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第3話 歩く男

 赴任三日目。

 俺は一人で領地を歩いた。


 フィーネには「今日は執務室で帳簿の整理をしてください」と頼んだ。一人で歩きたい理由がある。

 領主と一緒だと、住民は構える。権力者の前では取り繕う。本当の暮らしぶりは、一人で見て回らなければわからない。


(前世の上下水道課でも同じだった。苦情の現場は、必ず一人で見に行く。上司と行くと、住民が「立場のある人が来た」と態度を変えてしまう)


 朝一番に、街の東端から歩き始めた。


 最初に目についたのは、壊れた柵だった。

 畑を囲む木の柵が、半分以上倒れている。修繕した形跡がない。


(畑を守る柵すら直さない。——直しても無駄だと思っているのか、直す気力がないのか)


 畑の中に、痩せた老婆が座っていた。焦げた土を、小さな鋤で黙々と掘り返している。

 声をかけた。


「おはようございます」


 老婆が顔を上げた。一瞬、身体をこわばらせる。


「……なんだい、あんた」


「ナカムラです。先日、赴任しました」


「ああ、新しい転生者だって? ——チートは使えるのかい」


「使えません」


「じゃあ何しに来たんだ」


「畑を見せてもらってました。——この土、焦げてますね」


 老婆が目を細めた。


「レイガスって奴がやったんだよ。土魔法だか火魔法だか知らないが、一晩で畑を開墾したって言ってな。おかげで土が焼けて、何を植えても育たなくなった」


「堆肥は」


「堆肥? ——ああ、肥やしのことかい。作れるほどの家畜がもういないんだよ。みんな散り散りになったからね」


「根菜は育ちますか。カブや芋なら、痩せた土でも——」


「あんた、畑のことに詳しいのかい」


「少しだけ。——この土は、死んでいるわけじゃありません。三年かければ回復します」


 老婆が俺を見た。長い沈黙のあと、ふっと息を吐いた。


「三年か。——先が長いねえ」


「長いです。でも、今日から始めれば、三年後には終わってます」


 老婆は何も言わなかった。だが、鋤を動かす手は止まらなかった。


 次に声をかけたのは、通りの角でぶらぶらしていた中年の男だった。


「おはようございます」


「……あんた、新しい転生者だろ。もう聞いたよ。チートがないんだって?」


「ありません」


「じゃあ何ができるんだ」


「排水溝を掃除できます」


「……そんなもん、俺でもできる」


「では、明日一緒にやりましょう」


「えっ」


(「俺でもできる」と言った男は、「じゃあ一緒に」と言うと困る。できると思っているが、やるつもりはなかったからだ。——その気持ちを「やる気」に変えるのが行政の仕事だ)


 ◇ ◇ ◇


 午前中いっぱい歩いて、わかったことがある。


 この領地の住民は、何もしていないわけではなかった。

 壊れた家に住み、詰まった排水の横で寝て、焦げた畑で僅かな根菜を掘っている。痩せた牛の乳を絞り、川の水を汲み、保存食で日々をしのいでいる。


 ——彼らは、生きている。

 だが、「良くしよう」とは思っていない。


 午後の巡回では、街の広場で井戸の水を飲もうとしている子供を見かけた。

 井戸は古く、手入れもされていない。水は濁り、底には藻が沈んでいる。


「坊や、その水は飲まない方がいい」


 子供は驚いて俺を見た。


「どうして? お母さんが、お腹が空いたら水を飲めって」


「お腹が痛くなるかもしれない。きれいな水じゃないから」


「でも、きれいな水なんて、どこにもないよ」


 その言葉に、胸が締め付けられた。

 子供は、きれいな水があることを知らない。それが当たり前だと思っている。


「すぐに、きれいな水が飲めるようにする。だから、それまでは、川の水を煮沸して飲むんだ。お母さんにそう伝えてくれ」


 子供は首を傾げたが、素直に頷いた。

 (この子たちには、希望が必要だ。きれいな水が飲める、という当たり前の希望が)


 道端で会った白髪の男に聞いた。


「屋根の修理はしないんですか」


「……直しても、また壊されるかもしれないだろ。チートが帰ってきたら」


 別の場所で、母親に聞いた。


「お子さんの怪我、どこで手当てを?」


「どこもないよ。自分で薬草を煎じるしかない」


「領主に相談は」


「……しても、変わらないし」


 全員が同じ顔をしていた。

 疲れた目。諦めた口元。「何をしても無駄だ」という、染みついた無気力。


(またこれだ。チートに依存し、チートに裏切られ、摂政にも放置された。この人たちは——「自分たちの力で何かを変えられる」という感覚を失っている)


 これは、インフラより先に壊すべき壁だ。

 排水溝より先に、この「無力感」を壊さなければ、何を整備しても住民が維持してくれない。


 夕方、執務室に戻ると、フィーネが帳簿を広げたまま居眠りしていた。右の頰に帳簿のインクが付いている。「税収」という文字が反転していた。


「フィーネ様」


「は、はい! 起きてます!」


「今日、領地を歩いて気づいたことがあります」


「なんですか?」


「この領地の一番の問題は、排水溝でも畑でもありません。住民が——『何をしても無駄だ』と思い込んでいることです」


 フィーネの表情が曇った。


「でも、私も……何をしていいか、わからなくて——」


「それを変えます。——明日、倉庫の棚卸しをしましょう。『探せばあった』という小さな成功体験を、まず一つ作ります」


 フィーネが不安そうにメモ帳を取り出した。

 「たなおろし」の横に、「せいこうたいけん」と書き加えた。さらにその下に「なんで成功するとよい→聞く」と追記している。


(質問の質が上がっている。昨日は書き取るだけだったのに、今日は「なぜ」を書いている)


 ふと気づいた。フィーネの頰に、まだインクが付いている。


「フィーネ様。右の頰にインクが」


「え!?」


 フィーネが慌てて手で擦った。が、擦った手にもインクが付いていたので、被害が拡大した。


「……逆の手で」


「あわわ」


 結局、左の頰にも「税収」の一部が転写され、フィーネは両頰にインクを付けた公爵令嬢という前代未聞の存在になった。

 右の頰には「税収」が反転し、左の頰にはその一部がかすかに。まるで、領地の財政難を顔で表現しているかのようだ。

 フィーネは顔を真っ赤にして、両手で頰を覆った。


(由緒ある名家の当主がこれか。——嫌いじゃないが)


「きょ、今日のところはこれで失礼します……!」


 フィーネが帳簿を抱えて小走りに出ていった。ドアの閉め方だけは丁寧だった。


(……教わっていないだけだ。教われば、伸びる。問題は——教える大人が、これまで一人もいなかったことだ)

領主と一緒だと、住民は構える。だから一人で歩く。


焦げた畑で鋤を動かす老婆。「三年は長い」——「今日始めれば三年後に終わります」。

子供が知らなかった「きれいな水」。住民に染みついた「何をしても無駄だ」という諦め。


でもフィーネのメモ帳に「なぜ?→あした聞く」と追記されている。

この子は「なぜ」を書き始めた。——それだけで、今日は十分な前進でした。


▶ 次話「最優先は、水だ」——噴水は止まり、倉庫は未整理。

 でも棚卸しが奇跡を起こす。続けてどうぞ!


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― 新着の感想 ―
>その気持ちを「やる気」に変えるのが行政の仕事 チートではないけれど、その心意気を維持できるのは勇者の資質なんよね〜 >由緒ある名家の当主がこれか 前回も書いたけれど、やはり鼻につきます 現場大事…
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