嫁の故郷が分からない
柄にもなく震える手をそろそろと伸ばし、目の前の彼女に触れると、癖のない長い黒髪がさらりと揺れた。
ただ一人の雌に焦がれるのは、狼の獣人としての習性か、それとも己自身の持って生まれた特性か。
イロハ、とその名を発音すれば、幼げな容貌にいつもの微笑を湛えた彼女は、はい、と小首を傾げ、ヴォルフの目を見返してくる。
恋した相手に求婚するという行為において、出会って一年という期間が長いのか短いのか、これまで人間との交流経験が極端に少なかったヴォルフには分からない。
けれど、いつだってひどく真っ直ぐに己の目を見つめ返してくれるこの一対の黒瞳が、自分の傍から失われることなど考えられないと、今の彼には思えてならないから。
イロハ、ともう一度、不可思議で柔らかな響きを持つ彼女の名前を口にする。
「本当に良いのか」
――女々しいと。
そう思わないわけではない。
「お前の伴侶が、生涯を共にする相手が、俺で」
獣人であった亡き父が、人間であった亡き母を娶った時も、こんな気持ちだったのだろうか。
自分に自信のないヴォルフの胸には、イロハの想いが本当に自分の上にあるのか、際限なく不安が沸き起こる。
彼女が傍にいてくれると言ったのは、愛ではなく世間から隔てられた孤独な獣人への哀れみ故なのではないか。或いはたまたま彼女を保護したのが自分だったから、自分を選ぶ以外の選択肢がなかっただけなのではないかと。
彼女がはっきりと求婚に頷いてくれた今になって、それでも尚信じ切れず、何度も何度も繰り返し、ヴォルフは肯定の言葉を求めて縋る。
情けなく眉が下がっていることが、ヴォルフ自身にも分かっていた。視界に入らない尻尾すらも力なく垂れているような気がして、己はこんな時にまで格好が付かないと、もどかしい思いがただ募る。
――獣人が蔑視などされていなければ、或いは己もまた彼女と同じ人間であったならば、こんなにも無様な姿を晒すことはなかったのだろうか。
獣人としてこの世に生を受け、裏切られたことも傷付けられたことも、数え切れないほどにある。
だからこそ、いつかの日々に刻み込まれた人々のように、今も尚乾いた傷跡となって記憶に残る人々のように。
生まれて初めて恋うた人が、自分とつがったことを後悔する日が――獣人である自分を厭う日が来ることが。
今のヴォルフには、死ぬほど怖いのだ。
「――大丈夫ですよ」
けれど。
そんなヴォルフの不安を包み込むように、イロハは整った顔を緩ませてふんわりと笑った。
やや垂れ目で彫りの浅い彼女の顔立ちはどこか清廉な印象で、けれど笑うと花が綻ぶように優しくなる。確かな温もりと恋情の垣間見える瞳で、イロハは己に触れるヴォルフの手をそっと握り返した。
「私があなたを好いていて、あなたも私を好いてくれた。ならば、他にどんな隔たりがあるんです。少々種族が違うくらい、何の問題もありませんよ。――繁殖さえきちんと出来るなら」
「価値基準が俺より動物的なんだが」
思わずツッコんだ。
あまりと言えばあまりの現実的な台詞に、一瞬ヴォルフの思考が停止する。
しかし彼女はぱちりと瞬きをして、「普通のことではないんですか?」と問うてきた。
「正常な生殖行為で子供が出来るということは、生物としてつがうに問題ないという大きな証明になりますし。それに子孫を残すのは生き物として最低限の義務だと、母が常々言っていました」
「あー……。何て言うかその、野性的な母さんだな……」
「そもそも我が国では、異類婚姻譚など別に珍しくもありませんよ。昔は蛇や狐、狼や、山そのものの化身としての神様に嫁ぐ話も多くありましたし、江戸時代にはタコ姦なんぞというものも現れ、子供の夢が一杯詰まったどこぞの携帯獣ですら、昔は人とつがうことがあったと公式に明記されているのです。現在は美形であるだけでは飽きたらず、けもみみが付いていないと萌えないという調教された歴戦の猛者だっていますよ。種族が違う? むしろそれがいいと鼻息を荒げる大きいお友達の多いこと多いこと」
「あの、凄く今更だけどお前の故郷って何なの?」
今明かされる衝撃の真実。懐郷心に囚われて今共にいる自分を拒絶して欲しくないという理由で努めてイロハの過去を聞いてこなかった自分の選択を、ヴォルフは初めてちょっと後悔した。
同時に、自分たちと同じく狼獣人の雄と人間の雌であった両親の例に感謝する。
ありがとう父さん母さん、ちゃんとこの組み合わせで子供が出来るって証明してくれて!
