第22話 商人が来た日
赴任から八ヶ月目。
領地に馬車が入ってきた。商人だった。
ディード商会のベルント。中年の、太った男。目だけが鋭い。歩き方に商人特有の用心深さがある。広場を一周して、噴水を見て、排水溝を覗いて、パン屋の前で立ち止まった。それから俺のところに来た。
「ヴァレスティア公領の噂を聞きましてね。『噴水が直った』『排水溝がきれいになった』『パンの匂いがする街に戻った』と。——見にきました」
「商人が見にくるというのは」
「ええ。投資先の下見ですよ。信用調査とも言います。——正直に申し上げると、半信半疑でした。チートに荒らされた領地が回復するなんて、聞いたことがない」
(商人の信用調査。——つまり、この領地が経済的に回復しつつあると外部から認識された。これは大きい。前世でも、商店街の再生事業で「外部の業者が視察に来る」のは転換点だった)
「ナカムラさん。あなたが行政官ですか。——失礼ですが、チートの類は?」
「ありません」
「……本当に?」
「本当です。前世の知識だけです」
ベルントがしばらく俺の顔を見つめた。嘘を見抜こうとしている目だ。
「——面白い。初めて見ましたよ、チートなしで領地を立て直した男を」
フィーネが横から口を挟んだ。
「ナカムラさんは、チートがなくても行政の力で全部やりました。噴水も、排水溝も、台帳も、予算案も」
「ほう。——あなたが領主のフィーネ様ですか。お噂は聞いていますが」
「噂?」
「ええ。『十三歳の小娘が、チートなしの行政官と一緒に領地を回している』と。——商人の間では、少し話題になっていますよ」
フィーネが赤くなった。耳まで赤い。
(「小娘」は余計だが、噂になっているということは、この領地の復興が外部に伝わっている証拠だ。口コミは最強の広報だ)
「ベルントさん。交易路の整備状況をご報告します」
「お願いします」
「南街道を住民有志で修繕しました。馬車が通れる幅はあります。橋は一箇所、補強が必要ですが、通行には支障ありません」
「なるほど。修繕の費用は」
「日当制の人件費と、倉庫に眠っていた資材です。外部からの借入はゼロです」
「借入ゼロ? ——それは珍しい」
(商人が「借入ゼロ」に反応した。つまり、多くの領地は復興に外部資金を使って借金漬けになっている。この領地は倉庫のダンジョン素材と住民の労力で回している。それが商人の目には「健全」に映ったのだろう)
「関税は?」
「現在は設定していません。まずは人と物の流入を優先します」
ベルントが目を細めた。
「関税なし、か。思い切ったことを。普通、領主は税を取りたがるものですが」
「取るより先に、来てもらうことが大事です。人と物が来れば、経済が回り始める。税の話はその後で十分です」
「……なるほど。行政官というのは、商人より商売がわかっているのかもしれませんな。——いいでしょう。うちの商会から月に一度、定期便を出します。小麦、塩、布。領地からは何を出せますか」
「ダンジョン素材の残りがあります。竜鱗の破片、魔物の牙、銀の杯。あとは、半年後に冬麦の収穫が見込めます」
「ダンジョン素材。——レイガスの置き土産ですか」
「はい。使い道がなく眠っていたものです。倉庫で棚卸しをした際に整理しました」
(チートが残した遺産を行政の財源に変える。これも凡人枠の仕事か。——もっとも、前世でも使われなくなった公共施設を売却して財源にした経験はある。発想は同じだ)
ベルントが取引条件を紙に書き始めた。フィーネがそれを覗き込む。
「ベルントさん。この価格、竜鱗の相場と比べてどうですか」
ベルントの手が止まった。——商人に相場を聞いたのだ、領主が。
(フィーネ様。それは交渉の第一歩だ。「相場を知らないまま取引しない」。俺は教えていない。この子は自分でそこに気づいた)
「……フィーネ様。お若いのに、なかなか鋭いですな」
