妖精ノエルは人間界に想いを馳せる
人は昔妖精だったのだ。
しかし今は多くの人が、そのことを忘れて暮らしている。
いまだ創世の言葉である魔法がこの世界に存在していた、遥か昔の物語である。
サマーランドとアヴァロンという二つの小島が海を隔てて存在していた。
アヴァロンは妖精たちのすむアルカディアであり、サマーランドは人間たちのユートピアであった。
海に囲まれ、森に覆われる二つの島には今も古き時代の魅力に満ちた魔法が息づいている。
魔法とは心の内側から湧きいづる泉であり、多くの人がその泉の中から最初の生をうけるのである。
しかし、そのこともまた、忘れられた創世の時代の真理なれば。
月光色の髪のエルフの少女ノエルは 竪琴弾きだった。遥か彼方の 林檎の地で音楽の天使サミュエルに竪琴を教わった彼女は、恋に落ちた人魚が海に焦がれるように人の世界に焦がれた。
その想いは、海の波が寄せては返るように静まることもあったが、徐々に強くなる一方であった。ノエルは息苦しいほどの切なさと苦しみを抑えられずに、その夜を柔らかい純白の羽根の寝台の上で過ごしていた。
隣の寝台では養い親でもあり兄でもあり、師でもある天使のサミュエルが寝息を立てている。二人の距離はその親しさを表すように、伸ばせば手が触れるほどしか離れていない。
ふと天使の顔を覗くと、彼はなんとも人間臭い仕種で頬の下に掌を敷いて、枕のようにして眠っていた。聞いた話によると昔人間の世界に行った時親しくしたシルーンという吟遊詩人の癖だったそうだ。
ノエルはくすくすと笑ったが、すぐに笑いやめた。それからともすれば泣き出してしまいそうな物思いに沈んだ顔で考え込み、黙る様子はさながら貝のごとくであった。
人間の世界。それが何故、私の胸をこんなにも焦がすのかしら? 私は妖精なのに。でもこんなにも焦がれてしまうんですもの。私も彼らの世界の一部なのではないかしら? 私の居場所は、本当は人の世界の中なのではないかしら?
ノエルはサミュエルの白皙の貌を覗き込んだ。穏やかな中に長い年月を過ごしてきた確かな英知が感じられる。
私が今から告げようとしていることは、彼を穏やかではいさせないでしょうね……。
そう思いながらも、ノエルは決心した。その土耳古石を想わせる明るい青い瞳には、何か決然とした光が宿っていた。
彼女はそっと起き上り、優しくサミュエルを揺り起した。腰までゆったりと波打っている長い絹の様な髪が腕にもつれる。緊張しているのだろう。でも、今言わなければ私は生涯後悔することになるわ……。そう思ったのだ。
「どうしたんだい? ノエル。眠れないのかな? 私は眠いのだけれど……ああ、眠気を分けてあげれたらちょうどいいのに……」
そんなことを言いながら、しかし文句一つ言わずにサミュエルは起きあがった。緩やかに波打つ豪奢な黄金色の髪はノエルのそれよりも濃かったが、確かに二人は兄と妹のように似ていた。ただ、サミュエルの瞳は深い森の色である。
サミュエルはノエルが纏う切羽詰まった雰囲気を敏感に察知してこの妹とも思う少女に向き直った。それからただ静かに彼女を抱きしめ、その滑らかな手で背中をさすった。
「何か言いたいことがあるんだね? どんなことでも良い。恐れずに言ってごらん」
胸に抱かれると、サミュエルの心音がノエルの耳に心地よく伝わってくる。
このまま溶けてしまえたら、この先の苦痛を感じなくても済むだろうに…。そう思うと、ノエルは白い頬を天使の胸になおきつく寄せた。
「サミュエル、私、人の世界に行きたい。歌うことしかできないけれど、歌いたいの。竪琴を奏でたいの」
まるで恋に落ちた娘みたいな声ね。接吻けにも等しい声だわ。
でも良いじゃない、とノエルは思った。事実その通りなのだから。私は人間界に恋した妖精の娘。まるで小さい頃読んだ昔話の様な想いを自分が抱くことになるなんて、どうしてわかることができたのだろう。
こわごわとサミュエルを見遣ると、彼は特に驚いている様子はなかった。この言葉を聞くことになるのが判っていたが、それを聞いたことを不思議に思っているような、そんな雰囲気に見えた。
サミュエルはノエルの額にそっと接吻けをしてから、言った。深みあるテノールの声が、秘密を打ち明ける少年のような瑞々しさをはらんでいる。天使の囁きには限りない親愛の念が込められていた。
「ノエル、かわいい娘。お行きなさい。そして私からあなたに、ひとつの使命と 贈り物を与えましょう。それが私の条件だ」
ノエルは不思議に思い小首を傾げた。サミュエルがこんなことを言ったのは初めてだったからだ。