「そ、それだけじゃないぞ。この地域は獣人への忌避感も残ってるから、俺と結婚するならイロハも山奥に籠もらなきゃならない。お前はまだ若いのに、俺はお前をこの家に閉じ込めたまま、街に遊びに連れて行ってやることも出来ないんだ」
「それも大丈夫ですよ。むしろ引きこもりバッチコイ」
「ええええええ」
「私の故郷は、およそ神代には太陽の女神たる天照大神が天岩戸に引きこもり、三百年ほど前には一国総出で鎖国という名の引きこもりをかまし、今は蔓延する若者の引きこもりニート増加が社会問題になっているという、筋金入りの引きこもり国家ですよ。ちなみに私の趣味は読書と家庭菜園です。アウトドアでの人間関係はむしろ億劫」
「み、見事にインドア! 何だかんだ理由を付けて外出させようとしなかった俺に、一度も逆らわなかったのはそういうことだったのか! いや俺的にはありがたいんだが!」
愕然とした声を上げるヴォルフに、イロハはころころ愛らしく笑った。凄く可愛い、凄く可愛いんだけど!
「ヴォルフさん」
落ち着いた声で呼ばれて、イロハの手がヴォルフの頭に伸びた。
咄嗟に唇を引き結んだ精悍な顔の上、人ならざるものの証として生えた三角形の耳が、彼女の小さな手に触れられてビクッと震える。
黒みがかった灰色の毛皮に覆われた耳を優しく撫でて、イロハは黒い双眸を穏やかに細めた。
「獣人であろうと街に出られなかろうと、私は一向に構いませんよ。私を助けてくれたのは、右も左も分からない私を拾って面倒を見て、名乗ることもままならなかった私に一から言葉を教えて、怖い夢を見た夜には黙って寄り添って、不器用に慰めて手を引いて抱き締めて、私に恋までしてくれたのは、私が恋をして、母さんの教え通り子孫を残したいと思った相手は、他の誰でもないあなたですもの」
それで良いじゃないですか。
――それだけで充分じゃないですか。
「私を好きになって、私を選んでくださってありがとうございます。愛していますよ、ヴォルフさん」
ほんのりと頬を染め、笑ってそんなことを告白されて。
――それが限界だった。
無言でぎゅっと眉を寄せ、飛び付くように彼女を抱き締めたヴォルフに、イロハはあらあらとまた微笑んだ。
「私、あなたの耳も尻尾も好きですよ。たとえここに誰がやって来たって、笑顔であなたを旦那様だと紹介できます。文句を言う人がいたら、私がこの手で締め上げてやりますから。――ああほら、そんなに泣かないで。ずっと前からあなたのことが大好きでしたよ、ヴォルフさん」
幼子を宥めるようにゆっくりと紡がれ続ける言葉に、こくこく人形のように頷きながら、ヴォルフは自分の尻尾がブンブン振れているのを自覚する。
――嬉しいのは、救われていたのは自分の方だった。
言葉も常識も分からない世界で怯えながらも伸ばし続けた彼女の華奢な背筋に、ただただ透き通った好意と信頼を乗せて見上げてくる黒い瞳に、一片の悪意もなく名前を呼んでくる声に、少しでも役に立ちたいと伸ばされる無垢な手に、外出から帰るたび「お帰りなさい」と告げられるささやかな言葉に。
イロハが来てから、この家は人の目を避けるための隠れ家ではなく、帰るべき家になった。
