別れは暫しのことなれば
サミュエルは起き上ると、暮れていく春の黄昏の様な青灰色をした精緻で硬質な造りの棚を開けた。鍵が掛かっていて、普段はノエルでも開けることのできない棚だ。そこから彼が取り出したのが、やはり一つの小さな箱だった。
棚の中から箱が出てくるなんて……何が起こるか判らない人生を象徴しているようね。サミュエルがその白い手で箱の中身を取り出す様を見ながら、ノエルはそう思った。
そうしてサミュエルがノエルに手渡したのは緑翠石で出来た小さな風車と、アンティーク調の赤い革綴じの本だった。
ノエルは本を受け取った。古びた紙のにおいが鼻をつく。読書家であるノエルが親しんでいる、心安らぐにおいだった。
恋人を扱うような敬意に満ちた仕種で、本を開く。そうしてノエルは、その秀麗な眉を訝しげに寄せた。
それは白紙の本だったのである。
「この本、絵も文もないわ。日記?スケッチブック?」
絵も文もない本なんて、それくらいにしか使い道がないというものだわ……。
そう思い、ノエルは少しだけ拗ねたような顔で兄とも思う天使を見た。これが贈り物だというの?
彼が天使らしからず眠たげに目を擦っているのを見て、ノエルは心で毒づいた。
「まあそう言わず、その風車に息を吹き掛けて廻してごらん」
そう言われ、もうひとつの風車の方に目を転じた。
アヴァロンで物珍しいものを見慣れているノエルにとっても、それは不思議な美しさに満ちていた。間違いなく宝石で出来ているのだろうそれは小振りで、風のように軽やかだ。見ていると、どこからか活力がわいてくるような気さえしてくるものだった。
少女の中で好奇心が勝った。「好奇心は詩人を滅ぼすと」いう格言があったが、ノエルはいつだってそのような好奇心は歓迎だったのだ。ノエルは風車にそっと顔を近づけた。
そっと息を吹きかけると、宝石色の風車は緩やかに廻り出し、そこから柔らかな風が生まれた。それは魔法のような、穏やかな風だった。
神秘的な風に乗り、どこからか白い綿毛が運ばれてきた。よく見ると、羽のようなそれは花の生命ともなる種だった。綿毛はノエルの寝台の側に置いてあった観葉植物の鉢に横たわる土の中で踊った
その瞬間、ノエルは何処か遠くで神聖な鐘の音を聞いたような気がした。
(ああ……私が人の世界に焦がれるようなこの感じ……。衝動というのかしら……見たこともない場所なのに確かに故郷で、愛おしくて、切ないんだわ)
歌いたい……奏でたい……。強くそう願っていた。それは心の底から泉のように湧き上る、祈りにも近い静かな叫びだった。
ノエルは自身が愛用している碧色の永久銀で出来た竪琴を引き寄せ、弦を奏でた。角の生えた天馬が最後の吐息とともにノエルに贈った純白のたてがみで出来た逸品だ。
最初の和音を奏でると、不思議なことが起こった。
旋律を聞いた白い綿毛は緩やかに変化していった。種となり、緑葉となり、蕾となり、花となったのだ。そうして咲いたのは淡い青みがかった8枚の大輪の花弁。風車花だった。
驚いてその土耳古石の様な青色の瞳を見開いているノエルに天使は微笑んだ。
「この風車は小人族が創った魔法の意匠。詩人の祈りや想いを聞き取り、種を生み出し、音楽を栄養として花を咲かせるんだよ。ノエル、人間界は今災害が起こり、貧しさや争いが棘のある薔薇の茎のように芽生えている。お前の憧れや純粋な気持ちを粉々に砕いてしまうかも知れない。それでもお前は行くのかい? 私が与える使命を携えて?」
サミュエルはノエルの目を覗き込んだ。その深い緑の瞳には少し怖くなるくらい真剣な光を宿していた。こんな表情を見るのは初めてだ。ノエルは喉に渇きを覚えた。
(私…私は……)
彼女は凛然と顔をあげてサミュエルを見遣った。それから銀鈴の声で告げたのだった。囁くような声であったが、静寂に包まれた室内に彼女の声が響き渡った。
「それでも私、行くわ。私は地上に属するものだもの。肉体も、魂も、故郷に帰りたいと何度も何度も谺すの」
「しかしお前の精神だけは、確かにこの林檎の地が培い、そこに属する物だよ。…だがそういう事ならこの魔法の花も、風車もお前の物だ。きっとお前を導いてくれる。お前の使命はね、人間界に春の風を吹かせること。春を運ぶことだ。大地と、人々の心にね」
頷き、答える代りにノエルは歌った。
黄金の林檎の蜜はうましく
想い出は菫色の額縁に慎ましく飾られて呼び起こされる
水は人知れず遠く 低く
遥けき道を 娘とともに
昏い海に幸せを求めて流れるばかり
ノエルはそっと謡いやめた。
そうして子供じみた仕種で天使の白い服の袖をつかみ、気づけばきつく身を寄せ抱きついていた。涙が溢れて止まらないのだ。その顔を見られたくなかった。
「父であり兄でもある方、森の様な緑の目、陽光の金の髪の方。私……、あなたのことが大好きだわ」
「別れは暫しのことなれば、お行きなさい。兄とは妹を見送るのが役目みたいなものだからね。……そして帰ってきたら、お前の好きな苺を沢山食べようね」
「本当? 苺のタルト、苺の紅茶、苺豆腐に苺のパスタ…。苺のオムレツ…! それと……」
ノエルは頷きながら目を輝かせたが、サミュエルはちょっと困った顔で首をかしげただけだった。
「お前の物語と紡いだ詩を、その白紙の本に記しておくれ。後で私がお前の足跡を知れるように」
兄のその声を聞きながら、ノエルはその夜初めての安らぎを感じて眠った。これから感じるだろう苦痛のすべては、今はまだその手の届かぬ所にあった。
ノエルは旅の支度を整えると、金枝雀の黄金色の花が咲く森を抜けて海辺を目指した。彼女が自分自身のように大事に思う竪琴はもちろん、愛用の羽根帽子も忘れなかった。
サミュエルによると海辺に<案内人>を待たせてあるという。ノエルの心は躍った。
ノエルはサミュエルと深い森の奥に住んでいて、そこから遠くに行くことはあまりなかったのだ。友人といえば森に暮らす植物や動物たちであり、淋しいと感じたことはなかった。しかしノエルは一つどころに留まるにはいまだ若すぎたのである。
慣れ親しんだ道をゆき、森の小さな友達たちにはさよならを言った。あなたの心のこもった歌が聞けなくなるとさみしくなるね、と言われて何度も胸が締め付けられる。この土地に対する憧れと愛情は生涯消えることはないだろう。この気持ちを言葉にするには、言葉とはなんと無粋な物なのだろう。
どれほど歩いただろうか。やがて視界が開け、緑の葉の先にはぬけるような青空と、海が開けて行った。海は瑠璃色をしている。ノエルは目を凝らした。
雲もない空と海。画布に絵の具を一色垂らしたように青い風景。その入江には白い帆船が鮮やかに、そして軽やかに佇んでいた。