第三章:夜の街に、一歩
ウィッグを丁寧に整え、ゆるやかに巻いた髪を肩に垂らす。ピンクベージュのリップが唇をふわりと彩り、瞳の周りには自然なアイライン。鏡の前に座る彼女は、もう「練習中の誰か」ではなく、れっきとした「美由紀」だった。
「……外、出てみようか」
そう呟いたのは、夜の8時過ぎ。人通りの少ない時間帯を狙って、静かに家を出た。最初に向かうのは、近所のショッピングモールの一角にあるカフェ。何度も通ったことがある場所。けれど、「美由紀」としては初めてだった。
歩くたび、ヒールの低いパンプスがカツンと音を立てる。その一歩一歩に、心が高鳴る。
「誰かに見られてないかな……」
不安と緊張が襲う。けれど、すれ違う人たちは思ったほど気にしていない。スマホを見ている人、友達と笑い合っているカップル。ただの「通行人」だった。
カフェに入ると、若い女性の店員がにこやかに迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。おひとりさまですか?」
「は、はい……」
思わず声が裏返る。けれど、店員は何も気にする様子もなく、席へと案内してくれた。
「ごゆっくりどうぞ」
その一言が、胸にじんわりと染みた。
カフェラテを一口。ふわっとしたミルクの甘さに、思わず頬が緩む。
「私、本当にここにいていいんだな……」
美由紀は、その夜ひとり、小さな幸せをかみしめた。