理解できるものではなく、
そのとき抱いた自身の不安と恐怖が混ざり合い、
死よりも恐ろしいもののように感じられた。
だが、そんな取り乱した自分を、
友達の前にむざむざ曝け出すわけにもいかないと思い、
とっさに、
「真似ではなく、これはれっきとした自分自身から沸き起こった感情です。」
「ただの真似というのなら、」
「なぜ私たちは『おかしい』他者を自発的に見つけて、『おかしい』と自発的に笑えたのでしょうか。」
そう言い返した。
いや、言い返したなんてそんな大層なものではない。
これはただの継ぎ接ぎだらけのボロ雑巾よりも、
醜い自分自身の負けを認めたくないという理性なのだと感じられた。
「そうか。」
ご老人は私の考えとは裏腹に、
そうかとだけ返事をしてまるで、
私の次の言葉を待っているかのように黙り込んだ。
私にはまだご老人がそうかと言って黙り込んだ、
その動作を見て、私の言葉でこの人を説き伏せることができたのだと思い込んだ。
そしてそれと同時に今さっき抱いたばかりの恐怖すらも忘れ、
この人になら何を言っても大丈夫であろうという、
慢心を抱きだしていた。
「ですから、あなたの仰ることも一理あるとは思いますが、それが全てではないように思われるのです。」
「物事には良い面もあれば、悪い面もある。それは十分に理解しているつもりです。ですが、人間にはあなたの仰ったように理性だけでなく感性というものがある。私たちはそれに従ったまでなのです。」
「そうか。」
またもやご老人は私たちの言葉に頷いてみせた。
だが、今度の頷きは私たちに失望したかのような頷きに私には感じられた。
まるで私たちの言葉がその場しのぎであることを分かっているかのように、
ご老人は頷いてみせたあと、
言葉を刃物のように鋭くして私の心に突きつけてきた。
「だけど本当にあなた方の心はそれで納得しているのかい。」
「私にはただただ目を閉じて目の前の物事を見ないことで、重さのないものにしようとしているに過ぎないように見受けられる。」
「あなた方は『物事には良い面もあれば、悪い面もある』と言ったが、」
「それを言うのであれば、あなた方にも他者に笑われるような悪い面があるのではないのかね?」
「だが、それを」
「今のあなた方は自発的な感性を盾に無知であるが故の、」
「振りかざしてはいけない力を振りかざしているようにしか残念ながら見えなかった。」
「本当の自発的とは、自身が傍観者となり他者を比較するものではなく、自身も相手と同じ目線に立ち、他人に比較されながらも、認識し、認めようとするその心を表す言葉だと思うからね。」
「それが分からないのなら、やっぱりあなた方が言った『おかしい』という感性は真似に過ぎないんじゃないかと私には思えて仕方がないね。」
このご老人を説き伏せたことは自分の思い過ごしであり、
実はご老人は私がご老人の言葉に向き合うよりも深く、
私から発せられる言葉と向き合っていたのだと、
そこでようやく気がついた。
そして、ご老人が発する言葉が、
私が今しがた発したような付け焼刃の脆い言葉ではないのだと、
今しがたご老人の口をついて出てきた言葉は、
きっと長い年月をかけて、
このご老人自身の人生の中で見つけ出した言葉なのだろうと、
そう感じるだけの重さを持ち合わせていた。
「今のあなた方の『おかしい』という感性が誰かを真似ることによって生じているものだとするならば、」
「あなた方の今しがた行った行動にも納得がいくし、」
「なにより私には今のあなた方と、笑われていたその人達、」
「行動が違うだけで根本が同等だと感じたんだがな。」
ご老人はそう言うと普通にすのこの上に靴を脱いで上がり、
脱いだ靴を下駄箱を置いて男湯へと立ち去っていった。




