ルドルフ歴58年5月10日
「虚無と深淵の書」に記された慣らし用の没入の儀式に必要な道具と素材を全て集め終わった。
これらは慣らし用というよりもむしろ、アザムがこの秘術を見つけ出す過程、実験段階のものと思われる。
素材の中でも特に豚と馬の脳髄、それに人の死体の眼球が曲者だ。
新鮮なものを入手したつもりだが、二日目にして既に異臭を放ち始めている。
この素材が効力を失う前に儀式を終え、エセリアル界への探索を進めなければならない。
時間との勝負だ。
腐敗臭を嗅ぎつけて隣人が大家にチクりやがった。
最初は無視していたが、あまりにしつこくドアをドンドン叩くので仕方がなく顔を出した。
仕事で使う素材だと適当にごまかしたが、3日以内に素材を処分することを約束させられた。
まぁいい。
これがその役割を発揮するのはそのくらいが限度だろう。
本格的なエセリアル界への没入は一か月を超える期間になると書いてあった。
生の臓器はたやすく手に入り、準備出来るが短時間しか潜れないのだ。
そしてその程度の期間では本当に価値のある深層まで潜ることは出来ない。
まさに慣らし用といったところか。
儀式の下準備が終わった。
床には鳥の血を使い、外部との結界となるサークルと、この書物に図入りで記載のあった魔法陣を描き終わった。
おおよその内容は現代の我々魔術師が使うものと大差は無い。
これは基本的にはエレメンタルや悪魔の召喚円と同じ種類のものだろう。
根本的に違うのは、我々魔術師はそれら異界の生命が及ぼす得体のしれない力を封じ込め、サークルの外に居る自分の身を守る目的でサークルを描く。
だがアザムの魔法円は自分の肉体をその中に晒す為のものだ。
魔術の心得のある者であればその恐ろしさが分かるであろう。
まさに禁術、誰もやろうとしない事だ。
だがこれはアザムが自らを実験台に切り開いた道。
私は彼の後に続くのみ。
彼の偉大な秘術にこれから身を任せることになる。
なお、秘術の邪魔されないように玄関のドアが厳重にいくつも鍵をかけておいた。
太陽が沈み次第、私は初めてエセリアル界へと潜る。
衝撃的な体験であった。
そして危うく初日にして命を落としかけた。
何が起こったか、順番に記載する。
私は細工師に作らせた機械、一定間隔おきに鐘の音を鳴らす道具を作動させた。
そして魔法円の真ん中に寝転び、胎児の態勢を取った。
精神を鎮めながら「虚無と深淵の書」に記載されていた呪文を心の中で繰り返し唱え、陶酔状態に入ったのだ。
普段この季節の夜に感じる肌寒さが消え、体温と同じ程度の空気に包まれた。
いや、温度を感じなくなっていたのかもしれない。
そして頭の中に延々と鳴り響く金属音、例えるならば剣と剣のぶつかり合う音、それが音を同じ調子を維持しながらずっと鳴り響くような音が聞こえていた。
だがある時からその音がどんどん大きくなりはじめ、ついには耳を覆いたくなるような騒音へと変わった。
そして目を閉じ続けていたにもかかわらず、辺り一面が眩い光に包まれた。
少なくとも私はそう感じた。
そして次の瞬間、私は緑に輝く、どこまでも続く海の上、高さ2、3キロの空中を漂っていた。
そして眼下には小さな島があった。
アザムの記載した忠告に従っておいて本当によかった。
没入の際、エセリアル界のどこに出現するかはその時々で違う。
エセリアル界でのみ効力を発揮する、いくつかの単純な呪文を暗記していなければ、私は落下死していたことだろう。
空中浮遊の呪文を唱え、間一髪島への激突を間逃れたのだ。
ゆっくりと島に近づくにつれ、紫の水で満たされた海も近くに見えるようになった。
恐ろしい光景だった。
紫の水は我々の知る海と同じくさざ波を立てていたが、その海面下を泳ぐいくつもの影が確認出来た。
数十センチから数メートルの魚類と思われるものもいたが、長さ20メートルはあろうかというエイのような巨大な影もあちこちを泳いでいた。
そのうちいくつかは私へ近寄ろうと試み、島の浜辺にさえぎられて戻っていった。
もし下に島が無ければどうなっていたか。
考えるだけでも恐ろしい。
島に降り立った私は周囲を見回した。
この世界、少なくとも私の立っている場所には『汚さ』というものが無かったように思う。
形は不可思議なものばかりだったが、緑の下草が茂り、いくつもの木のようなものが立ち並ぶ。
そして完全に透明な小川が近くを流れていた。
この島に生えている木は奇妙で、幹だけがあって枝や葉が無い。
太陽の光を必要としないのかと私は空を見たが、空の3分の1を巨大な茶色い月が占めていた。
時間の問題かもしれないが太陽は見当たらなかった。
だが巨大な月のおかげか、周囲は真昼のように明るい。
木に近づいて触ろうとしたが、幹がうねり、その先端が私の方を向いたので慌てて飛びのいた。
ひょっとするとあのまま近くに居れば捕食されていたやも知れぬ。
この世界の知識が増えるまでうかつに動くことは控えることにする。
小川を眺めたが、体がガラスのように透き通った30センチほどの魚が何匹も泳いでいた。
私が水面に指を付けると一斉に振り向いて指へと向かって泳いできたので慌てて小川から離れた。
あれは確実に私の指を食おうとしていた。
これは間違いない。
この世界を探索するのに丸裸なのは無謀過ぎる。
何か身を守る物が必要だ。
自動で鐘を鳴らす機械が大きな音を放ち、私の周囲が霧に包まれ、私はこの世界へと戻ってきた。
全身が汗でびっしょりだった。
そしてこの細工の鐘が私の命綱なのだ。
「虚無と深淵の書」を呼んで分かっていたとはいえ、これに身を任せるというのは心細くて仕方がない。
これは体験しなければ想像すらしなかったであろう。
出来るだけ腕の良い職人に確かな品質のものを作ってもらう事という注意書きの意味を知った。
明日、もう少し準備をして再度潜ることにする。