第45話 砕けた心の住まい(二)
閣下が、胴着の内側から、一枚の羊皮紙を取り出した。
王家の封蝋。署名のための、一本の線。
王都が寄こした、婚姻受諾書だ。けれど今夜、閣下が名を書くのは、王家に向けてではない。
閣下は、私の帳面の隣に置いてあった炭のかけらを取った。
インクではない。羽根ペンでもない。北に来てから、床磨きの娘が、名前をひとつずつ書きためてきた、炭のかけら。
「守れる、とは、誓えない」
炭を指にはさんだまま、閣下は言った。さっきまで、白くなるほど握りしめていた指で。
「城は落ちるかもしれない。私は、また間に合わないかもしれない。それは、何も変わっていない」
丸窓の外で、雲が切れる。
月の光が、羊皮紙の上に、白く落ちた。
閣下が、私を見る。
「だが、お前の隣に立つ、とは誓える」
閣下は、その炭で、線の上に名を書いた。
ヴィルフリート・フォン・アイゼンベルク。
角ばった、硬い筆跡。「塩が足りん」と、同じ筆跡。
そして閣下は、その名の下に、炭でもう一本、線を引いた。
「王家の紙には、お前の署名の場所がない」
炭のかけらが、私のほうへ差し出される。
「王女は、差し出される側だからだ。……だから、私が引いた」
炭を、左手で受け取る。閣下の指から、私の指へ。炭で黒くなった指同士が、触れた。
手が、震えている。
「閣下。これは王都には送らないんですよね」
「送らない」
「じゃあ、誰も読みません」
「読まない」
閣下が、少しだけ笑った。
「――お前の神以外は」
線の上に、名前を書く。
セラフィーナ。
母が、最後に一度だけ呼んだ名前。それから、人の口からは、一度も呼ばれたことのなかった名前。その名を、初めて、自分の手で。
百合の香りが、ふっと近くなる。
『長い名じゃろう』
(……はい)
『お主の母がつけた。少しくらい削られても、まだ残るように、とな』
炭の先が、最後の字の上で、止まった。
閣下が、じっと見ている。
「……セラフィーナ」
呼ばれた。
「はい」
「長いな」
「はい。だから、セラで構いません」
「いや」
羊皮紙をそっと折りたたんでから、閣下は、私の顔を見た。
近い。
炭で汚れた指が、私の頬に触れる。涙と炭を拭くように。拭けていなかった。もっとついた。
閣下はその黒い跡を見て、それから、私の目を見る。何を見つけたのか、口元が、ほんのわずかに緩んだ。ずっと、誰にも見せなかった顔だ。
「――今夜だけは、長いほうで呼ばせろ」
「はい」
「セラフィーナ」
今度は、ほとんど囁くように。
目を閉じる。
閣下の額が、私の額に触れた。
一瞬。
冷たい礼拝堂の中で、そこだけが、温かい。
「……ヴィ」
その先が、出てこなかった。
「いい。今はいい。……時間はある」
額が離れる。目を開ける。閣下は、私の頬の炭を、今度は親指で、ちゃんと拭った。
拭い終えた親指が、頬に残ったまま、動かない。
閣下の睫毛の先で、燭台の火が、小さく揺れている。冬の湖の色をした目が、私の目を見て――それから、ゆっくりと、私の唇のところへ降りてくる。
息が、止まる。
「……嫌なら、言え」
低い声。吐息がそのまま言葉になったような、かすれた響きが、耳のすぐそばに落ちる。
言わなかった。
言えなかったのではない。言わなかった。
目を、閉じる。
百合の香り。炭の匂い。雪の夜の、しんとした冷たさ。
その真ん中に、温かいものが、そっと触れた。
雪のひとひらが、窓枠に降りるくらいの、軽さで。
ほんの、一瞬。
なのに、十年分の冬が、どこか遠くで、音もなく溶けていく気がした。
目を開ける。
すぐそこに、冬の湖の色の目があった。
一瞬、目が合う。
閣下のほうが先に、ふい、と視線を外した。口元を手の甲で隠して、横を向く。耳が、燭台の火よりも赤い。
