藤咲天音に伝わらない
やわらかくて、人肌ほどの温かいものが私の口を塞いでいる。
突然のことに、それが藤咲さんの唇だということに気付くまで少し時間がかかってしまう。
気付いたころには藤咲さんとの間には距離ができていて、私の口は自由になっていた。
「んー、なんか、ちょこのあじー」
へらへらと笑う藤咲さんが目に映る。その瞬間、何かが切れる音がした。
私の頭は思考を放棄し、体が勝手に動き出す。
上になって私を押し倒している藤咲さんをぐっと引き寄せ、上下反転して今度は私が押し倒す形になった。
あっけらかんとした顔で私の下になっている藤咲さんに向かって呟く。
「藤咲さんのせいだよ」
藤崎さんの透き通るように綺麗な瞳が近づいてくる。私は目を閉じて彼女の唇に私の唇を重ねた。
一瞬だったさっきとは逆に、今度は長く私の方から押し付ける。藤咲さんの体温が唇を伝って流れ込んできて、一つになるように溶けてしまいそうなほど気持ちがいい。
もっと堪能したい。その一心で私は強く唇を押し付ける。時々彼女の吐息が漏れ出て、私の耳を刺激する。
次第に息が苦しくなってきて、惜しみながら顔を上げる。はぁ、はぁ、と私たちの乱れた息が交じり合って一つになる。その奥で藤咲さんの潤んだ瞳と目が合った。
何も言葉にはしないけれど、私たちは吸い寄せられるようにもう一度唇を重ねる。
今度はもっと藤咲さんを感じたくて、ゆっくりと舌を彼女の中へと忍び込ませる。すると彼女はそれを受け入れるように、自分の舌を私に絡ませてきた。
ほんのりとチョコレートの甘い味がする。絡んでくるそれはぎこちなくて拙いけれど、それすらも愛おしい。私の袖をキュッと掴んで夢中になっているのもかわいい。
藤咲さんと絡み合うのが、溶け合っていくようで気持ちいい。気持ちよさのあまり、脳みそまで溶けて何も考えられなくなってしまいそうだ。
空っぽになった頭が、藤咲さんへの意識と感覚を鋭くさせる。
時々漏れる藤咲さんの吐息。微かに香るシャンプーの匂い。ほんのり甘い藤咲さんの味。目を開ければ間近に迫った長いまつ毛。やわらかくて甘い彼女の口。
五感すべてで藤咲さんを感じられて、そのすべてが愛おしい。
こんなにも愛おしく感じるのは、私が彼女のことを好きだからだ。
夜、同じ布団で一緒に寝るのが心地良いのも、一緒に食事をするのが楽しいのも、家に帰った時おかえりって返ってくると心が温まるのも、藤咲さんとのキスが気持ちよくて、彼女のすべてが愛おしく感じるのも。全部藤咲さんが好きだからだ。
だから私は、この二文字を藤咲さんに伝えなければならない。そしてそれを言うのは今しかない。
私は意を決して顔を上げる。今更ながら藤咲さんの顔を見るのが恥ずかしくて目をギュッと瞑ってしまう。肩に力が入る。
心臓の鼓動がドクドクドクと、これ以上にないくらい早く波打つ。大きく息を吸い、ゆっくりと吐いて呼吸を整える。もう一度息を大きく吸って、私の気持ちを一言に詰め込んで吐き出した。
「私、藤咲さんのことが好き……!」
ようやく言えた言葉。「好き」というたった二文字に込めた想いは私のすべてと言っても過言ではない。あまりにも重すぎるこの言葉は、藤咲さんに届いただろうか。呼吸の乱れがおさまらない。言葉が返ってくるのが怖くて目が開けられない。
沈黙が十秒、二十秒と続く。あまりにも長い沈黙に耐えられなくなった私は、恐る恐る目を開けた。
その先にいる藤咲さんは、私の下で気持ちよさそうにスヤスヤと眠っていた。
――え、寝てる……?
「藤咲さん?」
呼びかけても反応はない。
「ちょっと、藤咲さーん」
体を揺すっても、起きる気配はない。本当に寝てしまったのか?
それなら、私の一世一代の告白はどうなるのだろう。まさか、聞いていなかったなんてことがあるのだろうか。私が勇気を振り絞って捻り出した言葉は、藤咲さんには届いていなかったのか。
そう思った途端、一気に肩の力が抜けた。藤咲さんに気持ちが伝わっていないというのに、心のどこかで安心してしまっている自分がいる。
もし藤咲さんが起きていて、振られてしまったら。
残りの学校生活を気まずいまま過ごさなければならなかったかもしれない。元々関わりはなかったのだから、元の生活に戻るだけ。
それでも、心にぽっかりと開いた穴は元には戻らないだろう。
そう考えると、これでよかったのかもしれない。
そして、もし藤咲さんが寝てしまわなかったら、私は歯止めが利かなくなっていたかもしれない。このまま続けていたら、きっと取り返しのつかないところまでいっていたと思う。
幸か不幸か、彼女が寝てよかったと思っている。
けれど、そうしたら私はいつ気持ちを伝えればいいのだろう。一度揺らいでしまった覚悟はそう簡単に元には戻らない。
もう一度覚悟を決め直すかもう諦めてしまうのか、その決断を明日の私に任せることに決め、何をしても起きそうにない藤咲さんをベッドまで運ぶことにした。
肩と膝を抱え、お姫様抱っこのような形で抱き上げる。私より少し小柄とはいえ、筋力に自信があるわけでもない私でも軽々と持ち上がった。
あまりにもすんなり持ち上がったので、拍子抜けしてしまう。軽いのはいいことで少し羨ましくも思うが、それ以上に心配になってしまう。明日起きたらこれからはちゃんと食べるよう言っておこう。
そんなことを考えながら、彼女をベッドへと連れていく。頭を打たないようにそっと下ろし、布団を掛けてあげる。
長く綺麗な髪を梳くように頭を撫でると、サラサラの髪が私の手から滑り落ちた。寝息を立てて気持ちよさそうに眠る藤咲さんに「おやすみ」と呟いてから、私はお風呂に入ることにした。