僕が死ぬまでの話
雨だった。灰色の空と雲が光を遮り、町を黒よりも暗く陰鬱な色に塗り潰す。水滴がアスファルトを叩く音が耳に障るけど、気に留めるほどでもない。雨を眺める風情が理解できるほど僕は老成していなかった。視界の端には傘をさした悩み顔の、夕飯の買い物に行くらしきおばさん。僕と同じ大学からどこかへ行くところらしい女の子の集団。振り返るのが面倒だから確かめはしないけど、聞き取り辛いながらも確かに人の足音がある。なのに僕は世界に自分がただ一人とり残されたような孤独を感じていた。それはほぼ間違いなく今日、僕が付き合っていた彼女に別れを告げられたばかりなのが原因だろう。
彼女はキレイだった。少なくとも僕の前では性格の悪い部分は見せなかった。料理が上手かったし、相手を立てて話を盛り上げることが出来た。元々僕のような平凡で退屈な男と釣り合うような人ではなかったかも知れない。……だからといってそう簡単に割り切れるほど僕は大人ではないし、すぐさま切り替えられるほど男女の付き合いにも慣れてはいなかった。そして彼女を恨むよりも自分を責めてしまうタイプだ。
僕の何がいけなかったんだろう? 僕は一週間前の土曜日、前回のデートの日を思い出す。いつもみたいに待ち合わせに少し遅れてくる彼女、僕は車道側を歩きながら友人や講師の他愛のない話をする。少し笑って彼女は突然パスタが食べたいとファミリーレストランを差す。僕は自分の立てた予定が崩れることに苦笑しながら自動ドアを潜る。
……そこまで思い出した辺りで僕は心臓の辺りに鈍い軋みを感じた。失恋の痛みとは物理的に痛いのだと今日初めて知った。
何も悪くなかった気がするし、
何もかもが悪かった気もする。
僕の前でバスが停まる。排気ガスの匂いが湿気に混じっていつもより強く感じる。空いた車内。整理券を取る。後ろの五人席を二人で使う高校生の笑い声が僕を嘲笑しているように感じた。僕は自分が何のために生きているのか不安になる。彼女といる時はそんなことを考えずに済んだ。一緒にいる心地よさはくだらない思考をかき消してくれる。生きている理由なんて生まれたからで十分だった。
運転手さんが僕を見ている。僕は慌てて手近な席に座る。バスが動き出す。
ふと死のうと思った。自殺を考えることはたまにあった。というより今の日本の若年層では考えない人のほうが少ないかもしれない。行動を起こす人自体は稀だろうけど。
歴史上の偉人はみんな死んでいて、哲学者も作家も死んでいて、誰かを守るために命を捨てた人は表彰されたりして。
人間は生きるより死ぬほうが圧倒的に正しいように思う。
僕はいつも降りる三つ前で降りた。バスの段差に躓きかける。なんだかついていない。
降りた場所はこのあたりにしては繁華街で、高層のビルがいくつか立ち並んでいる。灰色の空は狭い。傘を開く。僕は以前から死ぬなら飛び降りにしようと決めていた。他の方法はどれも面倒だと思ったし、例え死に際でも他人に迷惑を掛けることは良くない。その点、飛び降りならば掃除の人と目撃する通行人に多少のトラウマを残すぐらいだ。直接的な、例えば硫化水素の異臭や、電車に飛び込んでダイヤを乱すなんかの被害はない。勿論実体験じゃないから断言は出来ないし、僕はトラウマというやつを軽く考えすぎているかも知れない。僕は僕の死体を想像してみた。きっと頭から落ちる。頭蓋骨が砕け脳漿が散り、肩や肘の骨が皮膚を貫いて血の赤がアスファルトの黒を鮮やかにする。何人かが携帯電話のカメラ機能を使ってカシャカシャと音を立てる。今の人達はこれくらい娯楽にしてしまえる気がする。誰かのトラウマになろうなんて恐れ多いのかもしれない。
僕はいくつかのビルを眺めながら携帯電話を開いた。自殺に必要な高さを調べる。インターネットは便利すぎると思う。明らかに無いほうがいい情報が簡単に手に入ってしまう。僕の見たサイトによれば確実に死ぬには四十五メートルの高さが必要になるらしい。このあたりのビルでは四十五メートルには足りなさそうだ。というか四十五メートルって結構な高さじゃないか?
