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お飾り聖女と氷の辺境伯と、名前を忘れない神さま〜推しの隣に、座りたい〜  作者: 真白のあ
第三章 高い塔と、低い戸口

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第30話 鼻ではなく、胸の奥で(三)



 どれくらい、そうしていただろう。


 月の光が、床の目を、ひとつ分だけ移った。


 丸窓の外は、相変わらず白い。尾根も、谷も、眠っている。


 霜は、まだ、二度目の鳩を覆ったままだ。けれど、月にいちばん近い翼の先だけ、霜が薄い。その下の白い羽根の色が、かすかに、透けて見えた。


「閣下」

「何だ」


 顔を覆った手の向こうから、くぐもった声。


「私、答えは持っていませんけど。訊くことは、できます」


 閣下の手が、ゆっくりと顔から離れた。


「九年前の冬のこと。リーネちゃんのこと。閣下が、そのあと、どうやって過ごしてきたか。全部でなくていいです。閣下が話したいと思ったときに、私が、訊きます」

「なぜ」

「誰にも訊いてもらえないのは、つらいですから。私が、そうでした」


 閣下が、こちらを見た。


 月の光の中で、その目の縁が、少しだけ赤い。


「……十年、お前は、誰にも訊かれなかったのか」


 九年、誰にも何も訊かずにきた人が、今、私のことを訊いた。


 そう気づいた途端、胸が、変な打ち方をした。どくん、と一度。それから、少し速く。


「はい。一度も」


 答えたとたん、丸窓の月が、にじんだ。


 泣いているのだと、少し遅れて、気づいた。十年、回廊で蹴られても、泣かなかったのに。訊かれた。たったそれだけで。


「そうか」


 閣下は、長椅子の背に頭をもたせかけた。天井を見上げて、しばらく、何も言わない。


 こちらを見ないでいてくださるのだと、分かった。


 それから、ぽつりと。


「手は、どうだ」

「痛みません。膏薬が、よく効きます」

「見せろ」


 閣下が、こちらに左手を差し出した。手のひらを、上にして。


 少しだけ、迷った。


 それから、右手を、その上に載せた。載せることしかできない手を。


 大きな手だった。剣の柄で擦れた硬い皮が、指の付け根に並んでいる。そして、思っていたより、ずっと温かい。


 閣下は、月の光に、私の手の甲を傾けた。黄色く薄れかけたあざと、三本の細い筋。腫れは、ほとんど引いている。


 指は、傷のどこにも触れなかった。手のひらで、下から支えているだけ。


 なのに、指先まで、じんと熱い。


「ひびは、まだ治っていない。握るな。絞るな」

「はい」


 閣下の手が、離れていった。


 手のひらに、温度だけが残る。どうしたらいいのか分からなくて、膝の上で、そっと左手を重ねた。


「あの膏薬は、閣下のものだと、マルタさんから聞きました。九年、ご自分の手にしか使われなかったと」

「マルタは、口が軽い」

「返したほうが、いいでしょうか」

「いや。減ったら、マルタに言え」

「はい」

「……いや。私に言え。マルタは、草を摘むだけだ。煮るのは、私だ」


 思わず、閣下の横顔を見た。


「閣下が、お作りになるんですか」

「夜は、どうせ眠らない。厨房の竈に、熾火が残っている」


 なんでもないことのように、閣下は言う。


「兵のは粗い。私のは、細かく漉してある」

「……では、私のは」


 閣下の指が、膝の上で、一度だけ動いた。


「細かいほうだ」


 言ってから、閣下は、天井の梁を一本ずつ確かめるような顔になった。言わなくていいことまで、言ったという顔だ。


 膝の上で、右手の甲が、急に熱くなった気がした。膏薬のせいではないと思う。


