第51話 帝国軍まで、あと九日。閣下は、二百の名を呼んだ
◆ ギルバート
あと、九日。
帳簿を、閉じた。
閉じたが、数は頭に残る。数は、紙を閉じても閉じない。
書庫の窓の外は、雪の夜だった。峠の稜線の上に、小さな火の点が、横一列に並んでいる。帝国の篝火だ。星より低く、星より赤い。三日前より、数が増えていた。
九日後、あの火の下の帝国軍が、この峠を登ってくる。
穀物庫。麦、九樽と半分。村人が荷車で運び込んだ分を足して、十四樽。二百人が春まで食べる分に、少し足りない。足りない分は、雪がゆるんでから村の蔵で補う。それが、十日前の計算だった。
今夜、その計算に、三千五百という数が乗った。
「――閣下」
書庫の机の向こうで、閣下は地図を見ている。峠。七つの村。城。
「パンを焼けば、三千二百個で、樽が三つ空きます。三つ空けば、春の種麦に、指が触れます」
三千二百。この城の二百人なら、半月は食べられる数だ。けれど閣下は、それを城の二百人のためだとは、一度も言わなかった。
「触れるな」
即答だった。
「焼くのは、その手前までだ。種麦の樽は、蓋に釘を打て。私にも開けさせるな」
「承知しました」
私は、それを帳簿に書く。種麦、二樽、釘。
「それから、閣下。三つ空けたあとの二百人は」
「粥を薄める」
閣下は地図から目を上げない。
「帝国の兵が、峠の向こうで食っているのと同じ粥だ。私たちは、それを、ひと月食う。塩は――」
そこで、閣下の手が止まる。
「塩が、足りん」
「足りません」
「マルタに訊け。四十年、足りない塩でスープを作ってきた女だ」
私は、頷く。
それから、訊いてはいけないことを、訊いた。
「閣下。三千五百人が、パンを食べて、それでも登ってきたら」
閣下は、地図の上の峠を、指でなぞる。
「そのときは、種麦は、要らなくなる」
それだけだった。
私は帳簿を開き直して、その一行を書かなかった。書かないことにも、九年の腕がいる。
パン、三千二百。用途の欄は、空けておけと言われた。
何に使うのか、閣下はまだ、私にも言わない。
翌朝、閣下は、城じゅうの者を大広間に集めた。
兵も、村の者も、子どもも、山羊を連れた老人も。二百人を超える人が、藁の上に立つ。高窓から差しこむ雪明かりが、その顔を、ひとつずつ白く照らしている。
閣下が、前に立つ。手には、帳簿でも地図でもなく、使いこまれた帳面が三冊。王女の帳面だ。
「お前の帳面を、借りる」
閣下は、王女にだけ聞こえる声で、そう言う。王女は、目を丸くしたまま、うなずく。
一冊目を開く。炭の字だ。ところどころに、粉で白くなった指の跡がついている。王女が、厨房の棚の上で書いてきた帳面だった。
閣下の声は、大きくない。それでも、藁の上の二百人の、いちばん後ろまで、まっすぐに届く。
「ディルク」
「はっ」
「城壁の東。三つ目の矢狭間から下を、お前が見ろ」
「カール。北の門。開けるのも閉めるのも、お前が決めろ」
カールの背筋が、まっすぐに伸びる。
「オットー。熾火の壺を、全部、お前に預ける」
「へい」
「マルタ。塩を、春まで持たせろ」
「無茶を言うね」
「お前にしか言わない」
大広間のあちこちで、小さな笑いが起きる。
閣下は、一人ずつ、名を呼んでいく。呼ばれた者は返事をして、背筋を伸ばす。呼ばれるたびに、大広間の空気が、少しずつ温かくなっていく。
ベルタおばあさんの名が呼ばれる。
「手袋を、編めるだけ」
おばあさんは、編み針を持ったまま、「もう編んでるよ」と答えた。
フリッツの名が呼ばれる。六つの子だ。
「山羊を、頼む。全部の名前を知っているのは、お前だけだ」
フリッツは、真っ赤な顔で、「はい!」と叫んだ。