携帯電話を見ながら歩いていたから人にぶつかりそうになる。「すいません」、言いながら少し頭を下げると舌打ちが聞こえる。不快感だけを示して通り過ぎて行く。視線を上げる。高層マンションが目に入る。四十五メートルには少し足りないように見えるけれど、十分だろう。丁度人が入る所だったので彼女について僕はマンションに入ることにする。彼女が何かの手順を踏んでドアが開く。僕は雨粒のついた合羽の後を追う。色々と高そうなマンションだった。どうでもいいけど高い所の方が部屋代も高いと聞いたことがあるが高いと不便なだけじゃないだろうか。景色ってそんなに大事なのかな? 僕としてはなんとかと煙は高い所が好きってやつかなぁ、なんて思ってしまうんだけど。急に女の子が振り返った。少し幼さの残る顔立ちだった。また前を見て歩き出す。高校生くらいだろうか? まだ昼を少し過ぎたくらいなのに学校は? とは思わなかった。世の中にはいろんな人がいていろんな事情がある。例えば彼女は親に虐待されていて学校では友達という友達がいなくてインターネット辺りで知り合った男の所に逃げ込む気かも知れない。あるいは逆にどこかで知り合った男が悪質なストーカーで友達の家に逃げてきたのかもしれない。……自分で言っといてなんだけど良質なストーカーっているのかな? 知り合いに一人いたことに気づく。
エレベーターはさっきの女の子が乗ってこちらを伺っていたが、僕は歩きたくて階段を選ぶ。なかなか重労働だが一歩ずつ自分の足で登るのも悪くない。登るに連れて景色が広がって行く。僕の住む街は自動車の吐き出す排気ガスに染まりながらなお美しく壮大だ。陰鬱な雨に塗り潰されながらコンクリートの灰色を誇っている。多少血で汚したくらいでは直ぐに呑み込んでしまうだろう。屋上は開け放されているみたいであっさりと入ることが出来た。四方を鉄のフェンスに囲まれているが乗り越えようと思えば越えられない高さでもない。あくまで事故防止用ということだろう。さて、死のうとしたところで合羽を着た女の子が座り込んでいるのに気がついた。流石に人が見ている前でフェンスによじ登るのは抵抗があったから傘を開いて朝に買った漫画の週刊誌を引っ張り出して開く。一度読んだそれにもう一度目を通す。僕の好きな作家さんの連載がまた終わっている。僕が好きな作家はどうして皆一年持たないんだろう? アンケートを出してみようかなと真剣に思う。もう遅い。一通り目を通したがまだ女の子は居座ったままだった。たまに様子を伺うけどまったく動く気配がない。漫画の二周目に入る。それが終わってもまだ女の子は動かない。眠っているか死んでいるか心配になって僕は「あの、」と声を掛けた。女の子の視線が少しだけ上がる。
「何してるんですか?」
「雨を見てる」
……わお、若い身空で風情がわかる子なんだなぁ。
「あなたは?」
「え?」
「あなたは何をしてるの?」
訊き返されて困ってしまった。自殺、と聞いてもこの子は止めなさそうな気がする。だけど正直に言うのもなんだか気が引けた。
さて、どうしようか。
「君と同じで雨を見てる」
「漫画を読みながら?」
「……うん」
我ながら苦しいと思う。女の子もすごく胡散臭そうな目で僕を見てる。
「死にたいならダメですよ」
はい?