「わからないことは聞くようにしています。ナカムラさんにそう教わりました」
「なるほど。——正直に申し上げると、少々低めにお伝えしておりました。正規の相場はこちらです」
ベルントが数字を書き直した。フィーネが頷いた。
「ありがとうございます。——では、この価格でお願いします」
ベルントが苦笑した。
「……正直に言いますとね。領主に相場を聞かれたのは初めてです。大抵の領主は、数字を見もせずに判を押す」
「ナカムラさんが『数字を見ずに判を押すな』と」
「良い教育者がいらっしゃる」
(商人に教育者扱いされた。前世の自分は、ただの課長補佐だったんだが)
(商人に額面通りを押し付けられなかった。これは予算案で「数字の意味」を学んだ成果だ)
帰り道、フィーネが言った。
「ナカムラさん。関税をゼロにするのは、いつまでですか」
「……何ですか、急に」
「人と物を呼び込むために関税をなくしたんですよね。でも、ずっとゼロだと、来年の予算が組めないと思って」
俺は足を止めた。——正しい。完全に正しい。関税ゼロは初期の誘致策であって、恒久的なものではない。俺はそれを「いつか」考えるつもりでいたが、この子はもう「来年」を見ている。
「……フィーネ様。それは正しい指摘です」
「え、本当ですか? 言っていいか迷ったんですけど——」
「言ってください。いつでも」
(この子は、俺の施策の「次の一手」を見ている。教えた覚えのないことを、自分で考えている。——教わる側が教える側を追い越す瞬間。それは、教育者にとって最も嬉しい敗北だ)
◇ ◇ ◇
ベルントの馬車には、予想外の同行者がいた。
家族連れだった。夫婦と、五歳くらいの女の子。女の子は母親のスカートの裾を握って、目を丸くして広場を見回している。
「……あの、ヴァレスティア公領の者です。以前、ここに住んでいました」
男が言った。声が震えていた。手が荷物の紐を握ったまま、白くなっている。
「三年前に出ました。レイガス様の——その、魔法が怖くて。家族を守るために」
フィーネが隣で息を呑んだ。
「噂を聞いたんです。ここが、また人が住める場所になったと。——戻っても、いいですか」
俺はフィーネを見た。フィーネが俺を見た。——返事を待っている目ではなかった。確認している目だ。「私が答えていいですか」と。
俺は頷いた。
「もちろんです」
フィーネの声だった。俺より先に答えた。澄んだ声だが、震えている。
「ここは、あなたの家です。お帰りなさい。——お名前を、台帳に書かせてください」
男が泣いた。妻が泣いた。五歳の女の子だけが、きょとんとしていた。それから、母親の涙を見て、小さな手で頬を拭こうとした。
台帳を開いた。フィーネが自分でペンを取り、名前を書き入れた。
——正字で。丁寧に。一画ずつ、確かめるように。
「ヴェンツェル」——と書いた。隣に「リッカ」。五歳。
(この子のペンは、いつの間にか迷わなくなっている。——半年前、陳情の受付で「きたくのいど」と簡易文字で書いていた子が。名前を書く。それだけのことが、こんなに重い意味を持つ場面を、俺は前世で何度も見てきた。転入届。婚姻届。出生届。窓口で名前を書く人の手は、いつも少し震えていた。——ここでも同じだ)
「相場を聞いたのは初めてです。大抵の領主は、数字を見もせずに判を押す」
ベルント商会のお墨付きをもらった——のも大きいですが、
フィーネが「来年の予算が組めない」と関税ゼロの期限を指摘したのが、
この話の本当の山場です。
教えた覚えのないことを、自分で考えている。
——教わる側が教える側を追い越す瞬間。
▶ 次話「帰ってきた人たち」——三年ぶりに領地に戻ってきた家族。
「お帰りなさい。お名前を、台帳に書かせてください」
フィーネの声が震えます。
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