九年、閣下が毎晩口にしてきたのは、死んだ十二人の名だけだった。生きている者には、「東の矢狭間に一人」「北の門に二人」と、帳簿の上の数で命じてきた。
その人が、今、二百の名を、一人ずつ呼んでいる。王女が、炭のかけらで書いた名を。
閣下の斜め後ろで、王女が、両手で口を押さえていた。
二百の名を呼び終えて、閣下が一度だけ振り返る。
最初に見たのは、王女だった。
私は、眼鏡を外した。拭く前に、もう一度かけ直す。
見ておきたかった。
◆ セラ
帝国軍が来るまで、あと八日。
厨房の竈は、三つとも、朝から燃えている。粉の匂いと、焼けていくパンの匂いで、空気が甘く、重い。
九日で、三千二百。マルタさんが指を折って、「一日、三百五十六個」と言う。竈三つで、一度に焼けるのが、三十。十二回、火を入れ直す。
「無理だね」
マルタさんは、そう言って、粉をふるい始める。
無理だと言った人が、いちばん最初に手を動かす。この城では、それが普通なのだと、私はここに来て覚えた。
村の女たちが、竈の前に並ぶ。アンナさん。それから、名前を知らない人が、まだ、たくさん。
私は、帳面を、粉のつかない棚の上に置いた。
今日、書ける名前は、全部書く。
「あんたが、お姫さんかい」
しゃがれた声に振り向くと、炭焼きの匂いのする老人が、戸口に立っている。背中に、壺。壺の口から、細い煙。
「熾火を、持ってきた。竈の火が消えたら、これで、つける。あの冬も、そうやって、村の竈に火を戻した」
「お名前を」
「ヨーゼフ」
マルタさんが、粉をふるう手を止めずに言う。
「ヨーゼフ、あんた、まだ生きてたのかい」
「マルタ、あんたも、まだ怒鳴ってたのかい」
二人は、それきり、口をきかなかった。
けれど老人が壺を竈の脇に置いたとき、マルタさんは、いちばん近い椀にスープをよそって、黙って突き出す。塩は、ちゃんと入っている。
ヨーゼフさん。二百十五人目。
その後ろから顔を出した娘の名を、続けて書く。
「グレーテです。じいちゃんの、孫で。……あの、何か、運ぶものは」
「石を」
私は、竈の脇の、丸い石を指した。
「あれを、火で温めて、布に包んで、城壁の夜番に。夜が、いちばん寒いので」
グレーテさんは、石を見て、それから私を見て、少しだけ、頬を赤くする。
なぜ赤くなったのか、私には分からなかった。分かったのは、もう少しあとのことだ。
あと六日。昼すぎ、厨房で、何かが割れる音がした。
竈の脇で、ルーカスが立ちすくんでいる。足もとに、陶器のかけらと、白い塩が散らばっていた。マルタさんが、いちばん大事にしている、あの塩の壺だった。
厨房じゅうが、しんとなる。塩がどれほど足りないか、ここにいる誰もが知っている。
「……ごめんなさい」
ルーカスの声が、震える。
「おれ、払う。大きくなって、兵士になって、お金もらったら、全部、払う」
マルタさんは、黙って、床にしゃがみこむ。手のひらで、塩をひとつまみずつ、かき集めはじめた。
「払わなくていいよ」
「でも」
「割れた壺は、あたしの帳面につけとく。あんたが大きくなるのを待ってたら、あたしゃ、とっくに墓の中だ」
ルーカスが、目をこする。
「その代わり、ほら。拾うのを手伝いな」
粉だらけの手が、ルーカスの頭を、一度だけ、ぐしゃりとなでた。
ルーカスは、泣きながら、塩を拾う。
それから、その日、誰よりもよく働いた。薪を運んで、水を運んで、頼まれてもいないのに、竈の灰まで掻き出した。
払えない子の分を、誰かが、黙って払う。
◆ ゲルハルト
夜の城壁は、風が刃物みたいだった。
峠から吹きおろしてきて、外套の隙間という隙間に入りこむ。槍を持つ指の感覚は、とっくにない。稜線の帝国の篝火は、昨日より、また増えている。