「この場所はあたしのだから貸してあげません」
え、っと、僕が死ぬのを決めたのって今日の昼間だよな? 別に独り言を言う癖もないし……。
「君、なにもの?」
「死神、とかいう安直な設定は嫌いですか」
そういうオカルト物は一切信じていないんだけど。
「……ああ、早見の知り合いか」
女の子は無言で微笑んだ。一番可能性の高そうだっただけで確証はなかったんだがどうやら正解らしい。まったく、あのストーカーはもう卒業した僕をまたつけまわしてるのか。
「わかった、今日の所は諦めるよ」
屋上を出ると女の子がついてきた。
「……なに?」
「階段から外に飛んでも死ねるので保険です」
あっさり見破られていた。仕方なく僕は携帯電話で早見を呼び出す。早見は一回目のコールが終わらない内に出た。僕が何か言うよりも早く早見は嬉しそうな声で言う。
『こんにちは。君から電話を受けるのも随分久しぶりだね。私に何か用?』
「何か用? じゃないよ。一体どういうつもりだ。ここを抑えられたら他に確実に死ねそうなポイントはないじゃないか。君のことだからどこかで見ているんだろ? 出てこいよ。ファミレスかどこかで話合おうじゃないか」
『二年前に私の自殺を止めた人間がよく言うよ。わかった、いまから君に会いにいく。だけど忘れないでくれよ。私はいまも君を許していないよ』
電話が切れる。僕はここから近い位置にあるファミリーレストランを探した。向かいの通りにそれらしき物があった。先週の土曜日に彼女がパスタを食べたいと言った店だった。こんなに近かったのか。ちなみに入ってから急に気が変わったらしくドリアを食べていた。ズキリと胸が軋む。足が止まる。無理矢理動かした。
一階に降りるまで女の子は僕を見張り続けていた。エレベーターでまた登っていく。見張りを再開するんだろうか? 僕は店に入る。空いていたので店員さんに許可を取って窓際の奥の席に座った。早見はそういう場所が一番好きだからだ。というか早見は相手から自分が見えているのに自分から相手が見えていない場所が大の苦手だ。まったく、自分がされて嫌なことは人にしてはいけせんと教わってこなかったのかな? でもそれって自分がされても構わないことは人にしてもいいってことなのか? つまり自殺志願者は人を殺してもいいのかよ、という屁理屈を構築していた辺りで早見がやってきた。後ろから「やあ」と声を掛けてくる。振り返ると相変わらず野暮ったいTシャツとジーンズ、それから化粧っ気のない少し荒れた顔でニコリと笑った。ウエイトレスさんが僕の頼んだアイスコーヒーを運んでくる。ついでに早見の注文を訊く。早見は相変わらすメロンソーダを頼んだ。
「どういうつもりか聞こうじゃないか」
対面に座る早見の目を見る。
「どうもこうも別に言う事は何もないけど、あえて言うなら自殺を止めるのは人間の義務だろ」
心にもないことを早見は言う。
「なんで僕をつけまわしてたんだ?」
「私は元々ストーカーだよ。いまはおもしろい対象がいなくて、君に逆戻りした。それだけの話だよ」
僕はアイスコーヒーに口をつけた。不味い。早見の頼んだメロンソーダが運ばれてくる。「ご注文は以上でお揃いですか?」というウェイトレスさんの問いに「はい」と答えると彼女が足早に去っていく。
「……うん、君に敵意を向けられるのは少々辛いし、ちゃんと言っておく」
早見は表情に恨みを剥き出しにした。
「君はもっと苦しんで死ねばいいと思うんだ」
「…………」
「私は苦しんだし、苦しんだし、苦しんだ。それなのに君がいま多少辛いからって、私を死なせてくれなかった君が死ぬなんてふざけるな。君はもっと苦しむべきだ」
「僕はもっと苦しむべき、か」
反芻して咀嚼する。例えば世の中には僕よりも辛い人がどれくらいいるだろうか? 実際、僕の抱えている問題なんてちっぽけなモノだ。大学でうまく友人が出来なくて恋人が弟に取られたぐらいだ。
……ダメだった。問題の大きさなんてのは相対なのだ。人によってその価値も大きさも違う。僕に取っては僕の抱えている問題は絶望的だ。例え世の中に僕より不幸な人が六十億人いようと僕は死にたい。
