第52話 塩が尽きたら、雪を掘る。四十年ぶりの洞へ
◆ ハインツ
峠の手前の野営地で、粥が、水になっていた。
帝国の陣と並んで野営するようになってから、王家の兵も、毎朝、あの金の像の前を通るたびに頭を下げさせられている。
殿下は、いちばん深く下げていた。母上にそう言われていたらしい。殿下が深く下げれば、俺たちも、それより深く下げるしかなかった。
――このあいだまでは。この二、三日、殿下は像の前で、少しだけ立ち止まるようになった。下げる頭が、前より浅い。
野営地の雪は、何日ぶんもの足跡で、灰色にぬかるんでいる。夜になると、それが凍って、刃物みたいに足の裏を切った。
王家の兵五百。給金は二月出ていない。帝国の軍団の後ろについて、ここまで、雪を歩いてきた。
隣で、テオが、椀を持っている。十六。王都の下町の、靴屋の三男。剣を持ったのは、この冬が初めてだ。椀を包む指に、まだ、靴の革を縫うときの、糸の跡がある。
「ハインツさん」
「なんだ」
「これ、粥ですか。水ですか」
「粥だ。塩が、入ってる」
「……入ってないです」
「入ってると思って、飲め」
テオは、飲む。それから、俺を見る。
「ハインツさん。俺たち、あの城の人を、殺すんですか」
「命令が、出れば」
「命令が出たら、殺せますか」
俺は、答えない。
三年、殿下の靴を運んできた。殿下は俺の名を知らなかった。この何日かで、一度、呼んだ。「ハインツ」と。それだけで、俺は、殿下の後ろに立っている。
人は、名前を呼ばれた場所に、立つ。
俺は、懐から、黒パンの残りを出す。三日前の。硬い。
半分に割って、テオに渡す。
「食え」
「ハインツさんの分が」
「俺は、殿下の靴を運ぶだけだ。お前は、初めて剣を持つ。腹が減ってる奴が、剣を持つな」
テオは、パンを、両手で持つ。
齧る。硬い。齧りながら、泣いている。
俺は、見なかったことにした。
腹が、鳴った。焚き火のはぜる音で、ごまかす。
峠の上に、黒い城が見えている。城壁のあちこちで、小さな灯りが揺れていた。あの灯りの下にも、粥をすすっている奴がいるのだろうか。
あの城には、騎士がほとんどいないと聞いた。城壁に並ぶのは、炭焼きや猟師の息子たちだと。
俺たちと、同じだ。
あの城に、誰がいるのか、俺は知らない。ただ、大広間で、麦を拾っていた娘の顔は、覚えている。殿下がスープを浴びせた娘。その娘の隣に、氷竜が膝をついた。
あのとき、俺は、殿下の後ろ。
膝をつきたかった。でも、つかなかった。
それを、この雪の中で、ずっと考えている。
隣の焚き火に、髭の男がいる。王都の兵で、ベルントという。若いロルフと二人で、黙って粥をすすっている。
北の関所まで、王女を運んだことがあるらしい。荷馬車で二週間。門の手前の雪原で降ろして、干し肉を一切れ、雪の上に放ってきた、と。
話したのは、それだけだ。男は、それきり黙った。
ロルフという若いのは、焚き火の向こうの黒い城を、さっきから、ずっと見ている。
◆ マルタ
帝国軍が来るまで、あと二日の夜。
厨房の窓の外は、また雪だった。音もなく積もって、明日の朝には、また誰かが掻かなきゃならない。
竈の前で、あたしは、塩壺を、二つに分ける。
ひとつは、パン用。三千二百個。塩は、効かせる。効いてないパンは、パンじゃない。あたしの竈から出るものに、塩が入ってないなんてことは、一度もなかった。
焼けたパンは、北の蔵に積んでいく。蔵の中は、外と同じ寒さだ。九日たっても、かびひとつ生えない。
石みたいに凍ったパンも、竈のそばに半日置けば、焼きたての匂いに戻る。北の女なら、誰でも知ってることだ。
もうひとつは、城用。
こっちは、薄い。
