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第6話 割れ窓の逆

 排水溝の掃除が終わった翌日。

 アルノルドが朝一番に執務室に来た。


「おい、ナカムラ」


「おはようございます、アルノルドさん」


「隣の通りの排水溝、いつやるんだ」


「日程はまだ組んでいません。——予算の確認が必要です」


「予算って、銀貨のことか」


「はい。日当を払い続けるには、財源が必要です。今は倉庫の素材を売ったお金で賄っていますが、無計画に使えば底をつきます」


 アルノルドが渋い顔をした。


「金の話は嫌いだ」


「行政に金の話は付き物です。——ただ、一つ提案があります」


「なんだ」


「隣の通りは、ボランティアでやりませんか」


「ぼらん……なんだそりゃ」


「日当なしの作業です。——ただし、参加者には昼飯を出します。こちらで準備します」


 アルノルドが眉をひそめた。


「金も出さないで、人が集まるのか」


「メシが出れば、意外と集まりますよ。前世でもそうでした」


 結果は——俺の予想通りだった。


 日当なし、昼飯付き。それでも十五人が集まった。しかも、前回の十二人のうち八人がリピーターだ。


 昼飯は、南区のマリアのパン屋に頼んだ。倉庫に埋もれていた小麦粉を持ち込み、手間賃を払って十五人分のパンとスープを作ってもらった。半年ぶりに窯に火が入り、マリアは無言で泣いていた。


 フィーネがマリアの店の前で、窯から立ち上る煙を見ていた。


「マリアさんの窯、火が入りました」


「見えます」


「一つひとつの当たり前が、実はありがたいことなんですね」


 フィーネの目が少し潤んでいた。パンの匂いがする風に、赤毛がなびく。


「フィーネ様が発注したスープの材料費も、マリアさんへの手間賃も、全部領地の経費です。行政がお金を使うと、民間に仕事が生まれる。覚えておいてください」


「けいひ、みんかん……」


 フィーネがメモ帳を取り出した。「おかねをつかう→しごとがうまれる」と書いている。矢印の使い方が板についてきた。


「ナカムラさん。じゃあ、お金を使わなかったらどうなるんですか?」


「仕事が生まれません。人が動かず、経済が回らない。剝ぐだけの税では領地は枯れます」


「……ゲルハルトさんは、剝ぐだけでした」


(——その通りだ。この子は、「剥ぐだけ」と「使う」の違いを、体験として理解し始めている)


「アルノルドさんが来るって聞いたから」


「俺も。前回やったら、なんか気持ちよかったんだよな。臭いのは嫌だったけど」


「俺は飯が目当てだな。女房が『空がきれいになった』って喜んでた」


「うちのじいさんは『排水溝がきれいになったら雨の日に床上浸水しなくてよくなった』って」


(行動が意識を変える。「やっても無駄だ」と思っていた人が、一度成功体験を得ると、次も参加する。しかも、家族の反応を「動機」にする。染みついた諦めは、小さな成功体験の積み重ねで壊せる)


 二本目の通りの排水溝も、二日で終わった。

 アルノルドが仕切り、若い男が力仕事をし、年配の住民がバケツリレーを組んだ。誰に言われたわけでもなく——自然に役割分担ができていた。


「ナカムラさん」


 夕方、フィーネが執務室に来た。手にメモ帳を持っている。


「はい」


「住民台帳の書式、作ってみました。ナカムラさんが言っていた——名前、住所、家族構成、職業、課税額」


 受け取って見た。

 字は丁寧だが、欄の大きさが不揃いだ。「職業」の欄が小さすぎて二文字しか入らない。

 そして——欄の一番上に、「領主」とだけ書かれたサンプルがあった。


「フィーネ様。このサンプルの『住所』欄」


「はい」


「『ここ』と書いてありますが」


「ここに住んでいるから、『ここ』です」


「……実際の住所を書きましょう。『ヴァレスティア城館本丸』とか」


「あ、なるほど」


 フィーネが真剣な顔でメモ帳に「じゅうしょはここじゃだめ」と書いた。


(それはそうだ。「ここ」では住所にならない。——だがまあ、「じゅうしょはここじゃだめ」というメモの仕方も大概「ここ」と同じ問題を抱えているが)


「フィーネ様。職業欄、もう少し広げましょう。鍛冶屋さんとパン屋さんでは字数が違いますから」


「あ、そうですね……!」


 フィーネが赤くなって、メモ帳に書き込んだ。「しょくぎょうらんはひろく」。——聞きなれない専門用語を、前世でいう平仮名のような簡易文字でとりあえず音のまま書き留めているのだろう。字は、いつになく少しきれいになっている。初日の「たなおろし」から比べると、三日で目に見えて変わった。


(人は、道さえ示せば自分で走る。この子は、言われたことをすぐメモして、翌日には形にしようとする。失敗だらけだが、手が止まらない。——教育係がいれば、とっくに伸びていたはずだ)


「それから、もう一つ」


「はい?」


「住民台帳の整備を、明日から始めます。住民を一人ずつ呼んで、聞き取りをします」


「わ、私もやるんですか?」


「領主が自ら名前を聞く。それ自体が、信頼関係の第一歩です」


 フィーネが大きく頷いた。メモ帳に「じゅうみんだいちょう あした」と書いた。


 その下に、さらに一行。


 「なまえをきく=その人をしる。おとうさんのことば」


(父親の言葉を、そのまま行動原理にしているのか。——この子の芽は、父親が植えていたんだな)


 ◇ ◇ ◇


 その夜。

 俺は執務室の窓を開けた。


 悪臭が——ない。


 赴任した日には鼻が曲がるほどだった臭いが、排水溝の清掃で嘘のように消えている。夜風が通り抜ける。涼しい。


 広場では、噴水がきれいな水を吐き出している。月明かりに水面がきらきら光っていた。


(排水溝を掃除して、噴水を直しただけだ。チートは使っていない。魔法も使っていない。使ったのは——在庫管理と、日当と、昼飯だけだ)


 明日からは住民台帳の整備が始まる。全住民の名前を聞き、住所を記録し、課税の公平化を進める。


(どうせ公務員は数年で異動だ。情は移さない。自分が去った後でも回る仕組みを作る。——それが仕事だ)


 俺はデスクに置いた白紙の台帳を手に取った。

 一ページ目に、ゆっくりとペンを走らせる。


 『ヴァレスティア公領住民台帳 第一号 作成者:ナカムラ・シュウイチ』


 その下の筆頭欄に、もう一行書いた。


 『登録番号 001 氏名:フィーネ・ヴァレスティア 職業:領主』


 ——この子の名前が、一番最初だ。

 ここに、全員の名前を書く。


 行政の本番が、始まる。

日当なし、昼飯つき。それでも十五人が集まった。

マリアの窯に半年ぶりの火が入り、パンの匂いが帰ってきた。


フィーネが自分で住民台帳の書式を作ってきた。

……住所欄に「ここ」と書いてあるのはご愛敬。


台帳の一ページ目に、俺はペンを走らせた。

「登録番号001 氏名:フィーネ・ヴァレスティア 職業:領主」


第一部「赴任」、ここまでお読みいただきありがとうございました。

初日6話、一気にお届けしました。


▶ 明日から毎日18:00更新! 第二部「台帳」——住民の名前を一人ずつ聞いていく。

 そして帳簿に、不正の影が。


☆ひとつが次の読者を連れてきます。割れ窓の逆、です。

ブックマークで、明日もこの領地に帰ってきてください。

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