早見はメロンソーダを飲み干して席を立った。
僕はあの時、間違えたんだろうか。暗い海に沈んでいく早見を引きずり上げたのは間違いだったんだろうか? そんなことは一先ず置いて僕は早見に会って一番思ったことを早見に届くように少し声を上げてた。
「元気そうで安心した」
早見は一度振り返ったけれど何も言わずに歩いていく。早見が店を出た後に僕はふと気づく。
あいつ、メロンソーダ代を置いていってない。
ところで僕は高校時代に漫画研究会の幽霊部長であり早見は新入部員だった。幽霊部長ってなんぞ? と思うかも知れないが、そのまま幽霊部員の部長版である。幽霊部長にメリットは特になく面倒なだけだったが、僕が漫研を辞めなかったのはあの場所が好きだったからだろう。行き場のない生徒達の溜まり場だった。活動として漫画を読むことを僕が認めていたから部室にはそれなりの生徒が集まった。勿論、顧問には隠れてだけど。
早見もそんな一人だが彼女は真面目に絵を描いていた側だ。数人と一緒に同人誌のようなモノを作っていた。部長権限で僕も見せて貰ったが彼女の書いたものは高校生特有の一人よがりの暗さに溢れていて正直おもしろくはなかった。けどそれが彼女の悲鳴みたいに思えて僕は何かと早見を気に掛けていた気がする。早見が僕をつけまわしていると知ったのは彼女の自己申告によってだ。僕って鈍い。「ところで先輩、気づいています?」早見に訊かれて僕は「何を?」って素で聞き返してしまった。早見は悪いやつではない。ちょっと屈折しているだけだ。僕は辞めるように言わなかった。早見がストーカーをやめるのは無理だと思う。もし出来るとすればなんらか説得力のある会話とかが必要になるが僕にそんなことは出来そうになかった。そもそも話してわかるようならば自力で止めている。僕は他人にそこまで影響を与えられると思っている程、自惚れていない。
僕は早見が自殺しようとした原因を知らない。ある日、メールで「迷惑かけてごめんなさい」と届いて早見の家に行ってみたら彼女はいなかった。町のなるべく人のいなさそうな場所を探したら冬の海に人が沈みかけていたから拾って救急車を呼んだ。保険の授業で習った人口呼吸と心臓マッサージをした。それだけだ。別に考えた末の行動ではなくただの衝動だった。あの時、僕は早見を探したかったから探したし、助けたかったから助けた。溶けかかった白い錠剤と海水を早見が吐き出した時、僕は心の底から安堵した。で、早見に恨まれた。けど僕は、早見は誰かに助けて欲しかったんじゃないだろうかと思っている。根拠はメールと、それが届いてから僕が駆けずり回って結果として間に合ったということだ。メールなんて送らなければ僕が早見を見つける事はなかったし、メールを送って直ぐに死のうとすれば僕が間に合うことはなかっただろう。
改めて乗ったバスが最寄りのバス停に着くまでにそんなことを思い出す。降りる。いつもの道はまだ乾いていなくて色が違うように見える。光が十分じゃない。僕は歩き出す。家までは電信柱を十数本ぐらいでそんなに遠くはない。
早見は今も僕をどこかで見ているんだろうか? 僕の醜態を笑っているだろうか? 早見がそれで幸せなら僕はそれでいいと思う。幸い早見の後輩は彼女を慕っているようだ。
僕は家に帰って、靴を脱ぐ。二階にある自分の部屋に上がって、着替えもせずにベッドに入った。なんだか酷く疲れていた。肉体的には階段を上ったくらいしか辛いことはしていないから多分精神的な物だろう。僕は自分を精神の機微に疎い方だと思っていたから意外だった。精神の機微に疎ければそもそも自殺なんて考えないだろうか? まどろんでいると、コンコン、と控えめなノックの音。
「兄貴」
弟だった。
「なんだ?」
僕は平静を装う。
「サトから、聞いたんだよな?」
ドアは開かれなかった。
「ああ」
「怒らないのか?」
「彼女が別れたのは僕に魅力がなかったからだろ? お前を責めてどうなるんだよ」
弟は少しだけ黙って、結局何も言わなかった。足音が遠ざかるのがわかる。
「……バカだなぁ」
ほんとは怒鳴ってやろうかと思ってたのに、今更兄貴っぽく振舞う必要がどこにあるのさ。
