名前だけの花嫁
「ティナ、今日も美しいね」
バルコニーから外を見下ろしていると、後ろからヨルの声がした。
いつも通りの褒め言葉、歯が浮くような言葉選び。ご機嫌取りの常套句。
私は小馬鹿にするように笑い声をもらし、ヨルを睨むために振り返った。
銀色の髪を後ろで束ね、切長の瞳に微笑を含めたこの国の王子は、私の夫である。
「ありがとう。あなたこそ、相変わらず腹の立つ顔をしているわ」
「相変わらず私のお姫様は口が悪い」
困ったように、それでも余裕綽々という表情で私の髪に触れるヨル。その手を払いのけ小さく舌打ちをした。
「さっさと死んでちょうだい」
「この国の王に真っ向から舌打ちする女の子なんて、地球上探してもティナだけだよ」
「あなたの耳がいいだけよ、そのうちその耳をもいで差し上げるわ」
「冗談に聞こえないね」
「冗談を言ったつもりないもの」
「君なら出来るだろうね」
「ええ、そのうちね」
「昔のティナはこんなんじゃなかったのに」
わざとらしく感傷的な表情をするヨルに、私は呆れるしかない。
「私をこうしたのはあなたよ。裏切り者のヨル」
「あの時の私はまさかこんなことになるなんて思わなかったんだ」
「知らないわ。耳障りなのよあなたの声」
ヨルの声は私を過去に引き戻す。
幸せだった幼い頃の私。
平民として家族仲良く、地下室で過ごしていたあの時を。
私の人生において最も幸せで、そして一瞬だった。
この黒髪の意味も知らず、ヨルを王族だとも知らなかった、無知で馬鹿で愛おしい幼き私。
目を閉じ苛立ちを抑え、ヨルを押し除けて部屋に戻る。
殺せるなら自分を殺したい。
この黒髪の色が褪せるまで、この不幸せな日々を生きることしか許されない自分を。
死ねないのならせめて、永遠の眠りにつかせてほしい。