《02》『教会』の『雨の魔女』
雨が降っている。
ただの雨ではない。
断続的に降り続けるその雨は、決して止むことはない。だからこそ、ここは『雨の国』と呼ばれているのだ。
そんな不思議なことが起きるのには、なにかカラクリがある。
それは吸血鬼も念頭に置いてここまでたどり着いた。
山を何個越えたのかも覚えていない。ただ、太陽の光が毒となる吸血鬼にとって桃源郷のようなこの国を求め続けてきた。
だが、この国に来て、初めて出会った人間に信じられないことを聴いてしまった。
「この国は、人為的に降らされているもの? しかも、たった一人の人間の手によって……? そんなの、信じられない……」
声に出してみても、やはり信じられない。
カラクリがあるとは思っていたが、魔法とは。
しかも、たった一人の人間の魔力で、国ごと雲で覆い、それから数十年も雨を降り続けさせることをやってのけているらしい。
そんなことありえるのか。
ありえたとして、一体そいつはどれだけ老熟した魔法使いなのか。天賦の才があるからとか、そんな陳腐な言葉では片づけられないほどの才覚の持ち主だ。
――それらの事情を聴いたのは、眼前の老婆。
腰を折って、杖をついている。
身にまとう空気から、この国には長い間住んでいたことが分かる。もしかしたら、生まれた時からこの国を一歩もでていないのではないのか。それぐらい、この国のじめじめした空気と同化している。
「……あやつは人間じゃない」
闇の底から聴こえてくるような、しわがれた声。
子どもではない、あらゆることを経験してきたことは顔に刻まれた皺からも分かる。そんな彼女が、ガタガタと上の歯と下の歯を合わせることができないほど恐怖している。
「なんだって……?」
尋常ではない怯え方をしている老婆は、眼を限界まで見開いて、
「『魔女』(ばけもの)さ」
たった一人の魔法使いをそう称した。
「もう聞きたいことはないのか? 悪いが、もうわたしぁ、あんな奴のことを話したくないんだ。よそ者のあんたはとっととこの国からでていくことだね。……あの魔女に呪われないうちにね……」
どうやら思った以上に、ここでは魔女は忌避の存在らしい。
だが、だとしたら大きな疑問が発生する。
「おい! なんであんたはここから逃げないんだ!? 呪われるかもしれないんだろ!?」
「わたし達のご先祖ざまがずっと守ってきた土地だ。それをわたし達が見捨てるわけにはいくめぇよ」
去り際にそういって、どこかに消えて行った。
フラフラになりながら、ぼろい傘をさしてどこに向かうのか? 決まっている。自分の家だ。逃げないし、きっと逃げられないのだろう。
「継承されるものか……。吸血鬼にもあるが、命短し人間はより大事にしている連中が多いのか……?」
自分の命よりも、土地を大切にする。
その土地を、雨で汚している者がいれば、それは悪の象徴となりうるだろう。
雨は適度であれば、恵みの雨となる。
乾いた土地には薬となる。
だが、過度の薬は毒となる。
泥だらけのこの土地が水没していないのは、ひとえにこの国に住んでいる者達の努力の賜物だろう。あちこちに水を流すための水路を掘ってあったり、高い壁をつくって川が氾濫しないようにしている。
みんな、ここで生きようとしている。
魔女を憎みながらも、懸命に。
「……予定変更だ」
吸血鬼は不老不死の化け物。
同じ場所に長い期間滞在することはできない。
人間ならば、子どもからおじいちゃんになるまでの期間――吸血鬼は若い姿のまま生き続けることになる。そうすれば、吸血鬼であることが馬鹿でも分かってしまう。
だからこそ、『雨の国』では十年ぐらい、人目の付かないところに住もうと計画していた。だけど、永遠に降り続ける雨のカラクリが、たった一人の魔法使いにあるのならば話は違ってくる。
「手に入れてみせる。――その魔法の力を」
吸血鬼は魔法を使えない。だが、魔法に近いことはできる。
肉体再生能力。
肉体変換能力。
……など、魔法ではないが、普通の人間ではできないことが数多くできるのだ。だったら、吸血鬼にも雨を降らせることはできるのではないのか。できなかったとしても、とびっきりの考えがある。
「……ここが、『雨の魔女』の住処か……」
考え事をしながら歩いていると、あの老婆が言っていた場所に辿りついた。
独りで住んでいるにしてはかなり大きく、全容を確かめるためには見上げてしまうしかない。しかも、ただの家ではなく、ここは教会だ。
「よりにもよって教会とは……。魔除けの十字架までご丁寧にあるな……」
別に屋根の上についている十字架で死ぬわけではない。
だが、拷問を受けている時に、執拗に十字架を向けられていたのだ。自然と嫌悪感が湧いてしまう。
ギギィ、と木の扉を開けると、そこは礼拝堂。
等間隔に長椅子が並んでいる。
だが、壊れているものもあって、寂れているようだ。
教会としてしっかり機能しているのかも疑問だ。人の気配というものを感じることなく、歩いていくと、
「……どなたですか?」
一人の女が座っていた。
手を重ねながら、まるで神の銅像に祈るようにして正座していた。
この驚き方から察するに、やはりここには人間が寄り付かないようだ。
蝋燭もついていない、ほとんどが闇でどっぷりと浸かっている空間。それだけならば、夜目が効く吸血鬼には彼女が見えていた。だが、生憎と吸血鬼としての力が弱まっている。今は普通の人間よりも少しばかり腕力があるぐらいのもの。だから、女がどういう人間なのかがあまり見えない。
「お前が『雨の魔女』か? 俺はお前の全てを奪う者だ」
「え……?」
「お前の魔法も、お前の存在も、俺がこれからの人生を生きることに、必要不可欠なものなんだよ。俺はお前の全てが欲しい」
まどろっこしいことは嫌いだ。
単刀直入にこちらの要求だけを叩きつける。恐らく、相手はこちらの意見など突っぱねるだろうが、そんなものは関係ない。だが、
「……よかった」
彼女は、安堵の表情を浮かべていた。
ポタポタ、と滴が落ちる音がする。
どこか天井に穴が開いていると思った。
だが、その雨は、天井からではない。
降っていたのは、彼女の瞳からだった。
だけど、哀しいから流しているのではない。それどころか、嬉しそうだった。
「アメリアの唯一神は、やっと咎人である私に断罪の使徒を送ってくださった。ようやく仮初めの人生の苦しみから解放されて、永遠の安息に身を落とすことができる。ようやく私を――」
不審に思いながら、吸血鬼は一歩前進する。
ビシャア、と一瞬雷が落ちる。そのせいで、一瞬眼が眩んだが、瞳を開けると、そこにいた魔女の姿がはっきりと映る。
「……あ……」
思わず、立ちすくんでしまった。
そこにいたのは、老熟した魔女などではなかった。
「殺してくれるんですね、神様――」
瞳にかかるまで長い髪をしている魔女は、きっと生まれてから髪を切ったことなどほとんどないのだろう。
服は質素なもので、ところどころ穴が開いている。
確かに魔女とふさわしい風体をしているけれど、想像とはまるで正反対だ。なぜなら、
「あ、『雨の魔女』が餓鬼だとっ!?」
どこからどう見ても、少しおかしな子どものようだった。
殺されたい魔女と、死ねない吸血鬼。
これが、初めての邂逅だった。