前編 表現の自由について考える
ジャーニーズ性加害問題と同様に、この問題に絡む色々な投稿作品を拝見しました。
それを見る限り、私はむしろ危惧を覚えたので、私見を披露しようと思います。
まず、私の立場としては、アダルト広告の規制には概ね賛成ですが、皆様の意見には真っ向から反対します。
というより、反対すべきでしょう。
我々はSNSユーザーではなく、表現者として、あるいはその表現者が描く作品を見る為にこのサイトのユーザーになっています。
これが、原理原則です。
だからこそ、表現の自由に対して、何らかの規制を求めることはむしろ自分たちの首を絞めることに繋がります。
実際、戦前ではその表現者達が当局からの弾圧を受け、命を落とした事例もありました。
今では考えられないような事態ですが、いくら戦前であっても、こんな表現の自由を侵すことはあまり出来ませんでした。
せいぜいが、発禁本処分ぐらいでしょう。
しかし、当時の世相からか、国民からの非難とか危惧する声もあり、当時の世界情勢とリンクするように、日本も左派系メディアや左派と目された前衛芸術が弾圧されました。
中には言いがかりとか巻き込まれたとか、理解出来ないものは叩き潰せとなります。
まことちゃん御殿騒動は、ご存知でしょうか?
まことちゃんの作者が家を建てようとして、建築の差し止め運動が起きました。
その代表者が、テレビで堂々と話していました。
あの男が、窓からこっちを見ていると想像すると、身の毛がよだつといった感じでした。
当時その報道に接した私は、何言ってんだこのおばさんはと思いましたが、訴えがあった以上裁判所も審理しましたが、裁判所は訴えを棄却しました。
当然の結果ですが、しかしこういった人も一定数存在し、ある特定の人間の人権を制限しようと試みます。
では、どうしてそのように、裁判に訴えるまで暴走したのか?
それこそ、彼らが作者が発表した作品を見て、この人は悪であると判定したからでしょう。
怪しからん存在であるゆえに、自分たちの近くに居るべきではないと。
それが戦前になると、もう訳の分からないモノは気色悪いから、殺すべきだと飛躍していきます。
女子の当時の流行の髪形すらも、非難の対象になったぐらいです。
女子の髪形が変化したことが、亡国の兆しであると。
正直、女子の髪形云々を言っているから、先の大戦ではあんなに無様に負けたんだと言いたい。
女子の髪型ひとつで戦争に勝てると、本気で思っていたのだろうか?
しかし、それが当時の気分であり、それは今も変わらないでしょう。
それが暴走して起きた事件が、風流無譚事件と考えます。
詳細は省きますが、当時流行っていたエロ、グロ、ナンセンス作品の一種ですが、その内容が皇室批判を思わせました。
実際は、左派批判もあるので、世相批判という内容でした。
しかし、この作品が掲載されると批判が殺到し、ついに人死にが出てしまいました。
もっとも、当時の右翼の主だった人々は、この事件に対して遺憾の意を表明し、この殺人事件の犯人を擁護する者は、右翼では少数でしたけど。
しかし、風流無譚の作者は、謝罪に追い込まれました。
まるで、文化大革命で自己批判させられた、文学者のようにです。
いずれにせよ、表現の自由は何かあれば規制を掛けようとするものであり、例えば、進撃の巨人もそうでした。
自民党のクールジャパン推進部会で、専門家が一押しした作品が、進撃の巨人でした。
これは、実にいいチョイスをしたなと、私はその専門家を評価しました。
あの、”心臓を捧げよ!なんてフレーズは、保守のおじさんには受けるだろうと思ったからです。
しかし、実際は逆でした。
内容が、残酷であると。
少年兵批判、残酷な描写批判、果ては女型の巨人が裸だったので、猥褻である、怪しからんとなったのです。
そしてついに、!おい!責任者を呼べ!”となりました。
つまり、彼らから見ると、進撃の巨人は青少年に悪影響を及ぼすような作品であり、規制対象にすべき作品だったのです。
