僕らは今日も聞きつぶす
スキマ時間に楽しめる純文学。
「変化」とは何か
そこに焦点を当てた短編私小説となります。
ラムネを振った後みたいな空の日の話をしようか。
私たちは、6月の機嫌の悪い女性の様な雨模様に来る日も振り回される。彼氏みたいに。
その日は朝から機嫌が悪かった様で、天日干し過激派の母親がコーヒーを飲みながらブツブツ言っていた。私の母は、湿気で髪がボサつくことよりも、買ったばかりのTシャツが生乾き臭くなることの方が嫌いな人だ。一度も聞いたことはないが、潔癖症なんだろうと思わざるを得ない。最近はそれが私にも感染しつつある。
暑がりな私は半袖に腕を通し、ニュース番組の無責任な占いに辟易しながらトーストを噛じる。母は「明日給料日じゃん。」と言いながら、仕事に赴く準備をせかせか始める。機嫌が戻られたようで大変良かったです。
学校に着くと、一層今日がイレギュラーなんだと分かる。
森に囲われる私の中学校からは、普段海と橋が見える。それが今日は霧に包まれ、寂しさを感じずにはいられない。高台にあるというメリットはもはや“霧平線”に消える。だが、老人殺しの坂を登るため、お陰で私はすこぶる健康なのだ。
空調の効いた席で、一杯500円のエスプレッソ片手に文学たれる5年後の著者とは大違いである。
廊下は幼い夜と見間違えるほど闇が漂い、“いつも”をサングラスで透かして見たようで、私はこれが嫌いじゃない。階段を上がると見える教室は、夜道にポツンと咲く屋台みたいに私を引き寄せる。
教室の中はいつも通りで、所々でゲームやら受験の不安やらを語るクラスメイトが並ぶ。昔の人は凄いもので、効果音としてのクラスメイトの会話は本当に「がやがや」と聞こえる。適当に鞄を置いた私も会話に交じり、それまで外にいた“かや”の中へと入り“がや”の一部となる。
一時間目は国語であった。国民であり学生である私たちは、こうやって日々母国語に対して理解を深める。しかし、そこは中学生。しっかりと身に着けようと躍起になる者は、残念ながら少ない。例に漏れず私もそちら側で、黒板の端を意味もなく眺め、何でもない時間を過ごす。
授業の内容がもう分からなくなった頃、ふと窓の外に目をやると、雲の層が薄くなっていることに気付いた。何かが起こりそうな感覚を胸に、今か今かと息をひそめる。
ハッ。堰を切って驚いた。
埃の塊のような雲海の切れ込みから、眩い光のカーテンがサーッと流れ始める。夜の真似事みたいな世界を、綺麗なタオルで拭き取っているようだ。授業は淡々と進んでいるのに、窓の外は別世界になっていくのが何だか面白くなって、フッと声を漏らす。
今日は本当に今日だったのか。私がさっきまで見ていた今日が美しい今日に塗り替えられていく様子は、本当に美しいものだった。
やっと授業が終わる頃、“霧平線”は消えていた。
私は、「理科」の時間が好きだ。それも、直前の10分休憩のうち9分を理科室で過ごすほどに好きなのだが、それはここの理科の担当教員によるものだ。170㎝くらいのスラッとした体型に、腕を組みながらトレードマークともいえる顎ひげを二本の指で撫でる仕草。20代後半の男性で、自虐的なジョークが凄く面白い。そんな先生と授業の前後にする、ちょこっと二人だけの時間。話す内容はもっぱら、あの分野の新技術がどうとか、あれにあれしたらどうとかである。先生はいつでも笑顔で、私の取り留めのない会話に付き合ってくれる。
この日から9ヶ月後の卒業式では、餞別だと難しい数学の理論の本を譲ってくれた。
今でも私の中で最高の教師の1人だ。
だが今日は理科室に近づくにつれて、とある音楽が聞こえてきた。最近流行りの、色んなとこで聞く曲。話題の覆面歌手の爽やかな曲調に、先生はドラムに合わせて体でリズムを踏む。
先生の隣のモニターではその曲のMVの動画が流れている。
「これ、最近流行っている曲だ。良い曲ですよね。」
流行りに疎い私でも、この曲に凄まじい人気があることぐらいは知っている。
「そうだねぇ。ボーカルがいいんだよね。」
確かに、この曲はボーカルの女性の声が非常に美しい。“夏”をテーマにした青春っぽい爽やかな曲。「写真なんて紙切れ」「思い出なんてただの塵」なんてネガティブな歌詞が気にならなくなるほどこの曲は素晴らしい。何だか、走り出したくなる気分だ。そして、こういう曲は漏れなく、病みつきになって仕方なくなる。それは先生も同じだそうで、最近はこの曲ばかり聞いてしまうそうだ。
不思議なMVの映像にワクワクしていると、先生が口を開く。
「僕らはこうして、また一曲ずつ聞きつぶしていくんでしょうね。」
ん?聞き“つぶす”?どうしてそんな表現をするのだろう。聞き“慣れる”とかならまだわかるのだが、なぜ“つぶす”なんて言ったのか。
つぶす・・・。立体物に力を加え、厚み・高さを除き平たくし、本来の形を崩すこと。押しつぶすこと。
この曲の本来の感動を、聞くたびに“潰す”ということなのか。
国語の授業を聞いていない私には知る由もない。
先生、そんな寂しい表現をしないでよ。
理科室の窓から斜めって掛かる光のカーテンは、私の制服のズボンの端を白く照らす。
高く蒼を泳ぐ雲は、次の誰かの空を彩るために山を跨ぐ。
徐々に騒がしくなる理科室みたいに
端だけ温まっていくズボンみたいに
灰から蒼へと色を変える空みたいに
世界は毎秒ずつ時を刻むのに、私だけが先生の言葉の錨に時の流れを止められていた。
空気を読めないチャイムの音に無理矢理に現実の海に引き戻され、また何回目かの理科の授業が始まる。こうして私はまた、待ち望んだ何かを享受する。
校庭に咲いていた水の花びらは、とうに枯れた。
「やっと分かった」
誰もいない部屋の白いテーブルでポツリ。
聞き“つぶす”。これには、続きがあるのだと気付く。
レモンの果汁が唐揚げと混じるように
失恋時に失恋ソングに心を傷めるように
万物は潰れるにのち、“染み込む”のである。
曲を聞きつぶし、それを己の人生に染み込ませるまでが、音楽の楽しみなのだろうと
大衆に配られた旋律をどんな背景で飾るのかは、自分自身の愉しみであると
かつての恩師はきっとこんな風に考えていたのだろう。
だがこれも、幾千回と反芻した言葉を
言い“つぶし”、
考え“つぶし”、
納得し“つぶし”た結果に過ぎない。
結局の所、真意なんてのは彼のみぞ知る、といったところである。
では、この2600余りの文字たちの表す姿とは何か。
理解できるまで読み“つぶす”といいさ
邪推はしなくていい
なぜならこれは
君の想い出を噛み締めてるだけ
Instagramより、本作の解説予定です。