第一章:鏡の向こうにいる誰か
てつは平凡なサラリーマンだった。朝9時に出勤し、夜にはコンビニ弁当を片手に帰宅。テレビもほとんど見ず、ネットサーフィンをしては、眠くなったら布団に入る――そんな繰り返しの日々だった。
けれど、彼には誰にも言えない「秘密」があった。
休日、ふとした瞬間に、てつは押し入れの奥にしまってある小さな箱を取り出す。その中には、ワンピース、ウィッグ、そしてほんのり甘い香りのするリップグロスが詰まっていた。
最初はただの「興味」だった。ネットで偶然見た女装メイク動画。試しにやってみたら、どこかくすぐったいような、でも心が静かに震えるような感覚があった。
鏡の前に立ったとき、そこには「てつ」ではない誰かが映っていた。目をぱっちりとさせ、リップの赤がほんのりと唇を染める。違和感はあるはずなのに、不思議と「落ち着く」自分がいた。
その日から、彼は少しずつ女装をするようになった。そして、その姿に自然と名前をつけるようになった――**「美由紀」**と。
「美しく、由き、紀」
どこか古風で、でも優しい響きのある名前。自分の中の“もうひとりの自分”に、ようやく名前を与えられたような気がした。
ある日、美由紀として初めて外に出る決意をした。もちろん、最初は夜の人通りの少ない時間帯だった。コンビニまでのわずかな距離。けれど、その小さな一歩が、彼女にとっては大きな冒険だった。
レジの店員が普通に接してくれた。それだけで、心が温かくなった。
「私は、ここにいてもいいんだ……」
そう、美由紀は少しずつ、「てつ」と「美由紀」の間の境界線を見つめ直し始める。
自分とは誰なのか。
「男」として生きることがすべてなのか。
それとも――。