夏でも冬でも真っ暗な冷たい闇でヴォルフの帰りを迎えた家に、温かなオレンジ色の灯りがついた。
――愛してる、と。
ぽつりと呟いた声は小さく掠れていて、それでもイロハがその言葉をきちんと受け止め、嬉しそうに笑ってくれた気配がした。
彼女がこの世界に落ちてきてくれた偶然に、彼女と出会えた幸運に。
じわりと目尻に滲む雫に心を溶かして、ヴォルフは初めて、己が生まれたこの世界に感謝する。
「……ところでイロハ、なんか背中がざわざわするから、耳を執拗に弄るのをそろそろやめてくれないか」
「もうちょっとだけ。感触がふにふにしてて気持ち良いんです。あ、甘噛みして良いですか?」
「勘弁してくれ」
――まあ、敢えて言うなら一つだけ。
彼女の故郷の慣習についてはもうちょっと詳しく話を聞かなければならないな、と、頭の片隅で思いもしたけれど。
《登場人物》
※七門五六八
生粋の日本人であり現代っ子な十九歳。もうすぐ二十歳。
異世界トリップ直後、人種も言葉も全く分からない人々で溢れた街から混乱のままに逃げ出し、山中をうろついていたところをヴォルフに拾われた。
黒目黒髪、いつも微笑みを絶やさない、外見極めて大人しそうな和風美人。母方の実家が神社だったので、お手伝い歴が長く所作しなやかな才色兼備。
ただしその一方で名前にコンプレックスがあり、「ゴロハチ」とからかってきたクソガキ共(主に同級の男子)をことごとく拳で黙らせてきた過去がある。同級生を血祭りに上げている最中ですらその鉄壁の微笑には一筋の罅も入らなかったため、一部からは鮮血の微笑女の二つ名で恐れられていた。
五歳上に一二三という名の兄がおり、何故与える名前を逆にしてくれなかったのかと、日本では日々密かに両親を呪っていた。ただしそれ以外の面では普通に家族仲が良かったらしく、思考回路や価値観は大体母譲り。
異世界に来て唯一手放しで喜んだのは、漢字で「五六八」と記名しなくて良くなったこと。
読書は雑食。歴史随筆学術、純文学からミステリ恋愛BLまで、何でも美味しく頂けます。
別にオタクじゃない。守備範囲が異様に広いだけ。
※ヴォルフルーゼ
狼の獣人。黒みがかった灰色の髪と鳶色の目を持つ、精悍な美形。二十五歳。狼獣人と人間のハーフ。
獣人差別が強い地域に生まれ、そこそこ蔑視は緩いが忌避感は未だ根強い今の地域に引っ越した。山奥の一軒家在住。
両親を亡くしてぼっちをこじらせているところで、トリップしてきたばかりのいろはと出会った。何も知らない異世界人であるいろはを囲って「外は危ないから」と教え込み、二人っきりの歪な世界で孤独を和らげていくうちに、恋情と罪悪感に耐え切れなくなって色んな事情をカミングアウト。
したら、予想外に想い人の懐が広くて正直吃驚している。執着系ヤンデレかと思ったらただのヘタレわんこだったらしい。
差別のせいで色々酷い目には遭ったけど、それでも人恋しさを捨て切れない、実は非常に健気で真っ直ぐな性格をしていたりする。
薬草を採取して回復薬を作ったり、獣を狩って街に売ることを生業としている。大事なものは秘密の場所にしっかり仕舞っておく習性があり、狼としての本能もそこそこ強いらしい。