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結論から言うと、アンナの考えていることは正解であった。
「ようこそいらしてくれました、稀人よ。名はなんと?」
「……アンナ、と申します」
答えながら、アンナは目の前の皇后から目を放すことができなかった。
ザナの御殿へは、すんなり入れたわけではない。御殿の入り口では、当然ひと悶着があったようである。アンナを先導したミタマが先に御殿へと入り、ザナへ話をつけたのであろう。突然の来訪である。多少は気分を害したかと思ったが、皇后にその様子は見られない。
王族は不老である、との言葉通り、皇后ザナは確かにお若い。まっすぐに伸びた視線。印象的な灰色の瞳に宿る凛としたまなざしは、元々美しい人であることを示唆していた。しかし、扱けた頬や落ち窪んだ眼窩は皇后の苦しみの深さを表している。生気の抜けた肌。一筋、二筋解れて靡く黒髪は、手入れをされるのを拒んでいるかのようにかさついており、状況の悪さを物語っていた。
「アンナ。良い名です。このような場所で立ち話というわけにもいかないでしょうし、ぜひ上がっていってくださいな。ミタマ、お茶の用意を」
微笑むと、乾燥した唇が切れたのであろう、ぽつぽつと血の玉が浮き上がった。
(これは……ちょっと想像以上かも)
アンナは演じたことがないが、シェークスピアの四大悲劇のひとつ、『マクベス』に登場するマクベス夫人という役がある。舞台が進むにつれて夫人は心を病み、やがて発狂してしまう役どころである。
アンナが生前に観劇した舞台でのマクベス夫人は凄まじかった。目の下にくっきりと隈を引き、頬にシャドーを入れて骸骨のような顔にする。血の幻影に怯えてひたすらに手を洗い続ける有名なシーンは背筋に冷たいものが走ったものだ。
今の皇后は、マクベス夫人に近しい凄まじさがあった。狂気と理性がぎりぎりの線の上で揺れている。今はまだ、理性の方が強く押し出ているのであろう。しかし、きっかけ次第では狂気が顔を覗かせてしまう。そんな危うさがあった。
補助なしではもう歩くこともできないのであろう。皇后は杖を突き、奥へとアンナを誘う。その枯れ枝のような細い手足や、折れそうなほど細い首回りに、死の気配が濃厚に付きまとっていた。
アンナは思わずごくり、とつばを飲み込む。
(ううん、だめだ。私が気にしたら、ザナさまも気にされてしまう)
「お言葉に甘えて、お邪魔いたします」
案内されたのは、広間を通り過ぎた先の園林であった。中央に亭を構え、小さな池をまたぐように橋が延びる。池に流れ込む小川のせせらぎが耳に優しい。池には蓮の葉がふかふかと浮いている。時期になれば美しい花が咲くのであろう。今は特徴的な蓮の実がぽこぽこと水面から首をもたげていた。風にそよぐのは柳の木だろうか。しゃらしゃらと葉擦れの音が心地よく鳴り響いていた。
アンナは思わず深呼吸をする。気持ちの良い場所である。
石橋を渡り、亭へと誘われる。経年変化の美しい紅木の柱に、宝玉造の屋根。柱と同じ紅木でできた豪奢な卓子と長椅子が置かれており、麗しい風景を望むことができる。
先んじて御殿に入っていたミタマが、着々と食事の準備を進めていた。卓子の上にはアンナの手土産がずらりと並び、一歩下がったミタマが給仕に控えていた。
ザナは長椅子に腰を下ろすと、アンナも同様に腰を掛けるようにと身振りで示す。アンナは遠慮なく長椅子に腰を下ろした。
「まさか稀人をお招きできるとは思いませんでした。沢山お聞きしたいことがありますの。どうぞ、固くならずに過ごしていただきたいわ」
「ありがとうございます」
風が吹き、水面に波紋が広がる。かすかに聞こえる鳥の声と水のせせらぎがまるで極上の音楽のように亭を包み込んでいる。
「ここは、とても素敵な場所ですね」
声に出すと、ザナは嬉しそうに微笑んだ。
「嬉しいわ。わたくしもこの場所が気に入っておりますのよ。特に、この彩画……」
ザナはつうと上を向くと、嬉しそうに目を細めた。
つられて見上げれば、天井に極彩色の絵が描かれているのが見て取れた。太陽と月、そして海をモチーフにしているのであろう、図案化した彩画の見事さに、アンナは感嘆の息を吐く。
「ナギ……わたくしの夫が、昔。あなたと同じような稀人を呼んだことがありました。その時に稀人に描いていただいた絵が、この彩画なのです」
