第47話 砕けた心の住まい(四)
雪は、音を立てずに降っている。
丸窓の色硝子の向こう、暗い空から、白いものがひとつずつ落ちてきて、窓枠に積もっていく。何かを埋めるのでも、閉ざすのでもない。冷えた石の上に、ただ、そっと載っていくだけの雪。
閣下の寝息が、肩のすぐそばで聞こえる。
ゆっくりで、深い。吸って、少し止まって、長く吐く。九年、この人は、こんなふうに息をしたことがあったのだろうか。
そっと、横顔を見る。
こんなに近くで、この人の寝顔を見るのは、初めてだ。燭台の残り火が、睫毛の影を頬に落としている。
眉間の皺が、ない。
いつも、そこに刻まれていた一本の線が、今夜は、どこにもない。
包まれたままの手が、温かい。
肩が、しびれてきた。けれど、身じろぎひとつできない。動いたら、この寝息が止まってしまいそうで。しびれくらい、何でもない。
耳を澄ますと、礼拝堂の外にも、音がある。
夜の城は、思っていたより、ずっとにぎやかだった。
七つの村から二百十三人が入ってきてから、城はひと晩じゅう、何かしらの音を立てている。
大広間のほうから、誰かのいびき。炭焼きのおじいさんのものだと思う。地鳴りみたいに長い。
回廊で、山羊が一度、寝ぼけたように鳴いた。
医務室の隅からは、生まれたばかりのリリの、小さな泣き声。すぐにアンナさんの子守歌が重なって、静かになった。
かち、かち、かち、と細い音もする。厨房の竈の前で、ベルタおばあさんが、まだ編み物をしているのだ。兵隊さんの手袋を、編めるだけ編む。八十三になる指で、昼も夜も。
それから、もうひとつ。
しゃっ。しゃっ。
城壁のほうから、硬いものをこする音がした。砥石の音だ。ディルクさんが、矢じりを研いでいる。昼間も、夜も。峠の向こうに軍団が来るまで、あと十五日。研いだ矢じりは、もう木箱に二つ分あると、ルッツが言っていた。
しゃっ。しゃっ。
その音を聞くと、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
この城の人たちは、みんな、眠りながら、戦の準備をしている。
城壁の上を、見張りの足音が行き来していた。一定の間で、止まらずに、こつ、こつ、と。今夜の見張りは、カールさんのはずだ。
その足音は、止まらない。この人が眠っているあいだ、誰かが、代わりに起きている。
*
礼拝堂の扉が、細く開いた。
顔を出したのは、ギルバートさま。腕に、毛布を一枚抱えている。
ギルバートさまは、長椅子の上の閣下と、その肩にもたれられている私を見る。
眼鏡が、鼻の上を、つるりと滑った。
ギルバートさまは、それを押し上げもせずに、足音を立てないように近づいてくる。毛布を広げて、閣下と私の膝の上に、そっと掛けた。端を、几帳面に、二回折り返して。
「……ありがとうございます」
小声で言うと、ギルバートさまは、さらに小さな声で答えた。
「私が、勝手にやったことです」
それから口を開けて、何か言いかけて、閉じた。
閉じたまま、扉のほうへ戻っていく。扉を閉める直前に、もう一度だけ、こちらを振り返った。眼鏡の奥の目が、少し赤かった気がする。湯気も立っていないのに。
言いかけたのは、たぶん、九年分の何かだ。言葉にしたら、あふれてしまうくらいの。
*
閣下が、寝言を言った。
「……ディルク。東の、三つ目の矢狭間だ」
思わず、閣下の顔を見る。目は閉じたままだ。
「……カールは、北の門。……オットーは、炭の壺を」
寝言でまで、城を守っている。九年ぶりに眠ったというのに、この人の頭の中では、もう峠の戦が始まっているのだ。
なんだか、胸が痛い。それから、少しおかしい。
閣下が、また、口を動かす。
「……セラ」
息が、止まった。
閣下は眠ったまま、眉を、少しだけ動かす。私に、何の役目をくださるのだろう。城壁か。厨房か。医務室か。
次の寝言を、私は息をひそめて待った。
「……塩は、足りている」
声を出さずに笑うのに、ひどく苦労した。肩が揺れたら、閣下が起きてしまう。
百合の香りが、ふわりと揺れた。神さまも、笑っていらっしゃる。
*
(神さま)
心の中で、呼んだ。
『うむ』
(今夜、閣下は何を渡したんでしょう。私には、砕けた心を床に置いた、としか見えませんでした)
『それで、全部じゃよ』
静かな声だった。
『裁く席から降りて、握っておったものを、床に置いた。……置いたら、眠れる』
(神さま。ずうずうしいことを訊きますけど)
『うむ。訊け』
(赦しは、さっき、閣下の手に載りましたよね。……それで、おしまいですか)
神さまは、声を出して笑った。
『やっと欲張ったのう。お主は十年、何ひとつ欲しがらんかった。……赦しは、始まりじゃよ』
(始まり?)
