彼女は呑んだくれを<案内人>として船に乗る
なんて素敵な船なのかしら。海とはなんて心踊るものなのかしら。私が知っている海というのは心を押しつぶすような錘だったけれど、実際はとても解放感に満ちているのね……。
ノエルは静かな興奮とともにその帆船に近づいた。妖精の足取りはいつでも踊るように軽やかで、足音などというものは立てることはない。足元にそっとたたずむ朝露に濡れた朝霧草から頬を伝う涙のような雫が零れることなどはなかった。
白い帆船に心を奪われたノエルは、だから自分が何かを蹴飛ばしたということに、そうしてから気がついたのだった。突然上がった怒声に、ノエルはハッと現実に戻った。
「痛ぇなあ、畜生め!」
岩のように固いそれは、やはり太く低い声で言った。岩が喋るならこういう声に違いないとノエルが常々想像していた、まさにそんな声だった。
「きゃっ! ごめんなさい…っ」
ノエルは喋る岩に対して反射的にそう謝り、瞼をきつく閉じた。閉じていく視線の端に空いた酒瓶が何本も転がっているのが見える。こんな所に酒瓶を捨て置くなんて! アヴァロンにそんな心ない人がいるなんて!
ノエルは怒りを覚えてその白い頬を紅く染めたが、しかしそれ以上に、岩の怒号が怖かった。私はなんて臆病なのかしら。そう思いながらも、身体は身をすくめている。
再びの怒声を覚悟していたが何も起こらない。不思議に思い、ノエルは恐る恐る目を開けた。
小人がいた。岩だと思って踏んだものは、小人族の金剛石のように固い肌だったのだ。
「あなたがサミュエルの言っていた<案内人>なの?」
ノエルは屈んで、興味深げにこの小人を観察した。先程までの恐怖は消え失せていた。彼女にとって純粋な好奇心の前では、恐怖などというのはほんの些末な心の機微にすぎなかったのだ。
これがドワーフ……。
小人族がこの地に住んでいるのは知っていたが、見るのは初めてだった。
よく見ようと顔を近付けると、なんとも酒臭い息が頬をかすめる。相当キツい。 小人の火酒だろう。
「礼儀をしらねぇ子供だな。エルフというのは優雅、礼節、繊細を織り上げて出来たものだと思ったが違うのか? 人の顔を思い切り踏みやがって……」
地面に寝転んでいたドワーフは起き上って、土に汚れた顔を無造作に手で擦りながら言った。
ごわごわとした固い砂色の短髪、浅黒い肌に光るくすんだ青灰色の瞳。緑色の短衣と草色の洋袴。酒臭い息に象徴される、退廃的で怠慢な雰囲気。そのために年老いて見えるが、印象よりは若いのでしょうね、とノエルは思った。もしかして、私と同じくらいなのではないのかしら……? その証拠に年齢とともに伸びる、彼らいわく命でもあり誇りでもある顎髭は、まだまだ長すぎるというわけではなかった。しかしノエルは、この小人を見るのは初めてだったのだ。年齢の見当などは到底つかなかった。
「ごめんなさい……。そんなつもりはなかったのに、ずいぶんな挨拶をしてしまったわね」
「まあ、それ位の元気がある方がいいというものだがね。気にせんでくれ」
「ありがとう、あなたお名前は何と言うの? ドワーフの知り合いは初めて。どんな名前でも素敵に聞こえるのでしょうね」
鳩のように優雅な仕草で礼儀と敬意を示すお辞儀して、ノエルは訊ねた。
「……呼びたきゃディトンと呼んでくれ、お譲ちゃん」
「ディトンね。……私の名前はお譲ちゃんではなくてよ。私は……」
「聞かなくても知ってるぜ。サミュエルん所の養いっ子だろう?」
ノエルは驚いて目を見開いた。自分の知らない人が自分の名前を知っているということが、とても不思議なことのように思えたのだ。
「……知っているが、名前は教えてくれよ」