石が、来た。
布に包まれた石を、両手で受け取る。熱い。手袋の上からでも、熱い。
受け取るとき、娘の指先に、指が触れた。冷えている。
石より、こっちを温めてやりたいと思った。
「……どうも」
「はい」
娘は、それだけ言って、階段を降りていく。
三日、同じことが続いた。石が来て、どうも、と言って、はい、と言って、降りていく。
四日目、俺は、石を受け取る前に、言った。
「ゲルハルト。俺の、名前」
娘は、階段の途中で、止まる。
「……グレーテ」
「知ってる。三日前に、お姫さんが呼んでるのを聞いた」
娘は、階段を、降りない。
城壁の下で、ディルクさんが、矢じりを研ぎながら、鼻で笑ったのが聞こえる。あの人は、何でも聞こえる。
「お前、石より、顔が赤い」
「研いでてください」
俺は、石を、胸に抱える。
峠の向こうに、三千五百。こっちは、二百と、山羊。数えたら笑えてきたが、笑うと手が震えるので、石を抱えた。
娘は、階段の途中で、まだ、こちらを見ていた。
「……明日も、来ます」
「頼む」
それから娘は、降りていく。
九日のうちに、あの娘に、言っておくことがある。
何を言うのかは、まだ、決まっていない。
◆ セラ
あと二日。
夜の厨房で、粉の袋の口を、順に、結び直していた。
手が、痛い。この数日で、あかぎれが、全部の指に戻ってきた。大聖堂の床を磨いていた十年間の手だ。この城で治りかけていたものが、たった数日で、戻ってくる。
治ったことのほうが、嘘みたいだ。
厨房の小さな窓の外では、雪がやんでいる。凍った空に、星がいくつか出ている。峠の篝火と、同じくらいの小ささで。
戸口に、閣下が立っている。
いつからいたのか、分からない。グラウが、足元で、尾を振っている。
「――手を、出せ」
「粉が」
「出せ」
出した。
閣下は、懐から、小さな壺を取り出す。膏薬だ。北に来た最初の朝、洗い場の椀の隣に置いてあったのと、同じ形の壺。
閣下が、私の手を取る。膏薬を指で掬って、あかぎれの一本一本に、置いていく。
置く。押さない。自分の手に塗り慣れた人の、塗り方だった。
「痛いか」
「いいえ」
痛くない。手より、別のところが、どうかしている。
「……どうして、分かったんですか。手のこと」
「朝、帳面を受け取ったとき、指が割れていた」
「……閣下。それは、閣下のです」
「私の手は、今日は割れていない」
「明日、割れます。薪を運ぶので」
「なら、明日、お前が塗れ」
閣下は、私の手を、離さない。
膏薬を塗り終わってからも、離さなかった。
厨房の竈の火が、三つ、低く、しゅう、と鳴っている。
「セラ」
「はい」
「九日で、三千二百は、焼けるか」
「マルタさんは、無理だと言いました」
「それで」
「言ってから、粉をふるい始めました」
閣下が、少しだけ、笑った。
笑ったまま、私の手の甲に、額を、つけた。
一瞬。
額は、冷たい。
「……お疲れですか」
「いや」
閣下は、顔を上げる。
「セラの手が、温かい。それだけだ」
戸口の向こうで、何かが、動いた。
眼鏡の、銀の縁。
扉が、音を立てずに、閉まった。
私は、それを、見なかったことにする。
閣下も、たぶん、見なかったことにした。
膏薬の壺は、竈の脇に、置いたまま。翌朝、ギルバートさまが、それを見つけて、帳簿に書いた。
膏薬、一壺。厨房。用途、不明。
読んでくださって、ありがとうございます。
「セラの手が、温かい。それだけだ」
次回は、塩が足りない厨房で、マルタさんが四十年ぶりにつるはしを持ちます。
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