藤咲天音はお酒に弱い
家に帰ると、昨日と同じように晩御飯が用意されていた。今日のメニューはカレーらしい。玄関を開けたときから漂っていた匂いが、空腹の私の食欲を刺激する。
「ただいま」
「おかえり。ご飯もうできてるよ。一緒に食べよ」
「ありがとう。すぐ手洗ってくるね」
もうすでにお風呂に入ったのかパジャマ姿の藤咲さんに声をかけ、足早に自室へ荷物を置きに行く。急いで手を洗い、お皿を並べて待っていてくれた藤咲さんの隣に座り、手を合わせる。
「いただきます」
自然と声が重なって私たちはカレーを食べ始めた。藤咲さんの料理はおいしい。それはカレーも例外ではなく、野菜がしっかり煮込まれていてやわらかくておいしい。
けれど、藤咲さんと食べる晩御飯が今日で最後かと思うと、少し気持ちが沈んでしまう。そして店長と約束した通り、藤咲さんに私の気持ちを伝えなければと思う。でも言い出す勇気が出なくて余計に気持ちが沈む。
「千代田さん、どうしたの? カレー、あんまりおいしくなかった?」
顔に出ていたのか、藤咲さんにそんなことを言わせてしまった。
「ううん、何でもない。このカレー、とってもおいしいよ」
口へスプーンを運ぶ手が早くなる。
言わなきゃいけないことはわかってるのに、言葉が喉の奥に閊えてうまく出てこない。代わりに口から出るのは藤咲さんとのなんでもない会話で、その内容は耳から耳へと抜けていき頭に残らない。
終始上の空だった私は、結局自分の気持ちを言い出せないままカレーを食べ終えてしまっていた。
藤咲さんが「ごちそうさま」と言ったのに気づいて、私も続けて「ごちそうさま」と手を合わせる。
「千代田さん、何かあったの? さっきから元気なさそうだけど」
「え、そんなことないよ」
否定はするけれど、藤咲さんは眉をひそめて疑いの目を向けてくる。どうしたものかと頭を悩ませていると、ふと昨日貰ったチョコを食べていないことに気が付いた。
「あ、そうだ。昨日バイト先の店長からチョコ貰ったんだ。一緒に食べよ」
誤魔化すようにすっかり忘れてたと言って立ち上がり、冷蔵庫にしまってあったチョコの箱をリビングに持って行く。
とりあえず、チョコを食べて一度仕切り直そう。
藤咲さんの隣に座って箱を開けると、中には仕切りで区切られたスペースにいくつかのチョコが並べられていた。
「へぇ、ちょっと良さげなやつだ。藤咲さん、どれ食べたい?」
「じゃあ、これ」
藤咲さんは一番手前の右下のチョコを指先でつまんで持ち上げた。彼女が手に取ったのは真ん中に斜めのラインが入ったチョコで、他よりも少し色が濃いものだった。
「それビターかな。ちょっと色濃いし」
彼女は少し眺めてから一口でパクリと頬張った。
「どう?」
「おいしい。ちょっとビターだけど食べやすい」
「へぇ。じゃあ私はこっちの食べようかな」
そう言って私が選んだのは左下のチョコで、藤咲さんのとは違って色が少し薄いものを手に取った。おそらくミルクチョコだろう。私はそれを半分ほど口に含んで、齧り取った。
ミルクチョコが口の中で溶けだして、甘くておいしい。ほんのりお酒の香りもしたけれど、そこまで強くはなさそうで食べやすい。
「他のも食べてみようかな」
「うん。好きなだけ食べていいよ」
よほど気に入ったのか、藤咲さんはいろんな種類のチョコを手に取って頬張っていった。頬を膨らませてチョコを食べる姿がリスみたいだな、なんて思いながら、私は真ん中にある赤くコーティングされたチョコを半分齧った。
「あ、これもおいしい」
「ほんと? じゃあ、一口ちょーだい」
「え? これ食べかけだけど……」
「それがいい」
そう言うと藤咲さんはグイっと私の方に体を寄せて、下から見上げるようなかたちで口を開いた。
「えっと、藤咲さん……?」
「ちよださん、食べさせて?」
藤咲さんの頬は少し赤みがかって、目が潤んでいる。藤咲さんはずるい。
私は食べかけのチョコレートを 藤咲さんの口の中にゆっくりと入れる。それを舌の上に乗せると、彼女は私の指ごとパクリと食べてしまった。
「ちょっと、藤咲さん!?」
彼女の舌が私の指先を這って舐めとっていく。私は驚き慌てて指を引き抜いた。けれど、不思議と嫌な気にはならなかった。
「えへへ。ちよださんのゆびおいしー」
そこで私は藤咲さんの異変に気付いた。
「藤咲さん、もしかして酔ってる……?」
「えー? よってないれすよー」
完全に酔っている。確かにお酒の香りはしたが、そこまで強くはないと思うのだが。
私はチョコが入っていた箱の成分表記を確認する。アルコール分は二パーセントと表記されていた。
たくさん食べたと言ってもたったこれだけのアルコールで酔ってしまうなんて、一体どれだけ弱いのだろう。
「ちよだしゃんいいにおいー」
ふらふらになった藤咲さんが抱きついてきて、私はその勢いでソファに倒れこんでしまった。
「わっ、ちょっと。ふ――」
藤咲さん、やっぱり酔ってるでしょ。そう言おうとしたところで、私の口は言葉を発することができなくなった。