故郷があるのは幸せなこと
この呑んだくれのドワーフとの航海は、想像以上に楽しいものだった。
この魔法の船には尽きぬほどの酒と食料と柔らかい寝台があったのだ。一角獣の加護を受けているこの白い帆船は、創世の時代の魔法で編まれた逸品だったのである。
葡萄酒に蜂蜜酒、果実酒、ミルク酒、ブランデー、ラム酒、そうして火酒に、これはノエルが持っていたものだが、妖精の花からとれると言われる秘蔵のエルヴン・ブロッサム・ワイン。貝で出来た杯でそれらをともに飲みほし、パンと塩漬肉、豆、干した肉と果実と色とりどりの野菜を同じ食卓で共にするようになるとすぐに、ノエルとディトンは離れがたい友情を感じていた。アヴァロンを離れてわずかな時間で、二人は友達になったのだ。
「この船は一角獣の毛皮出来た素敵な船なのに、何故あなたみたいなどうしようもない呑んだくれさんのドワーフが所持しているの? 一角獣の傍らには清らかな少女だと思っていたわ」
「それについては、いつか話すこともあるだろうよ。長い話だからな。そういう話は、別の夜のために取っておくものだぜ」
「外に出てみないと、わからない不思議なことってたくさんあるのね」
そのような話をしながら、彼とノエルはよく食べ、飲み、笑い、そして眠った。
初めてみる海には様々な動物が住んでいて、一度ならずともイルカが彼らを追走し、クジラが彼らに水を吹きかける。そのたびに彼らはお互いのずぶぬれの様を見て、何度でもよく笑った。
またある日にはディトンは器用で細工物を好むドワーフらしく、渦巻きの貝殻と銀色の海のひと滴を使ってノエルに耳飾りを作って贈り物とした。ノエルは海の波の音がいつでも聞けるのねと、素直にディトンに感謝してにっこり笑い、それを受け取った。
穏やかに凪ぐ海そのものであるかのように、航海は順調に進んでいたのである。
何日めかのことだ。ノエルは備え付けの厨房で、桂皮松や扁桃、西洋李等をふんだんに使った焼き林檎を二人分作って外に出た。生クリームを添えるのも忘れない。ノエルは苺が好きだが、ディトンはアヴァロンの林檎が何よりも好きだと言っているのを覚えていたのだ。
飲み物はお酒じゃなくて紅茶だけれど、ディトンは喜んでくれるかしら……?
そんな事を考えながら船室から甲板に上がると、舳先の付近にもたれかかるように海を見遣っているディトンの横顔が見えた。
その横顔に、ノエルは息を呑む。ディトンはもと来た遥か海の一点をただ見つめていた。その先にあるものは、ただ一つしかない。
「どうしたの?」
ノエルはそっと近づき、このドワーフの友達に囁きかけた。春のそよ風の様な、優しい声だった。
ディトンは緩やかに首をめぐらせ、ノエルを見遣った。何かに焦がれてやまないが、それは手の届かないものであるのだという、そんな顔と目が合う。覚えのある表情だった。
泉に映る昔の私は、こんな顔をしていたわ……。
「故郷の事を考えているのね」
ささやく声は、海の波に飲み込まれて沈んで行った。ディトンは否定するように唾を吐き捨てる。否定しているのは、おそらく自分自身なのだろう。
「俺はなぁ、ノエル。何度も海に出たことがある。昔からはねっ返りの、変に拗ねたガキだったんだ。すべてが煩わしくて、それでも不思議だな。海に出るたびに、たまらなく故郷が恋しくなるんだ。色々な物を捨てた。好きだった音楽も……」
「故郷も捨てたのね。あなたはどこの出身なの?」
「< 緑の丘>だった……。過去形だ。色々な事があって家を出た。俺が一番愛していた兄のガレスが、対立する氏族に殺されたんだ。それで俺は、怖くなったのかな。重いものがのしかかってくる息苦しさに勝てなかった。こんな俺でも妹のリーラは、いつでも待ってると言ってくれたが……」
「< 帰る家>があることは幸せなことよ。一人でないということも」
私は今まさに、それを捨てようとしているんだわ……。一人で見知らぬ場所に行って……帰ってくるのかしら? その時はやっぱり、一人なのかしら? ノエルは思った。自身の身体の中に海が生まれて、もっとも柔らかい心の部分が波に浸食されているような、そんな気持ちだった。