夢を見なかった。時計を見る。午前の五時半。ボトルの紅茶を紙コップに注いで一杯飲む。いつもの朝だ。ただ何かが抜け落ちたような空白がある。一晩経てば死にたい思考が薄れるかな? とどこかで考えていたがやはり死にたいままだった。だが場所がない。別の場所を探すべきだろうか? あるいは別の死に方を考えるべきだろうか? いくつか思い描いてみる。駅のホームで電車に轢かれて挽き肉になる自分、あるいは海に沈み水を飲んで膨れた自分。どちらも難しいように思う。やるなら後者だが顔を水面に上げて肺一杯に呼吸をしたい衝動に打ち勝てるだろうか。多分無理だろう。一息に死ねて後戻りの出来ない方法がいい。
僕は一階に降りて、風呂を沸かして、食パンを焼いて、マーガリンを塗る。不意に固定電話の横に飾ってある弟の賞状が目に入って破り捨てたくなる。空手の県大会で入賞した時のモノだ。もちろん僕はそんな幼稚な八つ当たりはしない。食パンを齧る。早見をなんとかしない限り自殺は難しそうだ。……あるいは僕は逃げているのかもしれない。早見が止めようのない死に方、例えば首吊りだけど苦しそうだから嫌だ、とかから目を逸らしているだけかもしれない。パンを食べ終わり風呂に入る。入りながら歯を磨く。自分の中途半端な賢しさが嫌になる。さっさと死ねばいいのに。余計なことに気づかなければいいのに。例えばシャワーを口の中に突っ込んだまま十分くらい置いておけば死ねる。だがそんな苦しそうな死に方はごめんだ。早見はすごい。睡眠薬を致死量近く飲んで海に入った彼女には相応の覚悟があったんだろう。僕程度が邪魔をしてはいけなかったのかもしれない。だが早見は生きているし、あれ以来自殺未遂を起こしてもいない。その変化は僕にとって少しだけ救いだった。
風呂を出て体を拭く。鏡に映る運動していなくて筋肉のまるで育っていない細い体。弟が少し羨ましい。鍛えればいいだけの話だけどそこまで渇望している訳でもない。なら嫉妬する資格すらないじゃないか。僕は下着を穿いてシャツを着た。ジーンズに足を通してベルトを締める。伸びた髪を指で簡単に鋤く。最後に財布と定期を確認した。
今日、僕は何をするべきなのか。大学に行く気はない。地元ではそこそこに上のほうの大学だけど一週間程度でなんだか飽きてしまった。友達が出来なかったから、というのも多少あるだろう。大学の建物では四十五メートルにはとても足りない。やはり別のマンションなんかを探すのが妥当だろう。早見(達)の制止を振り切る手もあるが、巻き添えにしてしまう可能性を考慮して諦める。家を出た。
早見がいた。
「……えーっと、」
「おはよう」
早見は当然のように挨拶をする。
僕もとりあえず「うん、おはよう」と言った。
……なんでいるんだ?
「君の自殺を止めるためには後輩の援護だけでは心許ないから、直接つけまわすことにしたんだよ」
「公認ストーカー?」
早見は少し笑う。どこが面白かったのか僕にはわからない。とりあえず歩き出してみる。
「どこへ行くんだい?」
「ファミレス、早見も立ってたら疲れるだろ」
早見は頷いて僕の後に続いた。
「僕が卒業した後の漫画研究会はどうだ?」
「あんまり変わらない。内海もわかってて訊いただろ?」
「まあね」
「ええと、あえて言うなら、そうだな。新入部員の話でもしようか」
「そうしてくれ」
「えらく美人の女の子が入ってきたんだ。なぜか私のことを姫と呼んで慕ってれている」
「なぜかって、君のペンネームは『倉病姫君』とかいうやつだろ」
「ああ、それであの子は私のことを……、我ながら随分厨臭い名前にしたもんだ。過去の自分に二時間くらい説教をしてやりたい」
「聞く耳持たないだろうけどね」
「だろうな。人間って時々凄く視野狭窄になるから」
「誰にだって消したい過去くらいあるさ」
「今の君の状態にだって同じことが言えると思うよ」
「そうかもね」
「わかった振りをするのが内海の悪い癖だと思う」
「そうかな」
「そうだ」
断定された。
ファミレスについた。昨日とは違う店だ。
「お腹が減ったな。何か食べてもいいか?」
