後編 アダルト広告なんて存在しない
そもそも、アダルト広告とは何か?
一般的に18歳未満が閲覧できないような、過激で猥褻な内容が含まれる広告と、私は定義します。
問題はその18歳未満が閲覧できない、してはいけないの中身を、どう捉えるかです。
少なくともメディアは、様々なガイドラインを設けて、規制ぎりぎりで対応していますので、少なくとも当サイトが出しているバナー広告、今話題になっている所謂アダルト広告ですが、そんなものは一切存在しません。
だって、元々規制にならないように作られている作品なんですから、何で我々がそれを”アダルト”と呼ぶのか?
少なくとも当局は、これらをアダルトと定義していません。
だから、当サイトにはアダルト広告なるモノは、存在していません。
つまり、存在しないアダルト広告なるものを、我々は論点にしています。
実はこれには、色々と問題があります。
しかし、それはまた別に論じます。
ではその問題ではないはずの存在を問題とする際によく使う手が、ミスリード、分かりやすく言えば印象操作に他なりません。
問題ではないのに問題とするように、そう見せかけることです。
そこで出てくる単語が、”アダルト”なる言葉の力です。
アダルトではないというのに、アダルトと決めつけ、何らかの規制を掛けようとする行為は、少なくとも表現者としてはよくない考えでしょう。
例えば、機動戦士ガンダム水星の魔女と言う作品がありますが、あたかも規制当局が問題視しているかの如き意見が散見していました。
念のため調べましたが、BPOはこの水星の魔女を特に問題視していないことが分かり、私はホッとしました。
正直、あの程度の表現で規制をすべきという意見があるのは、まあ意見としてはいいでしょうが、正直そこでBPOが動くとしたら、この国もいよいよそこまで来たかと思ったからです。
内容についてはネタバレもあるのでここでは省きますが、人々は争うモノであり、戦争は無くならないという富野監督の思想が作品に反映されているので、それを残酷だというのなら、その人こそが残酷な世界を呼び込むはずです。
綺麗な世界を求める気持ちが、むしろ争いを求め、やがて全体主義運動に繋がるからです。
それでも平和主義を自称する人々は、争いは争いを見なければ争いは起きないと、そう思うのだろうか?
人がアダルト作品に接しさえしなければ、この世に性犯罪は存在しないはずだと、本気で思っているのだろうか?
そんな彼らはガザやウクライナの問題を、空想とか妄想だというのだろうか?
目をつぶれば、世界は平和なのだろうか?
そのことについては、いつか論じようと思います。
いずれにせよ、我々は法の支配を選択しないといけません。
人の支配を容認するような社会って、その時の気分とか、あるいは空気でもって合法違法を判定されるからですし、それは表現者としてはたまったものではありませんから。
それって、ネットいじめと何が違うのだろうか?
だいたい、一般の人がする児童性愛行為はダメだけど、ジャニー喜多川はオッケーだとするのだとしたら、その人の判断基準を疑うからです。
何故なら、矛盾を説明出来ないからです。
しかし、人はそれでも決めつけをしますし、したがります。
説明出来ないから、議論出来ないから、論点をぼやかしたいから。
自分の思い通りにしたいから。
だから説明ではなく、一方的な決めつけをします。
ジャニーズ性加害問題では、その一方的な決め付けによって被害者を追い詰め、ついに自殺者を出しました。
ジャニーズ性加害問題の被害者は、死ぬべきであると一部のファンかあるいはそれに類する人々が判断したからです。
それが彼らの判決であり、ジャニー喜多川は無罪であると。
そんな馬鹿なことはあるのかと思いますが、海外でこの問題が報じされるまで、むしろあざ笑っていました。
被害者をです。
しかもこの問題を取り上げる野党を、小馬鹿にするぐらいにです。
つまり、それが法による裁きではなく、人による支配、権威主義に外ならないからです。
誰も裁けないなら、俺が裁いてやると。
被害者さえいなければ、事件なんて存在しないと。
馬鹿馬鹿しい。
加害者が居なければと、どうしてならないのか?
自粛警察のように、あるいは津久井やまゆり園事件のあの殺人鬼のように、法を越えた存在にでもなったつもりなのだろうか?