『あの子は、この五十日で何をした。言うてみい』
(塩が足りん、って書いて。お腹が鳴って。竈の火を、ご自分で組んで。赤ちゃんの名前に、困って。それから、寝言で、塩は足りている、って)
『九年前のあの子は、どれもせなんだ』
石みたいに固まっていたものを、神さまに預けたら、何が戻ってくるのだろう。
訊きかけて、自分で気づいた。
(動くもの、ですね。照れたり、赤くなったり、困ったり、寝言を言ったりする心)
『それじゃ。新しい心じゃ。今夜は、眠りもついておる』
(砕けたところは)
『ちゃんと治る。時間はかかるがの。涙もな、いつか、わしが全部拭く』
(神さま。辛くありませんでしたか。九年、そこにいて、手を出さずに、見ているだけで)
丸窓の雪が、ひとひら、硝子に触れて溶ける。
『辛かった』
一言だけだった。訛りをつける余地もない、短い一言。
『じゃが、手を出せば、あの子のものでなくなる。待つのが、わしの仕事じゃった。……今夜からは、あの子の心に、堂々と住むよ』
(神さまは、今夜、どこに座っていらっしゃるんですか)
『長椅子の前の床じゃ。いつもの高さ。犬の隣じゃ。犬が少し、詰めてくれた』
見ると、グラウは、二人の足の上にお腹を載せたまま、体を半分だけ横にずらして寝ていた。床の上の、空いたもう半分が、誰かのための場所みたいに。
(神さま。もうひとつ)
『うむ』
(今夜、閣下が……)
言えなかった。唇に、まだ、さっきの温かさが残っている。
『見ておらん、と言うたじゃろう』
神さまは、とぼけた。
『……少し、温めすぎたかのう』
*
私は、閣下の肩に、頭をそっと預ける。
閣下は、目を覚まさなかった。けれど外套の下で、私の手を包んでいた手が、そっと、包み直す。眠ったままで。
剣も、鍵も、帳簿も握っていない手だった。握るのではなく、包む手。
城壁のほうから、まだ、砥石の音が聞こえていた。しゃっ。しゃっ。
峠の向こうでも、きっと誰かが、眠れずに剣を研いでいる。
もうすぐ、この手は、また剣を握る。
だから今夜だけは、何も握らずに、眠っていてほしかった。
原作の最後の巻で、閣下は、ひとりで峠に立つ。最後まで、ひとりで。
私は、その結末を、知っている。
(神さま。ひとつだけ、お願いしてもいいですか)
『言うてみい』
(峠の戦を、なかったことにしてください)
心の中で言ってから、自分でもわかっていた。きっと、そういうお願いではないのだと。
丸窓の外で、雪が、降りつづけている。
『……それは、せん』
やさしい声だった。やさしいから、余計に、胸の奥に刺さった。
(どうしてですか。閣下は、やっと眠れたのに)
『雪を止めるのは、わしの仕事ではない。じゃが、雪の中を行く者の隣を歩くのは、わしの仕事じゃ』
雪を止めてくださる方ではない。
雪の中を、一緒に歩いてくださる方。
どうして止めてくださらないのか、私には、まだ、わからない。その日、誰が帰ってこられて、誰が帰ってこられないのかも。
わからないまま、隣の寝顔を見る。
眉間の皺のない、九年ぶりの寝顔。
この人の隣を、神さまは、九年、一度も離れなかった。急かさずに、ただ、待って。この人が、自分で手を開く今夜まで。
今夜、その九年が終わるところに、私は、隣にいた。百合の香りが、いちばん濃くなった、あの瞬間に。
だから、わからないままでも、怖いままでも、この人の隣にいよう。
(神さま。雪の中でも、そこにいられる力を、ください)
『うむ。わしも、おるよ』
帝国の軍団が来るまで、あと十五日。
祭壇の脇の蕾は、まだ固い。明日か、もっと先か。いつ開くのかは、わからない。
けれど今夜、ひとつ、先に開いたものがある。
私の手を包んで眠る、この人の手。
本日この後12時と22時に投稿します