「僕に了解を取る必要があるのか?」
僕は早見がメロンソーダの代金を置いていかなかったことを思い出せなかった。
「それもそうか」
僕らはテーブルに着く。バイトの人が眠そうな瞳を擦りながらノソノソと歩いてくる。同じ講義を取っている学生であることに僕は気づいていた。水を置いて早見の注文を受けたけど向こうに気づいた気配はなかった。また一つ死にたくなった。
「ええと、君をフッた女というのは何処の誰?」
「ストーカーの君に個人情報を渡す程、僕は迂闊じゃない」
「んー……。もし手に入ったら……」
なぜか早見は黙った。
「手に入ったら、どうするんだ?」
「まあそんなことはどうでも、」
演奏者が麻薬にハマって自殺したミュージシャンの有名な曲が流れる。早見の携帯からだった。
「失礼」と言って早見はその場で電話に出た。
「どうしたの? ……いや、内海はいま私の前にいるから、きっと見間違いだと思う。もしくは彼の弟かな? 手間を取らせたね。ありがとう」
早見は電話を切る。
「屋上のあの子は楠木というんだけど、マンションの前に君と似た男を見つけたんだって」
「へえ」
まあ僕というやつは平々凡々な顔つきをしているから似ているやつなんて町中にいるだろう。
「なあ、早見」
「何?」
「僕は君を助けたのかな?」
「……言うまでもないな」
早見は不機嫌そうに口元を歪めた。
「助けたよ。完全無欠に完膚なきまでに、内海は私を助けやがった」
「……」
「だから私は君を許さないんだ。あれだけ死にたかったのに、あの日以来まったく死にたいとは思えない。単純に恐怖もあるんだろう。あの水底は冷たくて恐ろしかった。途切れがちな意識の中でもおぼろげながら覚えている。私が死んでいく感覚だ」
「早見……」
「私は君を許さない。一思いに死なせてくれればよかったのに、今、私は恐い。死にたくない。君は私から逃げ場を奪ったんだ。辛いよ。そんな君が易々と逃げ込もうだなんて、許してなるものか」
なんとなく、僕は早見をツンデレだと思った。
「何を笑ってるんだ、人が真剣な話をしてる時に」
「え? 僕いま笑ってたのか?」
なんていうか、僕はいろいろなくしたかもしれない。フられたなんて他人から見れば些細な切っ掛けで死にたくなった。だけどそれを取り戻す切っ掛けだって些細で構わないんじゃないだろうか?
……なんてハッピーエンドには当然ならなかった。
早見の携帯電話がまた麻薬にハマったミュージシャンの曲を鳴らす。
「なんだい? いま忙し…… え? ……本当か? あ、ああ、彼に代わるよ」
早見は「楠木からだ」と僕に電話を押し付ける。戸惑いながら僕はそれを受け取る。
「え、っと、何?」
『先日はどうも、楠木です。どうか落ち着いて聞いてください』
弟さんが飛び降りました。
うちのマンションの屋上から。
「……行ってくるよ」
「私も行く」
二人でバスに乗って向かっている最中に今度は警察からの電話。所持品から内海大地さんがどうのこうのという話をされる。いま現場に向かっていると言うと少し困っていた。そっちの都合なんか知ったことではない。
バスを降りて少し走る。すぐに見えてくるマンションの前の人だかり。警察の服を着てる人に学生証を示す。内海の文字を読み取って警官の人が固まる。弟の死体が横目に少し見えた。
血と数種類の内臓に骨が桃色の脳で、 吐いた。
自分でも信じられないくらいの量を吐いた。倒れそうになるのを早見が支えてくれる。遠くで誰かが話している。胃液が空になるまで吐いて警察の車両でどこかに運ばれる。早見が肩を抱いてくれているのが唯一僕の意識を繋ぎ止めていた。警察に行ったけど結局何も話せなくて家に帰らされた。母さんに泣き付かれたのが鬱陶しくて、三条智美が訪ねてきて誘ってきたからぶん殴った。いつの間にか握っていた弟の遺書には先ず最初に「兄貴みたいになりたかった」と書いてあった。詳しく読んで弟の成績が伸び悩んでいたことを始めて知った。僕へのあてつけで三条を誘ってみたら彼女は簡単に傾いたけど虚しさと罪悪感に押し潰されて自分が卑劣で生きる価値がない人間だと思った、らしい。僕達はそれぞれ劣等感を抱えあって生きていたみたいだ。