ディトンはニっと笑った。黒い肌に比してやたらと白い歯が印象的だ。ノエルの反応を楽しむように笑って酒瓶に手を伸ばし、それをあおった。しかし空瓶だと判ると、舌打ちして無造作な仕種でそれを放り投げる。ノエルが一連の動作を沈黙とともに見遣っていると、ぶっきらぼうな声で「名前は?」と促された。
「何故なの? だって、ご存知なのでしょう?」
「名前っていうのはなぁ…お譲ちゃん。人から聞くのと、本人から名乗られるのとでは違うものさ。特に、お譲ちゃんみたい奴からはな」
「若葉みたいな青二才ってことね」
「そう聞こえたか? じゃああんたが自分をそう自覚しているってことさ」
「違うというの?」
「違わないだろうよ。……でも、俺が言いたかったのは……」
ディトンはそれがさも言いにくいことであるかのように、一度言葉を切った。そうしてその鉄を含んだ少し暗い瞳に不思議な光を宿し、言った。
「お譲ちゃんみたいなレディってことさ」
「まあ」
相手の言葉に、ノエルは含羞み、思わずその空色の瞳を伏せた。繊細な曲線を描く睫毛がそっと揺れる。それからノエルは持ち前の明るさでにっこりとした。それは少女の笑みであった。
「私はノエル。アヴァロンの天使サミュエルの娘。よろしくね」
「じゃあノエル、あの船に乗ってくれ。人間の国、<サマーランド>まで送って行くよ。サミュエルに頼まれたんだ。奴とは古い友人でね」
そう言ってディトンは短い親指で後ろの船を指差したが、ノエルはディトンがサミュエルの名前を出し、彼と友人と名乗ったことにある種の衝撃を覚えていた。ノエルはドワーフの事を、音楽とは無縁の野暮で無粋な太っちょの種族だと思っていたのだ。そんな彼がサミュエルの名前を出すことに、ノエルは抵抗感を感じたのだった。
ディトンはノエルの瞳に翳る暗いものを見ても鼻を鳴らしただけで何も言わなかった。ノエルはその音に敏感に反応し、改めてディトンを見遣った。
……でもこの小人は、思っていたより太っちょでもないし、そう、ドワーフの顔の美醜は判らないけれど、なかなか私にとって好ましい顔をしているわ……。そう思うとノエルは自分が非常に狭量な気になって、恥じ入るように瞳を伏せた。
そうして気を紛らわせるように船に目を転じる。小さな円形の、柳の木で出来ている船だ。船は白真珠を想わせる滑らかな色の帆を凛と張っていた。ノエルは目を見開いた。それは一角獣の白い毛皮で出来ていたのだ。
「この船、とっても優雅で魅力的ね。一人前の淑女だわ。私みたいな小娘が、お友達になれるかしら……?」
「あんたが言ったじゃないか。彼女は貴婦人だ。心も広く、澄んだ鏡のようだ。あんたの心掛け次第だな」
「まあ、結構なことね。彼女、名前は何と言うの?」
「<うるわしのメイヴ>号」
「鴎?」
ノエルは訊ねた。この船の事が知りたかったのだ。ディトンは首を横に振り、遥けき彼方に想いを馳せるように海を見遣った。年齢以上に年老いて見えるドワーフの瞳に、その時だけ春が宿っているのを、ノエルは見た。
「俺が初めて<サマーランド>に行った時最初に見た人間の女性は海の真珠のように白い肌と、夏の薔薇のように紅い髪をしていた。丈高きうるわしのメイヴ。それが由来さ」
この案内人のドワーフは意外と夢想家なのかもしれないわ。そう思うと、ノエルは彼と過ごす旅路が楽しみになった。
小振りだが二人を乗せるには十分すぎるほどの広さの船に乗り込む。
「じゃあ出発だ!」とディトンが声を上げて、海神への捧げものに赤銅貨を天高く投げた。この行為によって、自らの運と運命を大いなる海神に委ねるという意思を示すのだ。
表に偉大なる始祖ギアレンの顔、裏に金槌が描かれたドワーフ銅貨が、陽光を浴びてきらめいた。
「さて、表が出れば幸運だが…」
ノエルも、見守るように天を仰いだ。
銅貨が宙を舞い、降下し、ディトンの掌の中に納まる。小人は掌中の銅貨を見て笑った。初めてみる、若々しい心からの笑みだった。
「海神セアルーンも照覧あれ、表だぜ」