「あんたにも、<故郷>があることのありがたみが判るぜ。遠からずな」
「そうでしょうね」
それは内面から湧き上がる、透明で物悲しい予感だった。
白いカモメが天を行き交い鳴いている。
彼らにも帰る場所はあるのかしら? それをさがしているのかしら? ノエルは考えた。
心に浮かんでくるのは唯一の肉親ともいえるサミュエルの事だ。天使の事を考えると、心が慰められるのだった。
一瞬の沈黙。沈黙は天使が運んでくれるものだと聞いたことがあった。
その沈黙という純白の羽根に抱かれていると、しかしディトンがそれを破った。それは本当にかすかな声だった。
「……竪琴を弾いてくれないか……?」
その言葉に、ノエルは何故とも知れぬ衝撃を受けた。ディトンは音楽が好きだと言ったのだ。この言葉を聞くことになるのをわかっていたのかもしれない。ディトンが音楽の天使サミュエルと古い友人だというのも、嘘ではないのだろう。何の楽器を弾くかはわからないが、腕もいいのではないだろうか。
ディトンは心から音楽を愛しているのだ。ノエルは自分のプライドと傲慢さと偏見が厭になった。ドワーフが音楽に心をよせない野蛮な種族だと思っていたのは間違いだったのだから。
「ごめんなさい……。私、あなたを誤解していたわ」
その言葉に、ディトンは緩く首を横に振った。
「間違いではないだろうさ。実際、海が好き、音楽が好きだなんて言うのは、俺たちドワーフの世界では異端だ。俺はさ……」
そう言って、ディトンは自身の頭を指先で軽やかに叩いた。
「ここがイカれてるのさ。……しかし俺の狂気ともいえる情熱は活力になりきらず、社会に挫折したんだよ。ガレスは俺の音楽をただ一人愛してくれた。しかしもういない。俺は彼を夢見るばかりになってしまった……。それ以来どんなに葡萄酒を飲んだって、その酒が俺の枯れた歌の泉を再び潤すことはなかった。見失ったんだよ」
「隠れているだけ。世界の涯まで歩いたら、きっとどこかに枯れない泉があるはずよ」
「そうかもな。あんたは若いな、ノエル」
「そんなに変わらないように見えるけど?」
そう言って二人は笑い、ノエルは竪琴を引き寄せた。そうしてただ一人の聴衆に贈る、真心からのお辞儀をした。お辞儀の意味は、「私はあなたからの頼みを断らない」である。
「あなたは私に気付きをくれた。私、あなたのためなら、どんな時だって歌うわ」
この友達に贈る音楽はどんなものが良いだろう。瞑目して、ノエルは考えた。
心を竪琴に寄り添わせ、ただ友に元気づいてほしい一心で最初の弦を爪弾いた。大気が震え、振動し、優しい風が生まれた。
サミュエルからの贈り物である緑石の風車が緩やかに廻る。しかし、集中していたノエルが気づくことはなかった。
ノエルが奏でたのは言葉のない歌だ。故郷を、過去を懐かしく希む切なさと愁いが、旋律となって溢れ出た。
その音楽は海の波の音と溶けあい、カモメの鳴き声と一つになった。
彼女は音楽を奏でながら、その旋律と旅するようにアヴァロンの森の中に帰った。そこにはサミュエルがいて、ノエルよりもずっと巧く竪琴やリュートを奏でながら歌い、笑い合っていた。姉弟子だったユーフィリアがまだ小さいノエルを膝に抱えて、軽やかに手拍子を打っている。
ユーフィリアがいるなんて……。私は過去を思っているのね。妖精だった彼女。人間の男と恋に落ち、定命のものとして生きる事を選んでアヴァロンを旅立った本当の姉の様な女性。炎の長き髪がうるわしい娘。大好きだったのだ。
ノエルが過去である黄金だった時代を想い、余韻を持って終始和音を奏でると、彼女はゆっくりと目を開きディトンを見遣った。
そうして驚いた。
彼は泣いていたのだ。人目も憚らず、若さを取り戻して青さを隠すことなく泣いていた。
「あんたの歌を聴きながら、俺は故郷に帰っていたよ、ノエル」
ディトンは言った。その声が震えている。