僕は部屋にこもって呆然としていたら早見が抱きしめてくれた。氷点下の体に少しだけ熱が灯って僕は泣いた。早見の胸の中で子供みたいに泣いた。ようやく泣き止んだ時には早見の服は涙と鼻水でベトベトになっていた。早見はずっと傍に居てくれた。
それから義務のように通夜をした。弟は随分友達が多かったみたいだ。お前は贅沢だ。
葬式をして遺体を焼いた。焼け残った真っ白な弟は空手の県大会で入賞した体の面影はなくただ細くてひび割れていて、母や父や親戚をおじさんおばさんに木でできた箸で突かれたくらいで砕けてしまって僕はまた少し泣く。
……そしていつもと同じ朝が来た。僕は早見を起こさないようにベッドから起き上がって、先ず弟の布団が空であることを確かめる。それから荷物を確認、金槌と金属バット。昨日の内に用意しておいた。僕はいつもの通りにボトルの紅茶を一杯飲んで一階に降りる。歯を磨いてから食パンを一枚、マーガリンを塗って食べた。風呂に入ろうか迷ったが今日は止めておく。服を着替える。金属バットと金槌をそれなりに大きい袋に入れてあまり目立たないようにする。家を出る。晴れだった。どうでもいいけど「雨だった」というとなんとなく現在形に聞こえるが「晴れだった」だとどこか過去形っぽく聞こえるのは気のせいだろうか。今日は晴れだった。バスに乗った。信号に幾つか引っかかったみたいで少し時間が掛かったがここまでは問題なくくることが出来た。マンションまで歩く。僕は入り口のガラスを金属バットで叩き割った。バットは用済みだから捨てる。階段を上る。自然に足取りが軽くなる。警備員さんは身の安全を最優先にしたのか出てこない。賢明だなと僕は思う。屋上に通じる扉には鍵がかかっていた。金槌で壊す。楠木さんが腰にしがみつくけどもう知ったことではなかった。引き摺って歩く。細身の女の子なんて体重が軽いから簡単。弟の骨くらいの重さしかないんじゃないかな。
「もういいよ、楠木」
屋上に上がってきたばかりの早見が言う。バスを追いかけてきたらしい。寝巻きのままだった。息が切れていた。
「でも、姫……」
「あとのことは私に任せてくれ」
楠木さんは憎悪を搾り出して僕を睨みつけて、手を離した。
「部屋に戻れ」
楠木さんは頷いて階段を下っていった。早見と二人、あの時と逆の立場で向き合う。
「さて、内海」
「止めないでくれよ」
「止めないよ」
早見は笑った。
「楠木は私のことをよくわかってなかったみたいだ」
僕の方へ歩いてくる。僕はフェンスに身を預ける。
「いいことを教えてあげるよ。私が君の自殺を止めようとすることに実は深い意味なんてないんだ」
「へえ」
「私は君のことが好きなんだろうな。ああ、何も言わなくていいよ。君が私のことを好きじゃないことなんてわかっている。わかりきっている。いったい誰がこんな気持ち悪いストーカー女を好きになんてなるんだ」
「早見、」
「私は君を止めない。だけどね」
早見は僕にキスをした。
「君が私を引きずり上げてくれたみたいに私が君を引きずり上げることができないなら、私はせめて君と一緒に落ちようじゃないか」
僕は早見にキスをした。
「一つだけお願いがあるんだ。いまこの瞬間だけでいい。私のことを愛してると言ってくれないか」
僕は頷いた。
「早見、愛してる」
「ありがとう」
僕らは落ちた。
楠木愛子が生まれて初めて恋をしたのは早見優衣という名前の先輩だった。同性だったが彼女のとってはそんなことは関係なかった。彼女は中学生の時にストーカーに「ひどいめ」に遭わされていて人間不信に陥っていた。早見の描いた同人誌を目にしたのは偶然だった。この人ならば私をわかってくれるかもしれない。楠木はそう思い、実際に早見は楠木の支えになっていた。楠木は早見のためならなんでも出来た。そんな気持ちになれたのは生まれて初めてだった。
その彼女の葬儀が行われる。楠木はなんだ、早見にとって自分は相談されもしないどうでもいい存在だったのかと思う。結局自分は世界に一人きりだったのかと悟る。
こんな世界に用はない。
楠木は自殺することを決めた。