「ありがとうございます」

「礼を言われる筋合いはない。手が使えなければ、スープが運べない」

「はい。運べません」

「……そうだ」

「塩も、足せません」

「……そうだ」

「文句も、書いていただけなくなります」


 閣下が、こちらを向いた。


「今のは、どういう意味だ」

「毎朝、紙に書いてくださる文句のことです。蕪が硬い。茸は要らん。昨日より、まし」

「……覚えているのか」

「全部、麻袋の底にとってあります」


 閣下は、天井に視線を戻した。月明かりでも、耳が赤いのが分かる。


「あれは、文句ではない」

「では、何ですか」

「……報告だ」

「一枚だけ、『足りている』と書いてあった朝も、ありました」


 閣下の耳の赤が、首筋まで降りていった。


「……あれは、書き損じだ」


 笑ってしまった。


「笑うな」

「はい」

「……笑うな、と言った」

「はい」


 笑ったまま、返事をする。閣下は、それ以上、咎めなかった。


 代わりに、口の端が、ほんの少しだけ動いた。……気のせいかもしれない。


 気のせいでなければいいのに、と思った。


 ふと、長椅子の上を見る。


 閣下と私のあいだの、腕一本分の隙間。そこに、閣下の左手が置かれていた。さっき、私の手を載せた手が、手のひらを上にしたまま。


 閣下は、天井を見ている。たぶん、置いたことに、自分でも気づいていない。


 私は、その手を、見ないふりをした。さっき、閣下が、私の涙にそうしてくださったのと、同じように。


 やがて閣下は、いつもの声に戻った。


「期限まで、あと二月と少しだ」


 立ち上がる。辺境伯の顔だ。


「侯爵は、遅くとも十日のうちに、結晶が濁っていることに気づく。鉱山が枯れると知れば、王家は、どのみち帝国に北を差し出す。私が、お前を受け入れようと、拒もうと」


 扉のほうへ歩きながら、閣下は言った。


「だから、お前を、期限の前に王都へ返す。王女の身の安全のため、という書状をつける。それなら不敬には問われない。この城は、私と、私の兵で守る。明日、ギルバートに馬車の──」

「閣下」


 その背中に、声をかけた。


「私は、帰りません」


 足が、止まる。


「王都に、私の場所はありません。物置小屋に戻って、また床を磨くのは、構いません。十年、やってきたことですから。でも」


 喉に、言葉が引っかかった。


「あそこには、名前を呼んでくれる人が、いません」


 閣下は、振り向かない。


「マルタさん。オットーさん。トビアス。ルッツさん。ギルバートさま。グラウ。この鉢を焼いてくれた人も、この芽を崖から掘ってきてくださった方も」


 祭壇の脇の、小さな鉢を見た。


「閣下も」


 閣下の肩が、わずかに動いた。


「守ってくださるのは、うれしいです。でも、私の行き先は、私に決めさせてください」


 閣下が、振り向いた。


「これは、命令──」


 そこで、止まった。


 持ち上げかけたものを、ゆっくりと床に下ろす人の顔だった。辺境伯の命令なら、私は逆らえない。閣下は、それを知っている。知っていて、止まった。


『力を持つと、人は、守るためにも押し入る』


 神さまが、低くおっしゃった。


『……止まったのう。あの子は今、自分で止まった』


 もうひとつ、言うべきことがあった。


 口にすれば、閣下は信じないかもしれない。また扉を閉めてしまうかもしれない。


『信じるかどうかは、あの子が決める。お主は、渡すだけでよい』

「鉱山は、枯れます」


 言った。


「でも、その山の奥に、大昔に建てられた、小さな石の部屋があるそうです。三百年、誰も入っていない。売れるものは、何もない。皇帝も欲しがらない。でも、閣下には、要るものだと」