「<緑の丘>にいた俺の耳には小鳥のさえずりと小川のせせらぎが聞こえた。横にはガレスがいて、ガレスの好きだった娘であるディエラと俺と三人で散歩をしながら他愛もない話で笑いあった。妹が夕食の準備を終えて俺らを迎えに丘の上から走ってくる……。俺の夢の中でガレスはいつも、その冷たい身体を横たわらせてばかりだった。ガレスの声を聞くなんて、ついぞなかった事だ」
男の人が泣いているのを初めてみた。どうしていいかわからず、妖精の少女は一心にこの小さい友を抱いた。その小さな身体を抱きしめながら、なんと言っているのか自分でもわからない、意味もなさない声で彼を慰める。あるいは、彼とともに泣いていたのかもしれない。
その時、ディトンが手に何か握り締めているのが見えた。先程まではなかったものだ。
「ディトン、それはなあに?」
ディトンは掌を開き、その問いを待っていたかのようにニッと笑った。
「どう見ても葦だな。あんたの音楽にあわせるかのように、風に乗って俺の手の中に収まった。風の、いや、風の竪琴弾きからの 贈り物さ」
ドワーフは再び葦を握り締めてじっと見遣った。その若々しい青灰色の目は以前には視ることのできなかった光が宿っている。そうしてみると、その若い顔には何処か気品の様なものさえ漂っているように思えた。
「ノエル。俺はこの葦で笛を作るよ。葦笛だ。どうして俺が笛吹きだったって理解ったんだ? お前が俺にくれた「信頼」に、俺はどう答えればいい?」
「そんな……」
そんなつもりではなかったノエルは、ただ控えめにこう答えることしかできなかった。
「ただあなたの魂が自由でいることが、私には何より嬉しいの」
「ならばあんたには「友情」を。生涯変わることのないものを。アヴァロンに帰ってきたら、ぜひドワーフの<緑の丘>に寄ってくれ」
その言葉が含む意味に、ノエルの海よりも青い瞳は輝き、頬は興奮のために朱に染まった。
「それじゃあ、帰るのね、あなたの故郷に! でもおかしい。行ってもいないのに、もう帰る心配?」
「見てみろよ」
ふとディトンが言うので、ノエルは海にその瞳を転じた。
そうして見てノエルは初めて、今が黄昏時なのだと知った。加えて辺り一面を霧が包み込み、薄暮の強烈な残照の色であるオレンジの光を、ぼんやりとあやふやな物にしている。しかし妖精の鷹のように鋭い視力は、その神秘的な霧と静かな海の向こうに島の影を認めた。
ノエルが「アッ」と声を上げて島影を指差す。
「あれが<サマーランド>ね…! 人間たちの国、永遠の春と、そして夏の国だわ」
「だから、帰る心配も必要なのさ。そろそろ本当に、あんたも行かなければならないから」
ノエルはその鮮やか青色の瞳でディトンを見遣った。小人の瞳に映る自分の顔が、泣き出しそうになっているのを見て、ノエルは堪えるようにくしゃくしゃと笑った。
「あなたともお別れね。帰ってきたらあなたのところに寄るわ。約束よ」
「約束は良いな。人を弱くもするが、強くもする。そんな湿っぽくなるなよ、あんたの涙に海も泣いてしまって寄せて返すぜ」
海辺までは送って行くからと、ディトンは約束した。
そうして黄昏の赤みがかったオレンジの光が紫沈丁花の色に染まる頃には、白い魔法の帆船は霧を抜け、一番近くの海辺にその優美な姿を止めて佇んだ。
何処か深い森の奥にある場所らしく、月桂樹の仄青い葉と淡い金色の小さな花が辺り一面に林立し、不思議と規則正しい並木道を作っていた。この道を往こう。この先には何があるのかしら…? ノエルの胸にやってきてわずかな間留まり、そうして去っていったものは予感だった。
約束通り、ディトンは魔法の葦ですぐに葦笛を作った。あの風車を造ったのも彼なのだという。笛吹きであるドワーフの意匠らしく、それは見事なものであった。
その笛で一曲小夜曲を聞きたいと頼み、ノエルは一人で軽やかなリンカを踊った。そうして心ゆくまで楽しんでから、二人は別れた。離れがたかったが、二人は別れてやらなければならないことがあったのである。
「さようなら、さようなら。私の小さな友達。絶対、忘れないから」