私は、何も数えなかった。
『……見ておらんぞ』
神さまが、小さくおっしゃる。
『犬のほうを、向いておった』
二人で、いちばん前の長椅子に座った。
閣下の外套が、二人の肩に掛かる。グラウが足元に来て、二人の足の上に腹を載せた。重い。温かい。
祭壇の脇で、百合の蕾が、燭台の火に白く透けている。
神さまの声は、私にしか聞こえない。だから、ここからは、私が耳になる。聞いたままを、閣下に渡す。
閣下の目は、蕾から離れない。
「ひとつ、訊いておきたい」
前置きのない、執務室の声。軍議の卓で、最後に口を開くときの声だ。
「お前の神は、私の九年を、どう裁く」
『裁いてはおらん。半分は、正しかったからのう』
伝えても、閣下は少しも驚かない。
「半分、か。……妥当だ」
自分の書いた報告書を読み返すような目だった。
「村へ薪を運んだのは、判断だ。あれは、正しかった。そのあとは、判断ではない。私が、私に科した刑だ」
自分のことを、他人の罪状のように並べる。この人は、自分にだけは、いちばん冷たい裁き手だった。
『人はそれを、罰と呼ぶのじゃよ』
「罰なら、筋は通っている」
閣下が、長い脚を組み替える。外套の裾が、石の床を擦った。
「罪には、代価が要る。私は、それを兵にも村にも課してきた。掟を預かる者が、自分にだけ免除を与えれば、北の掟は、その日に死ぬ」
一言ずつ、杭を打ちこむような声。
正しい。この人は、いつも正しい。正しいまま、ずっと、凍えてきた。
『そのとおりじゃ』
え、と声が出そうになる。
『代価は、要る。じゃから、わしが払うた。とうの昔に、残らずな』
百合の香りが、ふっと濃くなる。
息を、ひとつ。その言葉を、そのまま渡す。
閣下の視線が、蕾を離れた。天井の暗がりへ。そこにいる誰かを、正面から見据える。剣を抜く前の、静かな目。
「……筋が通らない。罪を犯したのは、私だ。お前の神には、払う理由がない」
『理由なら、ある。わしの子じゃからのう』
伝えた瞬間、膝の上の閣下の指が、止まった。
論はない。証もない。ただ、それだけの答え。
なのに、あの閣下が、次の手を打てずにいる。
『ところで、その刑。言い渡したのは、誰じゃ』
神さまの声は、どこまでも軽い。
「……私だ」
『被告が、自分で判決を書く。そういう法が、北にあるかのう』
閣下の口が、一度、閉じた。北の法を預かる人が、自分の法で足をすくわれた顔だった。
それも、ひと呼吸のあいだだけ。
「他人に払わせて、私は涼しい顔で生きろ、と」
唇の端が、皮肉に上がる。
「ならば、悪党も払わずに済む。罪を犯して、神が払うと笑う者は、北にも、いくらでもいる」
神さまに、ここまで真正面から刃を向ける人を、私は初めて見た。
『払いは、済んでおる。じゃが、払うことと、赦すことは、別じゃ。赦しは、こちらを向いた者の手に、載せるものじゃからのう』
伝えながら、わかった。
神さまが、赦さないのではない。赦しは、とうに用意されている。ただ、握りしめた拳の上には、何も載せられない。本人が手を開かなければ、受け取れないのだ。
閣下は、自分の両手を見下ろした。さっき、小指から一本ずつほどいた手だ。
「……なるほど。悪党は、笑ったまま、拳を握っている。神を見てもいない」
低く、短く。
「だから、私には、先に手を開かせたのか。赦しを、受け取らせるために」
それから、開いた手を見たまま、独り言のように。
「……己を罰しているほうが、よほど楽だったな」
『そうじゃろう。拳を握っておれば、誰にも頭を下げずに済むからのう』
神さまの声に、笑みが混じる。責める響きは、どこにもない。
伝えると、閣下は、ふ、と息だけで笑った。
「では、私が払い続けてきたものは、どこへ行った」
『どこにも。済んだ払いを、もう一度受け取る者はおらん』