ひと月、粥を薄める。閣下が決めたことだ。お姫さんは、「私の椀も、みんなと同じに」って言った。ギルバートは、帳簿に書く。
「あんた、自分の椀だけ、薄くするつもりじゃないだろうね」
訊いたら、お姫さんは、答えなかった。答えない子の椀は、あたしが決める。お姫さんの椀に、パンの耳を、一つ、黙って落としてやる。三千二百から、一つ、減った。神さまだって、そのくらいは許すだろう。
あたしは、こっちの壺の底に、指で、印をつけた。ここまでは、減らさない。ここまで減ったら、あたしが、雪を掘って、岩塩を探す。昔、そうやって、この竈を守った。
ヨーゼフが、竈の脇で、熾火の壺を、覗いていた。
「マルタ」
「なんだい」
「四十年前、あんたが雪を掘ったとき、隣で穴を掘ってたのは、俺だ」
「知ってるよ」
「知ってて、四十年、口をきかなかったのか」
「あんたが、村に帰ったからだ」
ヨーゼフは、壺の蓋を、閉める。
「……今度は、帰らん。雪がゆるんでも」
あたしは、粉をふるう。
篩の目から、粉が、少しだけ、外にこぼれた。
手が、止まらなかったのは、止めたら、何か言わなきゃならないからだ。
言わなかったことを、今さら言うには、あたしは、歳を取りすぎている。
でも、ヨーゼフの椀には、その夜、塩を、ひとつまみ、多く入れた。
パン用の壺から。
*
あと一日。その朝、壺の底の印が、見えた。
あたしが指でつけた、あの線だ。ここまでは減らさない、と決めた線。パンが三千二百。塩を効かせたら、思ったより食った。あたしの勘定が甘かった。
塩の壺を抱えたまま、竈の前で、少しだけ、立ちつくす。
この冬のはじめは、麓の村まで三日かけて分けてもらった。今は、その村の者も、みんなこの城の中だ。
それから、物置へ行って、つるはしを出した。
若いころに使ったきり、一度も触っていない。柄が、乾いて白くなっている。握ると、手のひらが、ちゃんと覚えていた。
厨房の裏口を開けると、雪の上に、橇がひとつ。
鑿と、槌と、麻袋が三つ。それから、橇の綱を握って、炭焼きの爺が立っている。
「……なんで、いるんだい」
「印が見えたら、行くだろうと思った」
「いつから待ってた」
「夜明け前から」
ヨーゼフは、鼻の頭が赤い。六十も過ぎて、雪の中で、夜明け前から。
馬鹿だね、と言おうとして、やめた。言えば、昔と同じ口喧嘩になる。今日は、そんな暇はない。
「グレーテ。ゲルハルト」
ヨーゼフが、後ろに声をかける。
橇の陰から、ヨーゼフの孫娘と、夜番明けの若いのが、出てきた。若いのは、目の下が青い。寝てないんだろう。それでも、麻袋を、二つ、肩にかけている。
「夜番は、昼まで休みです。……マルタさんの塩が切れたら、俺の夜の粥が薄くなるんで」
嘘だね。
この若いのが来たのは、塩のためじゃない。グレーテの隣を、歩きたいだけだ。
顔に書いてある。グレーテの顔にも、同じことが書いてある。
あたしは、何も言わなかった。言うと、昔の誰かと誰かを見ているようで、腹が立つからだ。
「……おれも、行く」
厨房の戸口から、小さい声がした。
ルーカスだ。九つ。塩の壺を割った子だ。
「だめだよ。雪が深い」
「おれ、払うって言った。壺の分」
「払わなくていいって、言っただろう」
「だから、手伝う」
あたしは、ため息をついた。
この城の子どもは、どうして、こう、言うことを聞かないんだろう。
「……角灯を持ちな。落としたら、帰りは、あんたが橇を引くんだよ」
ルーカスは、角灯を両手で抱えて、いちばん後ろについた。
*
城の裏から、谷を上る。
雪は、膝まであった。先頭をヨーゼフが踏み、あたしが続く。その足跡を、若い二人が橇を引いてなぞる。ルーカスは、跡の中を、跳ねるように歩いてくる。
一刻、登った。
谷が狭くなって、右手に、白い崖が見えてくる。