そんな独りよがりの正義を、あなたは容認するのか?
容認しなくても、それが現実だから受け入れろとでもいうのだろうか?
異世界ファンタジーでは、そんな過酷な世界に見切りをつけ、異世界でチート能力を発揮します。
転生したその社会にも理不尽がありますが、異世界転生者は悪を許さず、正義を為します。
では、その正義とは一体何か?
気分であっては、ならないと思います。
もしただの気分だったら、異世界ファンタジーというジャンルの作品が、こんなにも盛り上がらないはずです。
人々が求めていることが、悪であるはずはありません。
清教徒みたいな人しか居ない、そんな世界を求めているはずはないと思います。
例えば、美少女戦士セーラームーンだって、原作者も当初はおっかなびっくりで連載を始めたそうです。
よく考えたら、セーラー戦士たちのあのコスチュームは、一般に言う露出が多く、当時としては驚くほどスカート丈が短く、やかましい人から見たらたちまちクレームが来そうだからです。
恐らくですがクレームは来たはずですが、それ以上に評価する声の方が批判の声を圧倒したので、あの作品は長く愛されました。
逆に言えば、一つ間違えたら規制対象になったかもしれません。
あの時代、クレームが元で打ち切られたアニメ作品は、結構ありました。
やれ胸がはだけた、やれ下着が見えたと。
当時は今と違って、アニメを深夜に放送するなんてありえなかった、そんな時代でしたから。
だから、当時の親御さん達の目にも映ったのでしょう。
青少年に、悪影響を及ぼすと。
あのエヴァンゲリオンだって、当時の放送時間は深夜どころか夜ですらなく、夕方に放送していましたから。
しかし、徐々に大人向けアニメは深夜に放送時間を移しましたが、機動戦士ガンダム水星の魔女のように本来放送していた夕方の時間帯に、大人向けのアニメ作品が放送されるようになりました。
いや、むしろ子供にこそ、見て欲しい作品でしょう。
戦争は過去のものではなく、今はただ、ぎりぎり平和を維持しているだけの状態なんですから。
その一方で、怪しからんと思う人も居るので、我々はしっかりと反論しないといけません。
掛かっているのは、この国の表現の自由なんですから。
そして社会が危なくなる時、まず表現の自由を規制しようとしてきます。
それも権力からではなく、市民の側からです。
一部の表現者も、それに加担します。
自分達が何をしているのか、どのような結果をもたらすのか、よく分からないままにです。
だからこそ、判断の基準を好き、嫌いではなく、正当かどうかでしょう。
そして権力は、規制できるところ、あるいは反論しにくい場所から我々の権利に浸食していきます。
これはいい悪いではなく、権力とはそういうモノだからです。
だからこそ、存在しないモノを怪しからんというのは、やめるべきでしょう。
それって、ただのいじめに過ぎませんから。
法なきところに罪は無く、罪なきところに罰は無しなんですから。
我々は表現者であると、自覚しましょう。
行政による規制ではなく、自主規制をするように仕向ける。
これが権力のやり方であり、我々はついそれに乗ってしまいます。
過激な表現、行き過ぎた猥褻物等々、どこまでが芸術で、どこからが猥褻物か、判断が難しいからです。
東京国際映画祭でも、出品されたある映画にぼかしを入れたところ、制作サイドから猛抗議が来たことにより一部の規制がなんとなくですが、緩和されました。
ヘアヌードの解禁です。
これはある意味で情けない話しで、我々はヘアヌードの規制を当然と見なしていました。
しかし、何でダメなのか、どうして規制をしないといけないのか、実はよく分かっていません。
犯罪者が閲覧した作品がクローズアップされ、すぐに規制だ、発禁だと騒ぐ人も居ますが、しかし彼らは説明出来ません。
その問題とした作品を閲覧した人が犯罪を犯すのなら、もっと犯罪者が居てもおかしくないからです。
日本よりも性に関して規制の厳しい国では、性犯罪は皆無だとでも言うのだろうか?
少なくとも今の日本は、少しづつ規制を厳しくしています。
まるで、戦前のようにです。
それがただの杞憂にすぎないことを願い、私はこの作品を記しました。
息苦しい感じが、ただの思い込みであることを願って。