私が伝えるより先に、閣下は、もう答えに着いていた。
「……二重払いか」
乾いた声。口の端が、ほんの少しだけ動く。
「帳簿なら、ギルバートが三日寝ずに洗い直す誤りだ」
丸窓の外を、雲が渡っていく。月の光が、床の上を、ゆっくりと滑った。
『払うたのは、罪の分だけではないぞ。間に合わなんだ、あの夜の重さもじゃ』
その言葉も、渡す。
今度は、閣下は何も返さない。
閣下が、目を閉じる。開いたままの手のひらに、燭台の火が、小さく揺れている。
それきり、閣下は問わなかった。問うのをやめた横顔は、負けた人の顔ではなかった。
『それにな。九年凍えて、誰か、温まったかのう。リーネか。ゲオルクか』
ひとつずつ、名を渡す。
「……誰も」
答えは、閣下のほうが早かった。かすれた声が、そこで途切れる。
私は、閣下の開いた手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「でも、閣下のそばを、離れなかった人なら、います」
閣下は、動かない。
「ギルバートさまは、閣下が眠らない夜は、隣の部屋で、ずっと帳簿をつけていました。マルタさんは、閣下がいつ下りてきても火がつけられるように、毎朝、大きな竈の火打石の埃を払ってきました」
喉が、詰まる。
「アンナさんは、閣下の元気な顔が見たいって、ずっと」
声が、震える。
「みんな、閣下のお部屋に、火が入る日を、待っていたんです」
閣下が、目を開けた。その目が、蕾に落ちる。
燭台の芯が、じ、と小さく鳴った。
「……ギルバートの灯りは、知っていた」
低い声。
「隣の部屋の戸の下から、毎晩、細く漏れていた。私が眠るまで、消えなかった」
私の手の下で、閣下の指が、わずかに動く。
「マルタの火打石も、知っていた。いつも、同じ高さに、埃ひとつなく置いてあった」
「……はい」
「知っていて、見ないふりをした。見れば、あの部屋を出なければならなくなる」
足の上で、グラウが、小さく鼻を鳴らす。
「……私の部屋の薪は」
「はい」
「誰も、温めていなかった。待っている者のことさえ」
「はい」
「ただ、暗かっただけだ」
「はい」
丸窓の外で、雲が、また月を隠した。
「暗い部屋には、誰も、入れられない」
閣下が、重ねた私の手ごと、自分の手を見下ろす。手のひらと手のひらのあいだに、燭台の光が溜まっている。
「……執務室の暖炉に、もっと薪を足すか。九年、一本きりだった。お前が来て、二本になった」
独り言のような声だった。
「あの部屋に来る者は、誰も、外套を脱がなかった。ギルバートも。……お前も、盆を置いたら、すぐに出ていった」
あの寒さでは、誰も、長くはいられない。
「暖めるのは、私のためではないな。……来た者が、外套を脱いで、座っていけるように」
神さまは、何もおっしゃらない。これは、閣下が自分で見つけた答えだ。
閣下の目が、重ねた手から、私に上がってくる。
「椅子を置く。まず、ギルバートの分だ。あれは、あの部屋で一度も座らなかった」
それから、少しだけ、声が低くなる。
「暖炉の、いちばん近くに、もうひとつ」
「……そちらは、どなたの、ですか」
「毎晩、スープを運んでくる者の」
顔が、熱い。燭台のせいではない。
盆を置いたら、すぐに扉を閉めてきた、毎晩のあの部屋に。私の座る場所が、できる。
「……はい」
やっと、それだけ言えた。
閣下の手が、一度、閉じた。私の手を、包んだまま。
それ以上、何も言わない。
燭台の火が、ひとつ、静かに消えた。外套の下で、閣下の肩が、私の肩に、重くなる。
眠っている。
礼拝堂の、冷たい長椅子の上で。九年ぶりの眠りだと、明日、ギルバートさまが知ったら、きっと眼鏡を三回は拭く。
丸窓の向こうで、雪が、降りはじめている。




