第10話 逃げた男を追う
ゲルハルトは隣領に逃亡した。
正確に言えば、隣のクレーゼ男爵領の宿場町に潜伏した。逃亡先は住民の情報で二日で判明した。
フィーネが聞いた。
「ナカムラさん。追いかけますか?」
「追いかけます。——ただし、剣は持ちません」
「え?」
「持って行くのは、台帳と監査記録だけです」
アルノルドと二人で隣領に向かった。馬車で半日の距離だ。
(出発前に執務室の書庫で王国法典を読み込んでおいて正解だった。領地間の財務犯罪に関する条文を見つけたとき、前世の自治体法を勉強していた頃の感覚が戻った。法令は武器だ。知っていれば)
フィーネは留守番だ。出発前、「私も行きます!」と言い張ったが、「領主が留守を空けると住民が不安になります」と言ったら、「わかりました……」としおらしく引き下がった。
ただし、出発の時に小さな包みを渡してきた。
「お弁当です。その……中身はその、黒パンと干し肉だけですけど」
(この子は……)
包みを開けると、パンの切り方が不揃いなのはいつも通りだったが、一切れごとに布で丁寧に包んであった。アルノルドの分もある。
干し肉の横に、小さなメモが挟まっていた。「がんばってください。——フィーネ」。文字は簡易文字だが、丁寧に書いてあった。
「フィーネ様。メモまで入れてくれたんですね」
「え、あ、あれは——! 見ないでください!」
走って取り返そうとして、執務室の敷居で足を引っかけた。
「あわっ」
(この子の転倒率は、本当に台帳に記録すべきかもしれない)
「大丈夫です! 行ってらっしゃい、ナカムラさん!」
クレーゼ男爵領の宿場町で、ゲルハルトはすぐに見つかった。安い酒場で飲んでいた。
道中、アルノルドがフィーネの弁当を見て、口の端を上げた。
「ちゃんと包んであるな。——お嬢ちゃんは不器用だが、気は利く」
「不器用は余計です」
「事実だろ」
(否定できないのがつらい。だが、弁当の紐は、下手ながらりぼん結びで丁寧に結んであった。あの子を不器用とだけ言うのは、正確ではない)
アルノルドは弁当を開けた。中には干し肉とカブ。カブの切り方は相変わらずバラバラだったが、味付けは前より良くなっていた。
「……味は悪くない」
(あの男が「悪くない」と言った。それはアルノルドなりの最大級の褒め言葉だ)
「お前の分も、フィーネの嬢ちゃんが作ったのか」
「そうです」
「……そうか。あの子、飯も作れるようになったのか」
(「飯も作れるようになった」。アルノルドは、フィーネの成長を認めている)
「だがな、ナカムラ。あの嬢ちゃんが最近変わったのは、お前のおかげだ。以前は『ごめんなさい』しか言えなかった子が、今は住民に指示を出している」
「教えたのは棚卸しと予算案だけです。成長したのは彼女自身の力です」
「……そういうところも、お前らしいな」
◇ ◇ ◇
三日後。俺は隣領・クレーゼ男爵領の宿場町にいた。
住民の証言を辿り、ゲルハルトの居場所を突き止めるのに、それだけかかった。逃亡先の酒場で、男は安い麦酒を飲んでいた。横領した金で飲む酒は美味いだろうか。
「ここまで逃げれば手出しできまいと思ったか」
アルノルドが腕を組んだ。ゲルハルトは椅子から転げ落ちそうになった。
「な、なぜここが——」
「住民が教えてくれました。あなたの逃亡経路は三人の証言で確認済みです」
「ふ、ふざけるな! ここはクレーゼ領だぞ! ヴァレスティアの法は及ばない!」
「リオガル王国法第二十三条」
俺は羊皮紙を広げた。
「『王国内において領地間を跨ぐ財務上の犯罪については、被害領地の領主が告発権および身柄の拘束権を有する。正式な裁判は王都の法務官府が管轄する。逃亡先の領主はこれに協力する義務を負う』」
ゲルハルトの顔が引きつった。
「クレーゼ男爵には、すでに書状を送っています。フィーネ様の署名入りの正式な協力要請書です。——男爵は、快く協力すると返書をくださいました」
「そ、そんな——」
「ゲルハルトさん。あなたの横領額は、銅貨の一枚単位まで監査済みです」
俺は帳簿を開いた。
「過去一年間で、鍛冶屋のハンスさんから不正徴収された銅貨・四百枚。パン屋のマリアさんから二百枚。仕立て屋のエルマさんから百五十枚。——合計二百十三世帯から、銅貨・一万二千四百八十枚」
一筆一筆、住民の名前と金額が並んでいる。
「これは住民台帳と照合した上で、フィーネ様の帳簿との差分を検証した結果です。チートは使っていません。魔法も使っていません。——使ったのは、算術と記録だけです」
ゲルハルトは黙っていた。
逃げ場がないことを、ようやく理解したらしい。
「選択肢は二つです。一つ、横領額の全額を返還し、領地から退去する。二つ、王国法に基づき正式に訴追される。——どちらにしますか」
「……返す。返すから、訴追だけは——」
「では、この場で返還の誓約書にサインしてください。アルノルドさんが立会人です」
アルノルドが太い腕を組んだまま、ゲルハルトを見下ろした。
「書け」
ゲルハルトは震える手でサインした。
その後、酒場が預かっていたゲルハルトの荷物から、銅貨が詰まった重い麻袋を三つ押収した。
◇ ◇ ◇
帰りの馬車の中で、アルノルドが言った。銅貨の重みで馬車の底が軋んでいる。銅貨一枚一枚が、住民から奪われた生活の重さだ。
「ナカムラ。お前、すごいことをしたな」
「すごくないです。法律を読んで、帳簿を作って、算術をしただけです」
「だからすごいんだよ。——レイガスなら、剣で脅して終わりだ」
「脅して終わらせたら、次の徴税官も同じことをします。仕組みで防がないと」
アルノルドが窓の外を見た。
「……お前、本当にチートがないのか」
「ありません」
「帳簿で人を追い詰めるのは、十分チートだと思うがな」
(それはチートではなく、監査です)
帰り着いたのは夜だった。
執務室に明かりが灯っている。ドアを開けると、フィーネが飛び起きた。
「おかえりなさい! どうでしたか!?」
「誓約書を取りました。全額返還の約束です」
フィーネがへたりと座り込んだ。
「よかった……。ナカムラさんが帰ってきてくれて、よかった……」
「帰りますよ。仕事ですから」
「……はい」
フィーネの目が赤い。留守の間、泣いていたのか、それとも寝ていないのか。おそらく両方だ。
デスクの上に、留守中の業務日誌が置いてあった。「午前:住民の陳情を二件受付。午後:光魔晶の在庫確認。夕方:アルノルドさんの奥さんに薬草茶を届ける」。——一人で、ちゃんと回していたのか。
(——この子、放っておいても伸びるな)
横領犯ゲルハルト追跡。
台帳があれば、不正は必ず数字に出る。先代が一枚ずつ記録した帳簿があったからこそ、
一枚も漏らさず追い詰められた。
感情ではなく記録で裁く。それが行政官の流儀。
——でも「行政」は「罰」で終わらない。
▶ 次話「予算という名の約束」——ようやく「攻め」の行政が始まる。
フィーネの予算案奮闘記。指が足りなくなる計算シーンは必見。
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