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祭宮を抜け、皇后ザナの御殿へ走ったアンナの目に飛び込んできたのは、御殿の入り口で倒れているミタマであった。
「ミタマ!」
駆け寄り起こすと、かすかに呻き声を挙げる。
「ミタマ、どうした、何があった!」
駆けつけたヨミも膝を折った。ミタマはうっすらと瞳を開けると、アンナの腕を震える手で握りしめる。
「ザナさまを……ザナさまをお守りください……!」
アンナはヨミを振り仰ぐ。頷き、御殿の奥へと駆け込んだ。
果たしてザナは、御殿の奥の庭にいた。
アンナが案内された東屋に佇み、目の前に現れた男――オウミを驚愕の瞳で見つめている。オウミはザナを見つめたまま動かない。
「ザナさま!」
駆け込んできたアンナとヨミに、オウミはちらりと一瞥を向けた。
「来たな、お邪魔虫」
吐き捨てるような口調でそう言うと、オウミはザナに視線を向ける。
「……あなたは、誰です?」
ザナはほっそりとした首を傾げてオウミに問うた。オウミは悲しげに目を伏せると、ザナに向かって言葉を発したのである。
「僕は、あなたに棄てられた息子です」
「息子……」
「そうです。全てそこにいる、偽物から聞きました。僕はあなたの正真正銘、本物の息子なのです。僕は生まれてすぐ、先王ナギに平籍に落とされ、自分の出自を知らないまま過ごしていました。その僕の身代わりとして、このヨミという男をあなたに差し出したのです」
ザナは黙ったまま話を聞いている。
オウミの様子は真剣であった。アンナはそのオウミの口調に、彼の切なる願いを見た。今までのひょうひょうとした口調とは違う。ひたひたと真に迫る声である。
彼は……もしかしたらザナさまを傷つける気はないのかもしれない。
「僕はずっと不思議だったのです。何故僕に父母がいないのか。生まれたときから僕は一人でした。でも、それは違ったんですね」
オウミは眦を下げる。
「お母さま、僕を息子だと呼んでください。そして、そこにいる偽物のことを追放してください! 僕が……僕だけがあなたの息子なのです!」
ザナは、オウミを見つめ、ヨミに視線を向けた。ヨミもザナを見つめている。静かな時間であった。ザナの瞳は凪いでいる。まるで透き通った泉の如き冷静な瞳で、ザナは再びオウミに目を向けた。
「そうですか。あなたが……。やっと会うことができました」
ザナは静かな口調でそう言った。淡々と、しかし、にじみ出る慕情を隠し切れない、胸に迫る声である。
その口調のどこにも驚きの響きはない。
「ザナさま、もしかして……ご存じだったのですか?」
アンナの問いに、ザナは首を縦に振った。
「実を言うと、テラが、わたしの生んだ息子でないことは、随分と昔から知っていたのです」
「……昔から?」
アンナの問いに、ザナはにこりと笑みを向けることで答える。
「テラを産み落としたとき、わたくしは少々気が高ぶっておりました。皇太后さまは平籍の王族など認めない、の一点張りでありましたし、ナギの心配も一通りではなかったのでしょう。しかし、赤子を取り換えられて気づかない母親はおりません。この子はわたくしの子ではない。そのことに気づくには時間はかかりませんでした」
ザナは東屋の天井を見上げる。
「ナギが連れてきた子は、自分の息子ではない。それでもその子を育てたのは、ひとえに皇太后さまのことがありました。あの頃の皇太后さまは病の床にあり、それだけに間違いは正せばならぬという妄念に囚われておいでだったのです。ですから、ナギの考えは良いことだと――平籍に落とすことで、わたくしの子が助かるのであれば、そしてその代わりに手元の子が狙われることになったのだとしても――良いことであると。思っていたのです」
アンナは思わずヨミの腕をそっと抑えた。赤子であるヨミが、皇太后の手にかかって死んでも良い、とザナは思っていたという。彼は今、どんな顔をしてこの話を聞いているのであろう。
ザナはそんなヨミに安心させるように微笑んだ。
「しかし、育てていくうちに考えが変わりました。この子も変わりない、わたくしが守らなければならない命であることには違いないのです。ですから、皇太后の手から守り切れたとき、わたくしは誓いました。この子はもはや自分の息子である、だから、一生をかけてこの子を育て上げるのだ……と」
オウミは悲しげに瞳を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
「じゃあ、本当に……僕はいらない子だったんだね」
「それは違います」
ザナは断言する。
「オウミ――あなたはオウミ、ですね?」
「なんでその名前を……」
アンナは思わず声をあげた。ザナは、ナギがテラに別の名を与えたことなど知らないはずはなかったか。
「ナギは自らの行いを深く後悔しておいででした。そして、ついに耐えきれなくなったのでしょう。わたくしに……すべてを打ち明けたのです。わたくしは、とっくに気づいていたとお伝えしました。そして、あなたを探し出そう、どんなことをしてでも、もう一度会おう、と。彼に提案しました」
ザナは目を伏せた。