あの冬以来だ。
崖の根もとが、雪の下で、少しだけ、へこんでいる。そこだけ、雪の積もり方が違う。
「ここだ」
ヨーゼフの声が終わる前に、あたしは、つるはしを振り下ろしていた。
雪を掘る。掘っても、掘っても、雪だ。腕が、すぐに重くなる。十八のときは、半日掘っても、平気だったのに。
隣で、ヨーゼフが、黙って木の鋤を入れる。
昔と、同じ並びだ。あたしが右で、あの爺が左。
若い二人が、掘った雪を、橇で脇へよける。ゲルハルトが重いほうを持つ。グレーテが、ゲルハルトの手袋の破れたところを、さっきから、ちらちら見ている。
ルーカスは、角灯を抱えたまま、穴を覗きこんでいる。
「ほんとに、ここに塩があるの」
「ある」
「なんで、知ってるの」
「鹿が、舐めに来てたんだよ。あの冬にな」
答えたのは、ヨーゼフだった。
「鹿が、この崖の根もとを、毎朝、舐めていた。何を舐めてるのかと思って、あとをつけた。……それが、この洞だ」
そうだ。
あの冬、鹿を追って、雪の中を一日歩いたのは、この爺だった。見つけて、あたしの厨房まで、走って知らせに来た。鼻の頭を、今日みたいに赤くして。
つるはしの先が、雪ではないものに、当たった。
かつん。
硬い音だ。
雪の下から、暗い口が、ひとつ、開いた。
洞の中は、外より、少しだけ、あたたかかった。
風が、来ない。それだけで、こんなに違う。
ルーカスが、角灯を掲げる。
壁が、光った。
灰色と、薄い桃色の、まだらの壁。角灯の火を受けて、ところどころ、小さな粒が、星みたいに、ちかちかと瞬いている。
「……わあ」
ルーカスが、口を開けたまま、動かない。
グレーテも、ゲルハルトも、動かない。
あたしも、少しだけ、動けなかった。初めてこれを見たときと、同じだ。
岩が、全部、塩だ。
ルーカスが、そろそろと、壁に舌をつけた。
「――しょっぱい!」
洞じゅうに、声が跳ねかえる。
ゲルハルトが吹き出した。グレーテも笑った。ヨーゼフまで、肩を揺らしている。
あたしは、笑わなかった。笑わなかったけど、ルーカスの頭を、手袋で、一度だけ、ぐしゃっとやった。
ヨーゼフが、壁に鑿を当てる。
槌で、叩く。かん。かん。
三度目で、拳ほどの塊が、ぽろりと落ちる。
角灯の火が、ヨーゼフの手を照らしている。あの頃より、ずっと皺の多い手だ。けれど、鑿の当て方は、何も変わっていない。
ゲルハルトが、それを拾って、麻袋に入れる。グレーテが袋の口を広げて押さえる。二人の手が、袋の上で、一度、ぶつかった。どっちも、何も言わない。グレーテが、袋の口を、必要以上に強く押さえている。
ルーカスは、角灯を高く掲げて、ヨーゼフの手元を照らしている。角灯が揺れると、ヨーゼフが「動くな」と言う。ルーカスが、息を止める。そのたびに、塩の粒が、星みたいに瞬く。
あたしは、落ちた塊のかけらを、ひとつ、拾った。
手のひらで、転がす。
あのときも、こうやって、拾った。
あの冬、竈の塩が尽きた。城には、病人。塩のない粥は、腹に入っても、力にならない。あたしは十八。厨房でいちばん下の娘。
鹿の話を持ってきたのは、炭焼きの小倅。
二人で、掘った。三日、通う。
三日目の帰り、橇の上で、小倅が何か言いかける。
あたしは、聞こえないふりをした。
春になって、小倅は、村へ帰った。炭焼きの父親が、死んだからだ。
それきり、四十年。
あの爺は、村で所帯を持って、孫までいる。女房は、三年前の冬に死んだと、グレーテから聞いた。
あたしは、この竈と、所帯を持った。
「マルタ」
鑿を持ったまま、ヨーゼフが、こちらを見ずに言う。
「なんだい」
「四十年前、橇の上で、俺が何を言いかけたか、覚えてるか」
手のひらの塩が、角灯の火で、ちかりと光った。
「……覚えてないね」