「誰に聞いた」

「神さまに」


 沈黙。


「……お前は、本当に、王都の間者ではないのだな」


 ため息のような、笑いのような、短い息。


「間者なら、もう少し、ましな嘘をつく」


 閣下は、扉に手をかけた。


「鉱山へは、行くな。侯爵の手の者がうろついている。部屋の話は、聞かなかったことにする」

「はい」

「──聞かなかったことにするが」


 扉を半分開けたまま、閣下が、ほんの少しだけ顔を向けた。


「明日の朝、ハンスに、第三坑道の奥の壁を叩かせる」

「ありがとうございます、閣下」

「礼は、壁が空だったときに言え。詰まっていたら、私は、お前の神を少し恨む」

「その時は、私も一緒に恨みます」

「神を恨む聖女か」

「お飾りですから」


 閣下が、笑った。


 低くて、掠れていて、ほんの一瞬で消える声。初めて聞く、閣下の笑い声だった。


 敷居をまたいで、閣下は雪の上へ出た。そこで、立ち止まる。


「セラ」

「はい」

「今夜、ここで聞いたことは」

「誰にも言いません」

「……いや」


 月の光の中で、閣下が、少しだけ振り返った。


「忘れるな、と言おうとした」


 両手を、胸の前に重ねた。握らずに。


「忘れません。一言も」


 閣下は、頷いた。


 開いたままの扉の向こうに、雪の中庭が見えた。


 月が、高い。中庭も、城壁も、その向こうの尾根も、ひとつ残らず白い。白いものの上に、青い影だけが落ちている。風もない。鳥もいない。北の雪は、音まで包んでしまう。


 閣下の吐く息だけが、白く昇って、消えていく。


 咲いているものは、どこにもない。


 閣下は、夜の空気を、小さく吸いこんだ。


「百合の匂いがするな」


 私にも、した。


 雪の上を渡ってくる冷たい空気の、いちばん奥で。


 祭壇の脇の鉢を見る。芽は、まだ指二本分。球根の芽に、匂いはない。


「……芽の匂いだろう」


 自分に言い聞かせるように呟いて、閣下は扉を閉めた。


 蝶番は、今度は鳴かなかった。


「神さま」

『うむ』

「閣下が、匂いに気づかれました。胸の奥で、でしょうか。それとも、鼻で」

『さあのう』


 少しだけ、笑っていらっしゃる。


『じゃが、あの子は、自分の家の戸口で、自分で足を止めた。今夜は、それで十分じゃ』

「私、閣下に『わかりません』って言いました。あれで、よかったんでしょうか」

『わしはな、わしの名で答えを売る者より、「わからん」と言える者のほうが、ずっと好きじゃよ』


 百合の香りが、胸の奥で、ふわりと広がった。


 この香りは、いつも、雷のようには来ない。夜明けの窓に似ている。いつ明るくなったのか分からないのに、気づくと、部屋じゅうが見えている。


 閣下の胸の中にも、今夜、窓がひとつ、白みはじめたのかもしれない。


『今のあの子に要るのは、答えではない。隣じゃ』

「神さま。もうひとつ、いいですか」

『うむ』

「さっき、閣下に手を見ていただいたとき。それから、私のことを訊かれたとき。胸が、変な打ち方をしました。あれは、何でしょう」


 神さまは、しばらく黙っていらした。


 それから、ずいぶん楽しそうに、おっしゃった。


『──さあのう』

「神さま」

『わしは、本人が気づく前には、言わんことにしておる』

「それ、最近、本当に多くないですか」

『多いのう。気づく前の日々というのは、二度と戻らん。わしは、それを、ゆっくり見ておるのが好きなんじゃ』


 窓の外で、雪が、また降り始めていた。北の雪は、音を包む。


 それなのに、遠ざかっていく閣下の足音だけは、いつまでも聞こえていた気がする。


 夜のうちに、雪は、膝の高さまで積もった。


 朝の光が、それを一面、薄い桃色に染めている。厨房の窓の外の山鳩が、二羽、羽を膨らませて、桃色の雪の上にじっと座っていた。


 洗い場の桶の隣に、小さな陶器の壺が置いてあった。


 親指ほどの、見慣れた形。けれど、私のとは違う壺だ。私のは、麻袋の底にある。


 蓋を開けると、薬草の匂いがした。昨夜、煮たばかりの匂い。


 縁は、まだ、つるりとしている。誰の指にも擦られていない、新しい壺。


 紙片は、なかった。


 代わりに、壺の下に、小さく折りたたんだ布が敷いてあった。柔らかい、上等な毛織り。手を包むのに、ちょうどいい大きさに切ってある。


 四つの辺の全部に、不器用な鋏の跡。


 まっすぐに切ろうとして、途中で、何度も迷ったような。


 壺を、両手で包んだ。まだ、ほんのりと温かかった。


 あの人は、昨夜、眠らなかったのだ。叩く音を待つためではなく、鋏を持って。


 執務室へ礼を言いに上がると、机には、坑道の図面が広げてあった。


 ギルバートさまが、図面と閣下を交互に見ている。眼鏡の奥が、何とも言えない色をしていた。


「布は、膏薬を塗った上から巻け。乾かしてからだ」


 閣下は、図面から顔を上げずに言った。


「はい」

「それと、鉱山の件だ。行くなと言ったのは、私の判断が間違っていた。撤回する」


 指が、第三坑道の、いちばん奥を叩く。


「ハンスに聞き分けられるのは、壁の腹が空いているかどうかまでだ。その奥に何があるかを聞いたのは、お前だ。私ではない」


 とん、と、もう一度。


「午後、坑道へ来い」


 ギルバートさまが、眼鏡を外して、拭きはじめた。


 ずいぶん長いあいだ、同じ硝子を。


 期限の三ヶ月まで、あと六十七日。帝国の軍団が来るまで、あと五十三日。


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