「ナギは、あなたを探し続けていました。冥界へと足を向ける回数が増えれば、おのずと自らの施政も見えるというもの。彼が、今の冥界の仕組みについて疑問を持つのも、当たり前のことだったのです。そんな矢先のことでした。――ナギが、あなたを見つけたのは」
「……僕を、見つけた……?」
ザナはうっすらと微笑みを浮かべる。
「あなたは稀人の保護をしていたでしょう。話を聞くために呼び寄せた稀人に、あなたの名前を聞きました」
そうか、とアンナは納得する。
ナギ王は、話を聞くために、稀人たちを宮城に呼び寄せていた。稀人の保護を行っているオウミの名が出るのも、当然のことだ。
「しかし。あなたのことを知れば、おのずと平籍の現状を知ることになる。このままオウミを呼び寄せたとて、平籍の現状は変わるまい。だからこそ……ナギは……」
ザナは、そこでくっと唇を噛み締める。
「……わたくしに全てを告げたあと、自ら命を絶ったのです」
アンナは息を呑んだ。
では、ザナは知っていたのだ。ナギが殺されたのではなく、自殺だったということを。
ヨミは先ほどから微動だにしない。ただ黙ってザナの声に耳を傾けている。
ザナは一度目を伏せると、顔を挙げた。静かな瞳でヨミを見つめ、言葉を紡いでいく。
「ナギはこう言っていました。『オウミをこのまま王として即位させてはならぬ』」
オウミはぐっと息を呑む。
「『かといって、テラを王位につけてもならぬ』」
「……!? それは、どういう……」
ヨミの言葉に、ザナはうっすらと微笑んだ。
「『平籍の立場にいたオウミは、平籍の苦しみを知っている。しかし、神籍の現状を知らないだろう。逆に、神籍として育ったテラは、平籍のことがまるでわからないはずだ。その状態で勅令を発すれば、自分と同じ苦しみを味わうことになる』……ナギ王は、そう考えておられました。しかし、広がり続けた神籍と平籍の溝は、もう見過ごすことができないほどになっておりました」
ザナは一度口元を覆い、言葉を呑みこんだ。そして、細く息を吸うと、また音を唇に乗せる。
「だからこそ、ナギ王は自ら命を絶ったのです。こんな仕組みは今すぐ取り払わなければならない。冥界を作り直す機会を設けなければ、と……」
そんな、自己犠牲にもほどがある。喉元まででかかった言葉を、アンナは無理矢理飲み込んだ。そんなことは、きっとザナが一番よく分かっている。そしてナギ王の死に傷ついていたことも間違いないのだ。
「勅令は一度切り。代替わりの時に行われる。ならば、自分が消えるしかない。彼のその決意を、誰が止めることなどできましょう」
ザナの言葉に、アンナは目を伏せる。
ヨミに渡したナギ王の文。
その中には確かにザナが語っていた一部分が記録されていた。ナギ王は神籍と平籍の仕組みに関する勅令のことを後悔されていらっしゃったのだ。そして、次の勅令でその過ちを正してほしい、そのために自分は死ぬ、と、そう記されていたのである。
ナギは自ら死ぬことで、冥界を作り変える機会を、ヨミ、そしてオウミに与えようとしていたのだ。
ザナはゆっくりと歩を進め、オウミの肩を抱いた。そのままオウミの体を強く抱きしめる。オウミは動かなかった。その場で立ち尽くし、顔を伏せている。
「お帰りなさい、オウミ。……そしてごめんなさい」
「お母さま」
オウミはゆっくりと顔をあげた。瞳は不安に揺れ、声はか細く頼りない。
「……僕、ここにいていいんですか?」
「勿論です、オウミ。あなたも、わたくしの息子なのですから」
ザナの言葉は、その場にいる全ての者の心にじんわりと沁み渡っていく。まるで言葉そのものに何らかの魔力があるかのように、温かな気持ちが波紋となって広がっていった。
オウミは黙っていた。黙ってザナを、そしてヨミを見ていた。その表情に、もはや以前のような狂気は見られない。
それまで黙っていたヨミが、すっと歩を進めた。
「オウミ」
立ち尽くすオウミを見つめて、ヨミがぽつりと言葉を落とす。
「俺に平籍のことを教えてほしい」
「へ……?」
きょとん、と首を傾げるオウミに、ヨミは言葉を重ねる。
「俺は王族と、神籍のことには詳しい。しかし、平籍のことになると、不勉強なのは否めない。お前に意見を聞き、そして冥界を作り変える。ナギさまの言う通り、二人で冥界を作り変えていきたい」
真摯な顔で、ヨミはオウミに語り掛ける。
「俺は全ての物が平等に暮らせる冥界にしたいのだ。……力を貸してはくれまいか」
オウミは目を丸くした。まじまじとヨミを見つめ、ややあって苦笑する。
「僕、お前、嫌い」
「奇遇だな、俺もだ。だが、時間がなんとかしてくれると思っている」
「どんな理屈だよ」
二人の口調に、アンナはくすりと笑みを零した。
「二人とも、兄弟げんかができて良かったね」
「兄弟とは認めていない」
「だれがこんなやつ!」
その言葉にアンナが吹き出し、ザナも思わず微笑んだ。
「喧嘩するほど仲がいいっていうもんね」
「こんなに素敵な息子が二人もいて、わたくしは果報者です。……ナギも、きっとお喜びでいらっしゃいますでしょう」
二人人の間に漂う空気は、ぎこちない。しかし、きっと時がそれを解決していくのであろう。なにせ、王族は不老だ。時間だけはたくさんあるのだから。
風が抜ける。その風に乗って、うっすらと花の香りが漂っていた。