「そうか」
かん。
槌の音が、ひとつ。
「なら、また今度、言う」
「今度って、いつだい」
「帰り道で」
あたしは、塩のかけらを、前掛けの隠しに入れた。
四十年、遅いよ。
そう言いそうになって、やめた。
言えば、覚えていると白状するのと同じだ。
帰り道まで、待ってやる。ずっと待ったんだ。あと半日くらい、どうってことない。
*
麻袋は、三つとも、いっぱいになった。
橇が、重い。ゲルハルトが前で引き、ヨーゼフが後ろから押す。グレーテとルーカスが、両脇で綱を持つ。
あたしは、いちばん後ろを歩いた。
谷を下りるころには、日が、西の稜線に落ちかけていた。雪が、薄い桃色に染まる。洞の壁と、同じ色だ。
峠のほうに、篝火が見える。三千五百の兵の、火だ。
明日、あれが、登ってくる。
あたしの竈から出たパンを、あの篝火のそばの連中も、食べるのだと聞いた。敵に、パンを焼く。閣下が、そう決めた。
塩が効いてないパンは、パンじゃない。
敵の口に入るパンでも、それは、同じだ。
前を行く若い二人の背中を、見る。
明日、ゲルハルトは城壁に立つ。グレーテは、石を温めて、その城壁へ運ぶ。
ヨーゼフは、熾火の壺を抱えて、竈の火が絶えないように見張る。あたしは、竈の前に立つ。ルーカスは――あの子は、たぶん、言うことを聞かずに、どこかを走り回る。
明日の夕方、この橇を引いている誰が、まだ、ここにいるだろう。
夕日が、谷の雪を、桃色から金色に変えていく。崖の上の枝から、雪がひと塊、日を受けて光りながら、音もなく落ちた。
城の煙突から、細い煙が三本、まっすぐ空へ上っている。
あたしの竈の、煙だ。
こんなにきれいな夕方を、あたしは、何年も見ていなかった。毎日、同じ谷の上で暮らしていたのに。
前で、ゲルハルトが、橇の綱を引きながら、グレーテのほうへ、少しだけ首を傾けた。何か、言っている。
グレーテが、立ち止まりかける。それから、うなずいた。一度。もう一度。
何を言ったのかは、知らない。
あたしは、聞こえないふりをした。あの冬、橇の上で、そうしたのと同じに。
ただ、今度の娘は、聞こえないふりは、しなかった。
「マルタ」
前で、ヨーゼフが、振り向かずに言った。
「帰り道だ」
「……知ってるよ」
橇の軋む音。若い二人の、白い息。ルーカスの、小さな足音。
ヨーゼフは、それきり黙った。雪の上に、橇の跡が、二本、長く延びていく。
城の裏門が見えてきたころ、やっと、口を開いた。
「塩、足りたか」
それだけ。
四十年かけて、それだけ。
あたしは、笑ってしまった。
「……足りたよ。あんたの分も、ある」
*
その夜、厨房で、あたしは、パン用の壺に、洞の塩を削って入れた。
夜明けまでに焼く、残りのパンに、ちゃんと、効く。
それから、城用の壺にも、少し。
お姫さんの椀に、ひとつまみ、多く。
ルーカスの椀に、ひとつまみ、多く。
若い二人の椀には、きっちり同じだけ。どっちかを多くしたら、相手の椀に分けてやろうとして、また手がぶつかる。そうしたら、二人そろって、また椀ばかり見つめる。
ヨーゼフの椀には――
あたしは、少し迷ってから、ふたつまみ、入れた。
前掛けの隠しの中で、洞のかけらが、まだ、ちかりと光っている気がした。
竈の火の向こうで、炭焼きの爺が、椀をすすっている。
一口すすって、手を止める。
それから、顔を上げずに、言う。
「……しょっぱい」
「文句があるなら、返しな」
「ない」
ヨーゼフは、椀を、最後の一滴まで、すすった。
空の椀を、竈の脇に置く。
「……明日も、あるかい」
「あるよ」
あたしは、竈に、薪を一本くべる。火が、ぱちりと鳴った。
「明日も、あさっても。あんたが『しょっぱい』って言うかぎり、作ってやるよ」




