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今、なんていった?
アンナは耳を疑った。王が、王太子――ザナの息子を平籍に落とした?
「命の危険があったのだ。皇太后はその頃から病を患い、手が付けられない状態だった。皇后ザナはともかくも、王太子は次期王だ。その王が、平籍の女から生まれた子だという事実が皇太后にはいたくお気に召さなかった。王が祭宮にいるときは守れるかもしれん。しかし、公務で外に出ていることがほとんどだ。そんな状況で、ザナと、王太子を二人で置いておいたら危険だったのだ」
アンナは唾を飲みこんだ。まるでシェークスピアの戯曲のようだ、と現実感の伴わない頭で考える。王政は、現世のアンナがいた軸ではもはや過去の遺物である。しかし、死後の冥界ではまだこのようなことが起こっている。その事実に、アンナは今更ながら衝撃を受けたのである。
「じゃあ……行方不明って……もしかしてそれから、ずっとテラ――オウミは平籍として育ってきたってこと?」
「そうだ。それが、さっきのお前の問いの答えだ。ナギ王が死に、急ぎ次の王を立てなければならなかった。しかし、王の子は当の昔に平籍に落とした、という事実しか分かっていない。探すのに手間取ってしまったが、ようやくたどり着いたのが、あの男――オウミだったのだ」
「そっか……」
流石に、言葉がすぐに続かない。
「それじゃあ、ザナさまはすぐにでもオウミに会いたいんじゃないの?」
命を助けるためと言っても、生まれたばかりの子を取り上げられた形になるのだ。断腸の思いがあったに違いない。それならば、早く会わせてやるのが人情というものではなかろうか。
しかし、ヨミはその言葉に再び口を噤んだ。その黒い瞳が揺れている。不安と、緊張が見て取れる瞳の揺らぎだ。
風が御殿を抜ける。夜の、湿った土の香りが二人の間を駆け抜けていった。その風に煽られて、ヨミの黒髪がさらさらと靡くのを、アンナはじっと見つめていた。
「……ザナさまには、会わせたくない」
絞り出すように、ヨミは呟く。
「ザナさまは、オウミのことを知らない。だから会わせてはいけないのだ」
「ん? どういうこと?」
アンナは首を傾げる。
「だって、オウミはザナさまの息子なんでしょ? 知らないって……どういうことなの?」
ヨミはゆっくりと立ち上がると、アンナに背を向ける。そのまま二、三歩歩を進め、丸窓の前で立ち止まった。
「幼い我が子を取り上げられたことで、ザナさまは心の均整をお忘れになってしまわれた」
唐突に、ヨミが言葉を落とした。
「その嘆き、悲しみは尋常ではない。物を食べなくなり、どんどんやせ細る皇后をナギ王はひどく心配をし、また自身の下した決断が間違っていたのではないかと思ったのだそうだ」
その言葉に、アンナは先日会ったザナの姿を思い出す。物を食べなくなり、やせ細った姿はとても痛々しかった。
きっと、ザナは愛情の深い人なのだ。息子のことを愛していたからこそ、彼女は魂の底からの叫びを挙げていたのであろう。
「テラを探し求めて泣き続けるザナを見かねたのであろう、ナギ王は、ここでまた一つ、失敗を犯した。それは……」
ヨミは息を吸い、ゆっくりと吐き出した。その吐息にそっと乗せるように、言葉を紡ぐ。
「平籍から赤子をもらい受け、その赤子をテラとしてザナへと返したことだ」
ヨミの黒い髪の毛を、風が巻き上げていく。振り返ったヨミの瞳は、悲しげな光を宿していた。
「だから、ザナさまは自分の息子が平籍に落とされたことも知らない。息子だと言われて育てた赤子を真実、テラだと信じている」
そのままヨミは御殿の真上を見上げる。
御殿の天井は薄青い光に照らされていた。その天井いっぱいに描かれている図案化した文様。太陽と月、そして海原。
「偽物の赤子が十分物事を理解する年齢になった時、ナギ王はその秘密を本人に打ち明け、もう一つの名を与えた。テラと対になる名を受けたその子どもは、祭宮ではテラと名乗り、それ以外ではもらい受けた名を名乗る。だから、外の者はみな、テラの顔も形も知らなかったのだ」
アンナは御殿の天井をもう一度眺める。太陽と月、そして海原。海原は、オウミ。太陽はテラだ。それでは、月は……。