「そうなんですね」
「稀人は、現世の記憶を持ったままこの冥界で暮すのでしょう。なので、現世を象徴するものを、と依頼したところ、その図案になったのです。太陽も、月も、そして海もこの冥界には存在しないもの。名は知っておりますが、わたくしも見たことはありません。きっととても美しいのでしょうね」
そう言いながら、ザナは卓子の上に並んだ食事や果物を見つめている。どれに口をつけようか、迷っているのであろう。
「あら、これ……」
その視線が一カ所で止まったのをアンナは見逃さなかった。
「よろしければ召し上がってください」
ミタマの手によって美しく盛られた飴を示し、アンナは微笑む。
「懐かしい。花蜜の飴ですね」
ザナは骨の目立つ指を伸ばすと、ひとつ飴を摘まみ上げ、そっと掌に転がした。そのまま掌を持ち上げて光に透かすと、屈折した琥珀色の光がきらきらと床に散る。
「この飴は、あなたがお作りに?」
「あ、いえ……冥界に来てから、良くしてもらっている人にいただきまして」
なんとなくヨミの名を出しづらくて、アンナは咄嗟にぼやかした。その言葉を聞いて、ザナは目を優しく細め、嬉しそうに微笑む。
「そう。では、その方は、きっとアンナのことがお好きなのですね」
「へっ!?」
思わず取り乱したアンナである。ザナはころころと口元を隠して笑った。
「花蜜の飴は、市場には出ない家庭の味です。ひとつひとつ丁寧に、手ずから作るものなのですよ」
「そうなんですか!?」
「ええ。透明に仕上げる工程がとても難しくて。何度も煮詰めたり、煮返したりをくり返すことでこの美しい色合いになるのです。だからとても手がかかるの。女性にとても好まれるお菓子だから、殿方は愛しい女子の心を射止めるために一生懸命花の蜜を集める、と聞いております」
これには冷や汗が出るアンナである。
(ヨミが……私を? いや、まさか……)
きっと、純粋に、王代行の初仕事を労う気持ちとして贈ってくれたのだ。そうに違いない。それに、あのヨミが手ずから飴を作っているところなどアンナには想像できなかった。もし手作りであるのだとしても、きっと、誰か別の者にやらせたのであろう。
自らに言い聞かせるように頷いていたアンナを見つめると、ザナはひとつ息を吐く。
そのまま、意を決したように目を閉じて、震える指先でそっと飴を口に含んだ。
給仕に努めるミタマが息を呑むのが、アンナにははっきりわかった。
「……優しい味わいね」
ザナの両の目から、涙が零れる。それを慌てて袖で隠し、ザナは俯いた。
「ごめんなさい。あまりに美味しいものだから……」
風がザナの零れた髪の一筋を嬲る。この方は、今なにを考えていらっしゃるのだろう。
アンナがミタマに目を向けると、彼女は滂沱の涙を流している。そのことに彼女自身も驚いたようで、慌てて袖で顔を覆った。
「……ミタマ、この飴に合うお茶を準備してくれないかしら」
「……! はい、承りました!」
ザナの声に、ミタマは跳ねるように礼を取ると、踵を返す。その背中を見送ってから、ザナは苦い笑みを零した。
「……わたくしは、知らぬ間に随分と心配をかけていたようですね」
(この方は、本当に立派な方なんだ)
アンナは尊敬の目でザナを見つめる。今のは、命令に見せかけた皇后の配慮である。ミタマが涙をふき、整える時間を彼女に与えたのであろう。
やがて戻ってきたミタマは、目は赤く腫れたままではあったがすっかりと元の彼女に戻っていた。手ずから入れてくれたお茶は確かに飴にとても合う。
ひとつ飴を食べたことで、ザナは吹っ切れたようである。おずおずと野菜の汁物を飲み、果物を食べ、茶を飲んだ。
「それでは、アンナは現世で役者をやっていたということなのですね」
「はい。冥界にも役者という職業はあるのでしょうか」
「ええ。しかし、冥界では芝居は娯楽ではなく、神事の扱いです。一般的な神籍や平籍の者はほとんど見たことがないと思いますよ」
ずっと絶食だったという話であるし、ザナの食べる量自体はそれほど多くはなかった。それでもミタマは随分とほっとしたようである。給仕する顔も明るい。
腹も膨れ、そろそろお開き、という雰囲気が漂い始めたときである。皇后ザナは不意に口を閉ざし、ややあってためらいがちに呟いた。