だけど、クールジャパン推進部会の世話役の一人が、ぽつりとつぶやきました。
「これって、安倍総理の肝いりなんですけどねえ。安倍総理に、なんて報告しますかねえ」と。
その世話役の一人は内心では、黙れおっさん共と思ったそうですが、それだと火に油を注ぐのでそこは黙っていたそうです。
しかし、これが自民党のいわゆる、マンガ通の見解でした。
これと同様に、表現者と規制当局は長年様々な形で対立してきましたが、実際は表現者VS規制当局ではなく、表現者VS清教徒的な市民になります。
規制当局はこういった作品をいちいち閲覧しているはずもなく、だいたいそんな暇もありません。
だって、当時流行していた進撃の巨人を知らなかったんですから。
マンガを忌避しているおじさんではなく、マンガ通を自称しているオジサン達がです。
そしてそれを見るや、怪しからんと怒号を飛ばす始末でした。
理解出来ないものを、許せないモノと見なして弾圧するのは、人としての性でもあります。
だからこそ、表現の自由は気に入らなくても守らなくてはならず、大事な事は批判精神です。
そこに必要なのは排除の論理ではなく、論理を前提とした議論であり、そこに一切の感情を入れてはいけません。
しかし、人々の感情もまた、勘定に入れて考えないといけません。
そこが難しいところであり、それゆえに表現者も気を付けています。
これが行き過ぎて起きるのが、過剰な自主規制問題となります。
安倍政権下でもこのことが問題視されましたが、安倍首相(当時)は国会で、スポーツ新聞を読んでくださいと批判者に対して反論しました。
スポーツ新聞では、私(安倍首相のこと)のことをぼろくそ書いていますが、放置されているではないですかと。
実際、その通りです。正直、書きすぎではと思うぐらいでした。
その一方で、自主規制問題とか忖度問題もあり、その意味で権力の側は注意しないといけません。
忖度するということは、規制当局に暴走する口実を与えてしまうからです。
暴走するか自主規制するか、つくづくこの国のあり方は極端だと思いました。
これはジャーニーズ性加害問題と同じで、メディアが自主規制してしまうことで問題をより深刻にしてしまいます。
どうしてそうなるかと言えば、この国には基準となる人権が無いからです。
その人権の根幹をなす、思想そのものが我が国には無いゆえに、基準を明確に出来ません。
いじめだって、多数派がやれば学校は容認してくれるどころか、加害者を庇ってさえくれます。
加害者にだって、未来はあるんだと。
では、被害者の未来はどうなると問いたいところですが、少数者である被害者の未来など無いも同然なんでしょう。
だって、加害者の人権云々の前に、被害者の人権はどうしたと聞きたいところですが、そもそもこの国にはそんなものはありませんから。
この国には人権が無いからこそ、児童虐待も放置され、性加害問題のように児童性愛も放置され、果ては近親相姦も児童が性交を拒まなければ同意と見なすという、とんでもない判断が下されます。
性交同意年齢は16歳引き上げられましたが、それまで少なくとも行政は、13歳から性交に関して同意出来るかどうか、判断出来るとしていました。
だから、性交を拒まなければ同意と見なされたのです。
つまり、アダルト広告の閲覧可能年齢は、この法令を元にすれば13歳以上となりますし、改正後は16歳以上となります。
だって、判断出来る能力があると、法令では規定しているんですから。
しかし行政は、青少年健全育成条例とか淫行条例を盾に、これ以上の引き上げは必要無いと判断しています。
つまり、成人年齢である18歳に合わせる気が無いようです。
それがこの国の、現実であり、国民が半ば容認していることになります。
この国には真の意味で表現の自由が無いからこそ、判断基準は力関係になります。
それをヨシとするのかどうか?
それを問われていると思い、筆を執った次第です。