ああ、月はヨミのことだ。
この男にずっと感じていた違和。それは、ヨミとしての顔と、テラとしての顔を持つが故だったに違いない。
「ナギ王は平籍に落とした自らの息子のことをずっと気にしていた。皇太后亡き後はナギ王自ら冥界へ探しにいき、見つけ次第迎え入れたいと思っていた。しかし、皇后ザナは身代わりの子供のことをテラだと信じて疑わない」
ヨミは淡々と言葉を落とす。
「おそらく、ナギ王は悔やまれていたのだと思う。自らの起こした失敗の数々を悔やみ、悩み……そして、自ら死を選んだのだ」
「え……!?」
アンナの声に、ヨミは切なげに目を伏せた。
「そう、先王ナギは殺されたわけではない。彼は自ら死んだ。長年の後悔が、彼の心を蝕んでいたに違いない……でなければ、あんな……」
そこまで言うと、ヨミは口を閉ざし、御殿を一瞥して天を仰ぐ。
「先王がお亡くなりになったとき、身代わりの息子は誓ったのだ。ナギ王が見つけられなかった本物の息子を、自分が絶対に見つけてみせる。王座に就け、自分はその補佐に努めよう。それが、拾われた者の最後の親孝行だ……」
ヨミの瞳に温かな光が宿っている。おそらく、先王ナギがご健在だったときのことを思い出しているのだろう。きっと彼にとってナギは良い親だったに違いない。
「アンナ?」
首を傾げたヨミに、初めてアンナは自分が涙を落としていることに気づいた。慌てて手の甲で拭っても、とめどなく流れる涙は止まる気配がない。
「……なぜ、泣く」
「わかんない……わかんないけど止まんない……!」
突然冥府へ連れてこられた赤子のことを考える。命の危機があったからとあえて自分の子を逃がし、新たな身代わりとして見知らぬ子どもを連れてくる。それはつまり、その子どもの命をないがしろにしたということだ。
事実を打ち明けられた時、その子どもはどんな気持ちであっただろう。自らが母と呼んでいた人が、赤の他人であると知った時、皇太后に殺されるかもしれないと分かっていて冥府に連れてこられたと知った時の衝撃はいかほどであろう。そして、父と慕っていた人が、自ら命を絶ったのだとしたら。
「……そんなに子どもは悲観していなかったと思うぞ」
アンナの涙に何かを感じ取ったように、ヨミは苦笑した。
「むしろ、運が良かったと思っていた節がある。平籍として生まれ、そのまま平籍として育つよりもはるかに多くの物事を知り、見ることができる。それは子どもにとって喜ばしいことだったからな」
「ほんとに……?」
「本当だ。……だから、そう泣くな」
ヨミの声のやわらかな響きに、アンナはこくんと頷いた。
そういう理由なのであれば、ザナをオウミに会わせるわけにはいかないのも道理である。しかし、問題は、当のオウミがザナに会いたがっていることだ。それに、そのことよりももっと重大な問題がある。
「ねえ……オウミは王になれると思う?」
アンナの問いに、ヨミは首を傾げた。
「だって、オウミはそれこそずっと平籍で育ってきて、突然自分が王族である、と言われたわけなんでしょ。それに……」
オウミは危険だ。それはアンナだけではなく、ヨミも同じことを考えているはずである。オウミはただ単に浅慮だというわけではない。あの男は頭は決して悪くない。しかし、何か、人として見失ってはいけないものがごっそりと抜け落ちているような気がするのである。
「オウミは、平籍を優遇する勅令を下すって言ってた。それ、大丈夫なのかなって……」
ヨミは口を噤んだ。そのまま顎に手を添えてなにやら考え事をしている。
「王になれるかという質問に関してだけ言えば、なれる。というか、彼はなるべき人物だ。しかし、王に適しているかというと……」
言葉を濁したヨミに、アンナはきっぱりと言葉を口に乗せた。
「私は、オウミは危険だと思う」
「アンナ」
「ねえ、ヨミ。ヨミはオウミを王座につけたいの?」
「それは――」
「先王ナギへの孝行はよくわかる。見つけられなかった代わりに、オウミを探し当てたこともすごいと思う。でも、王座につけるとなるなら話は別だよ、ヨミ」
「何が言いたいのだ?」
アンナは拳を握りしめ、ヨミの目をしっかりと見返した。
