第5話 排水溝の三日間
住民集会は、噴水の前で開かれた。
百人ほどが集まっていた。噴水が復活した興奮がまだ冷めていない。
フィーネが壇上に立った。膝が震えている。
「あ、あの……皆さん。今日は——お知らせが、あります」
住民たちの視線は好奇心と警戒がない交ぜだ。噴水を直してくれた、ということで多少は態度が軟化しているが、まだ油断はできない。
「新しく、赴任した方を——紹介します」
俺が前に出る前に、フィーネがちらりとこちらを見た。
メモ帳を開いている。そこに、震える字で「みなさんきいてください」と書いてあった。
(メモしなくても覚えられるだろう、それくらい。——いや、この子にとっては覚えられるかどうかの問題じゃない。「失敗したくない」という必死さの表れだ)
俺が前に出た。
「ナカムラです。——手短に言います。排水溝の清掃を始めます。手伝ってくれる方に、日当として銀貨一枚をお支払いします」
ざわめき。
「チートは? チートは持ってるのか?」
「ありません」
「魔法は?」
「使えません」
「じゃあ排水溝の掃除なんて、どうやって——」
「手で掻き出します」
沈黙。
「——は?」
「二年分のヘドロが詰まっています。手で掻き出して、水が流れるようにします。道具は俺が用意します。作業後には日報を書いてもらいますが——」
「にっぽう?」
「今日やった作業の記録です。——記録なしの仕事は仕事じゃありません」
最前列にいた老人——昨日、通りで見かけた白髪の男だ——が腕を組んだ。
「変なやつだな。チートもないくせに、偉そうなことを言う」
「偉そうではなく、当たり前のことを言っています。排水溝が詰まっていれば掃除する。それだけです」
「レイガスは魔法で一発だったんだがな」
「そのレイガスがいなくなって、二年間詰まりっぱなしです。魔法に頼らない仕組みを作らなければ、また同じことになります」
老人が俺を見つめた。長い沈黙。
「……で、銀貨一枚もらえるんだな?」
「はい」
「わしもやるか」
老人の後ろで、何人かが手を挙げた。
五人を予定していたが——十二人が集まった。
フィーネが壇上から降りてきて、俺の傍で小さく言った。
「ナカムラさん。十二人も集まりました」
「予想以上です」
「……私も手伝います!」
「圧倒的にお断りします」
「えぇっ!?」
「領主は現場作業はできません。住民の前でヘドロまみれになったら、信頼が崩れます」
「……それはそうですけど、何かできることは——」
「端にいてください。——差し入れがあると、作業員の士気が上がります」
「差し入れ! わかりました!」
フィーネの目が光った。「差し入れ」という健気な反応が来るとは思わなかったが、領主に役割を与えるのは悪くない。
(日当の力は偉大だ。前世も今世も変わらない)
◇ ◇ ◇
排水溝の清掃は、地獄だった。
二年分のヘドロ。黒くて、重くて、壮絶に臭い。
掻き出しても掻き出しても、奥から塊が出てくる。日当の銀貨一枚がなければ、誰もやりたがらない仕事だ。
初日。参加者は十二人。全員無言で、黙々と作業した。
二日目。口数が増えた。
「おい、この泥、持ち上がらねえぞ」
「二人で持て。——つっても、こっちも重いんだが」
「ナカムラさん、あんたもやるのか」
「当然です。行政官は現場を知らないと言えません」
「変なやつだな、ほんとに」
(前世でも、現場に出ない管理職は信頼されなかった。泥まみれになるのは嫌だが、これが信頼の代償だ)
三日目。笑い声が出た。
「うわっ! カエルが出てきた!」
「食えるぞ、それ。——冗談だって。たぶん食えるけど」
作業班の最年長はアルノルドという老人だった。初日に「変なやつ」と言っていた男だ。
がっしりした体格で、ヘドロの掻き出しも若い者に負けていない。三日目には、自然と班長の役割を担っていた。
「おい、そっちの手を止めるな! 日が暮れるぞ!」
「アルノルドさん。指揮がお上手ですね」
「うるせえ。こんなもん、畑仕事と同じだ」
(この人は使える。リーダー気質がある。住民側のキーパーソンになるかもしれない)
二日目の昼下がり、不意にフィーネが現場に現れた。
手には鍋。
「あ、あの……差し入れです」
鍋の中身はスープだった。野菜が大きすぎて半分は生煮え、塩が強すぎるが、温かい。
よく見ると、人参が丸ごと一本入っている。切るという概念が採用されなかったらしい。
「フィーネ様が作ったんですか」
「はい。味はその……すみません」
「人参が、切られていないようですが」
「お包丁が……怖かったので……」
(包丁に「お」を付けるのは貴族だからだろうが、それはさておき、人参を丸ごと入れるな)
アルノルドがスプーンで一口すくって、顔をしかめた。
「……しょっぱい」
「すみません!」
「しょっぱいが、温かい。——ありがとよ、お嬢ちゃん」
フィーネの目がまんまるくなった。
「お嬢ちゃん」と呼ばれたのは、初めてかもしれない。領主でも「フィーネ様」でもなく、「お嬢ちゃん」。
「あ……はい。お粗末さまです」
小さな声で、でも嬉しそうに、フィーネは答えた。
(そういうことだ。住民と領主の距離は、こういう小さな接点から縮まる)
三日目の夕方。
ごぼごぼ、と音がした。
排水溝に水が流れ始めた。
茶色い水が、街の外の川へ向かって勢いよく流れていく。
広場に溜まっていた汚水が、みるみる引いていった。
「——臭いが、消えた」
アルノルドが、ヘドロまみれの手で顔の汗を拭きながら呟いた。
「嘘だろ。二年間ずっとこの臭いの中で暮らしてたのに——こんなに違うのか」
住民たちが家から出てきた。
鼻をひくひくさせ、信じられないという顔をしている。
「臭くない……?」
「ほんとだ。風が——風が通る」
「排水溝掃除しただけで、こんなに変わるの?」
アルノルドが腕を組んで、きれいになった排水溝を眺めていた。
「なあ。一つきれいになると、他の汚えところが気になってくるな」
俺はその言葉を待っていた。
「……隣の通りも、やるか?」
老人が——自分から言った。
(割れ窓理論。一つの割れた窓を放置すると街全体が荒れていく。逆もまた真。一つきれいにすると、次もきれいにしたくなる。——この老人は、理論の名前を知らないまま、本質を掴んでいる)
日当・銀貨一枚。十二人が集まった。
三日間、ヘドロを手で掻き出す地獄の作業。
フィーネの差し入れスープは塩辛く、人参が丸ごと入っていましたが、
アルノルドの「しょっぱいが、温かい」に、フィーネの目がまんまるくなった。
そして三日目——排水溝に水が流れた。悪臭が消えた。
「一つきれいになると、他の汚えところが気になってくるな」
——割れ窓理論の「逆」です。
▶ 次話「割れ窓の逆」——ボランティアで二本目の通りへ。
そして台帳作りが始まる。第一部完結です。
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