《01》『桜の木の下』の『みすぼらしい吸血鬼』
涙がでそうだった。
頭上から降り注ぐ太陽光のシャワーに曝されて、眼球から水分が枯渇しそうだ。梢の隙間から微妙に突き刺さってくるのが気に喰わない。
だけど、桜は好きだった。
高く、高く。
男の身長よりもずっと高く聳える桜の木は立派なもので、どっしりと腰かけることができる。いつまでもここにいたかった。このままずっとこの場に居座って、そして――
死にたかった。
そんなことを思ってしまう男は既に『死に体』であって、生きているとは言えない。既に死んでしまっている。心が、身体が。どこまでも腐っている。それでも動くものだから、生きている者だから、『動く死体』なのだろう。
「…………あ…………」
今日初めて。いや、ここ数か月ほど声を発さなかったせいで、喉が張り付いてしまっている。まともに発声できないし、したくもない。本当は一言たりとも喋りたくなかったけれど、それでも声を発してしまったのは、ペロペロと舌で舐められる感触があったからだ。
「なん……だ……?」
羊だった。
もふもふとしている羊の毛は柔らかく、そしてこそばゆい。食べたら美味しいんだろうが、生憎食欲などない。
「メリー! 勝手にいかないの! あなたがいないと私困るんだからー! あっ――」
羊を追いかけてきたであろう人間は、まだあどけない少女だ。
恐らく、6、7歳ぐらいの年齢だろうか。
麦で編んだ帽子を被りながら、長い髪を揺らす。驚愕の瞳を見ひらいている彼女の眼球には、みすぼらしい恰好でいる男が写る。
大人を呼ばれると厄介なことになる。
首の骨でも折って静かにさせておこうか。
「おじちゃん、大丈夫? 病気?」
「お、おじちゃん? い、いや、年齢的にはおじちゃんどころか、おじいちゃんであっているのか」
人外扱いされるのは慣れっこだ。だが、唐突におじちゃん扱いされるのも、結構傷つくものだ。
「病気……ではない。大丈夫だから、さっさとどっかに行け」
「ごめんなさい。メリーは私の相棒なんだけど、すぐどっかに行っちゃうの。でも、私以外の人に懐くのって珍しいんだよ」
「聴こえなかったのか? 俺はどこかに行けと――ゴホゴホッ」
「お、おじちゃん、大丈夫?」
「だ、大丈夫だ。最近人と喋ってなかったからな。いきなりこんなに喋ってむせただけだ」
「へえ。おじちゃんって家族はいないの?」
「いない。……お前は?」
「えっ、ここにはいないよ」
「そうか……」
ならば、すぐさま窮地に陥るといったことにはならないか。
人間に銃で追い回されたりしたことは一度や二度ではない。なにがきっかけで自らの正体が暴かれるか分からない以上、人との接触は最低限に抑えておきたいのだ。
「ねえ、ねえ。おじちゃんってどこからきたの? どこの人? ここらへんの人じゃないでしょ?」
「それを訊いてどうする?」
「どうもしない。ただ私が訊きたいだけ。おじちゃんのこと知りたいだけ。ね、ね、教えてよ!」
耳元で大声を出す面倒な子どもだ。
羊は羊でペロペロ指の股をざらざらした舌でさらに舐めてくるし……。
だが、ここで身の上話をすれば、どこかに行ってくれるだろう。
「そうだな。どこから来たかといわれても、あんまり覚えていないんだ。どうやってここにたどり着いたのか。どうしてここにいるのか、俺自身分からない。記憶がはっきりしているのは、今から百年ぐらい前のことだ。なんだったら、その時の話をしようか」
「百年!? おじちゃんってそんな年なの? 嘘だー。私より十歳ぐらいしか違わないぐらいに見えるよ」
「信じなくてもいい。だが、これから話すことは全部本当の話だ。今から百年ぐらい前、俺は確かに彼女に出会ったんだ。そう、ここから遠く、そしてもう滅びてしまった国――『雨の国』で」
たまには真面目な作品を書きたいと思って、書き始めようと思いました。
不定期更新になると思います。