「この冥界は、私の未来でもある。だから、私は意見する。私――こんな冥界は嫌だ! だれかが優遇されて、その裏で誰かが冷遇されている。しかも、それが現世での行いで決められている、なんて……そんなの」
アンナの今の境遇と同じだ。
著名な親を持ったことで、アンナはきっとあらゆるところで優遇されているのだろう。しかし、それはアンナの望むところではない。どんなに嫌だと声を挙げてもゆるぎない力でもって、アンナの図り知らないところで親の名前が邪魔をする。
それでも、現世はまだ救いがあった。どんな生まれであったとしても――スタート地点の違いこそあれ――自分の生き方を自分で決めることができた。
冥界の転生は、自らの記憶を受け継いでいないのだという。で、あれば、それは「生まれながらにして恵まれている」者と、「生まれながらにして冷遇されている」者という明確な差別にしかならない。
「私は自分の力でつかみ取ったものしか欲しくない。でも、冥界ではそれが許されない。平籍に生まれたから、神籍に生まれたから、という理由だけで、自分の生き方を決められてしまう。私は、そんなの絶対! 嫌だ!」
アンナはヨミにつかみかかった。
「ねえ、何とかならないの? オウミは多分、本当にやる。平籍が受けてきたことを、そのまま神籍にやり返そうとしている。絶対的な権力で! それ、止めなくていいの!?」
「アンナ」
自らの体を揺さぶるアンナの手首をつかみ、ヨミは呟く。
「無理だ。止められない。オウミは――テラだ。ナギ王の息子だ。彼を王につけることが、ナギ王の望みでもあるはずなんだ。だから……」
「ちがう! ナギ王がどう思っていたかなんて、この際どうでもいいの!」
アンナは叫んだ。目の前のわからずやの頭をかち割ってやりたかった。
「ナギ王の意思を尊重するのは分かる。でも、そうじゃない。ヨミ自身はどう思ってるのかを聞いてるの! オウミが王座について――本当にいいの? 今の神籍と平籍の仕組みを、心の底からいい形だと思ってるの?」
アンナの問いに、ヨミは沈黙することで答えた。目を固く瞑り、これ以上アンナの言葉を聞かない構えなのは明白だ。
「……わかった。ヨミは賛成なんだね。オウミが王座について、めちゃくちゃな政治をやっても文句はないんだね」
無言である。
「でも、私は嫌だ。……死んだ先の未来がこんな形なら、私、安心して生き返れない」
アンナはヨミの衣から手を放すと、踵を返した。
「……何をするつもりだ」
「臆病者には用はないの。おやすみ、ヨミ」
「おい!」
ヨミの制止の言葉も聞こえないふりをして、アンナは御殿の外に出る。石畳の道を通り、広場を抜け、自分にあてがわれた御殿に戻ると、そっと部屋に入り込んだ。
衣を乱暴に脱ぎ捨て、夜着に着替えるとそのまま敷布にごろりと横になる。
(何かあるはず)
暗闇の中で、アンナは考える。
(オウミを止める方法。彼にこのまま冥界を任せておいてはいけない)
幸いなことに、オウミはまだテラであると発表されたわけではない。そして、幸いなことに、自分はまだ退位していない、偽王とはいえ、正式な王なのだ。
つまり。
アンナはがばっと起き上がった。
「私が……先に勅令を出せばいいんだ」
体から、だらだらと冷や汗が流れる。興奮で喉がからからに干上がって、アンナは何度もつばを飲み込んだ。
そうだ、自分がオウミより先に勅令を出せばいい。神籍にも、平籍の前にも姿を現していたアンナである。認知度ではオウミよりもアンナに軍配が上がる。
アンナはぐっと拳を握りしめる。そもそも、偽王の勅令に意味はあるのか。勝手なことをして、生き返りできなくなったらどうしよう。さまざまな思いが脳裏を駆け巡る。
それでも、アンナは嫌であった。
(冥界は、私の未来)
人は必ず死ぬのだ。であれば、アンナも死後は冥界の仕組みに組み込まれ、そこで過ごすことになる。その時の自分に――たとえ記憶がなかったとしても――誇れる自分でありたいとアンナは思う。知ったからには戦う。やれるだけのことをやってみよう。
暁闇。暗闇が少しずつ薄れ、丸窓からほの紫色の朝の光が差し込んでいる。その光の中で、アンナは決意したのである。




