異世界心霊奇譚 第八話 ゴブリンの首塚 2
「トレンシー。だからわたしが今、ここにいる!」
もう一歩だけすり足で前に進みでる。
すでに部屋の中央付近にせまっている。
ここでなにものかに襲われたら、ドアから外へ飛びだしても、無傷ではいられないかもしれない。
てのひらにどっと汗が吹きだすのがわかる。手にかけていた剣の柄を、もう一度にぎりなおす。
「どうして……今ごろ……」
「それは……」
わたしは言い繕おうとしたが、ただならない気配を感じてことばが続かなかった。
だれかがわたしを見ている——
額から汗がふきだす。
唾を飲みこもうとしたけど、うまく飲みこめない。
ここには生きている者はいないはずだ——
が、部屋の壁にそれはいた。
右側の壁、天井付近のやや高い場所から、ひとの頭の先がつきだしていた。
目のすぐ下あたりまでがこちら側に覗いている。まるで頭半分が、壁に貼り付いているようにもみえる。
髪の毛がない青い肌の顔——
ゴブリンがじっとこちらを見つめていた。
だが、すぐにそれが間違いだと、わたしは気づいた。
そのゴブリンには目がなかった——
ただ虚空になった真っ黒な眼窩を、こちらにむけているだけだった。
「ゴブリンが……わたしを……逃がさない……の……」
トレンシーがぼそりと言った。
ざわっと髪の毛が逆立つのを感じた。
逃げろ——
だが、わたしは動かなかった。
それは冒険者としての矜持——
なにより、ここで退いてしまうようなら、この先、シーラン・ミケネーを探すなどおこがましい、という自分への叱咤があった。
剣をゆっくりと引き抜いた。
あれは斬れるのか? 剣ごときでなんとかできるものなのか?
わたしは剣に魔力を吹き込んだ。防御・治療・攻撃・もろもろ……
どれが有効かわからなかったので、とりあえずありったけの魔力を剣に封じ込めた。
足元になにか気配があった。
床から目のない目が、こちらをじっと見つめていた。壁のヤツとはちがう個体——
わたしはびくりとして、はねるようにしてうしろに飛び退いた。
そのうしろ足が、なにかやわらかいものを踏んづけた。
見なくてもわかった——
どくんと大きな鼓動。
大量の血がドッとわたしのからだのなかを駆け巡る。
ぞわっと総毛だつとどうじに、ひやりとしたものが体表をおおいつくす。
逃げろ!
逃げろ——!!
逃げろ————————!!!!
本能が狂ったように、本気の警告を送り込んでくる。
わたしはくちびるをぐっと噛みしめて、そいつを飲みこんだ。そいつは胃の中に落ち込んで、わたしの臓腑は鉛でも飲みこんだように、ずしりと重たくなる。
壁一面に目のない頭があった。
四方の壁はいつのまにか、半分突きでた頭でびっしりとおおわれていた。
天井からは首が、垂れ下がっていた。
まるで天井いっぱいに、人間の頭大の『実』でもなっているかのように、たわわにぶらさがっていた。
そして床からも——
床からはゆっくりとゴブリンの頭が、せり上がってきはじめていた。
目の下部分から鼻が見え、顎がみえはじめ、首があらわになった。そして肩が見えそうなところで止まった。
それはまるで床から、ゴブリンの頭が生えているようだった。
壁一面を、天井一面を、そして床一面を埋め尽くす、ゴブリンの頭——
目玉のない眼窩は、もれなくわたしにむけられていた。
ゴブリンの首塚……
なぜ、そう呼ばれているのか、今ようやくわかった。
「ゴブリンが……なにをしたと思う……」
トレンシーが呻くように言った。
苦しそうな声だった。それははかなげで、哀しみが入り交じった苦しさだった——
わたしはその声色を聞いて、落ち着きをとりもどした。
このゴブリンは怖くも何ともない——
無残な姿で、うらめしげな目で、わたしを見つめているだけだ。
ふと、いままで耳にしたいわゆる『怖い話』は、本当はちっとも怖くないことにわたしは気づいた。
そう——
幽霊はわたしの命を奪わない。ただ怖い思いをさせるだけだ。
だが、生きているゴブリンはちがう。
やつらはわたしの命を奪う——
この世界において、本当に怖いのはどっちか、ということだ。
「村できいたよ」
わたしは剣を鞘におさめながら、トレンシーにしずかな口調で言った。
ゴブリンの頭を踏まないよう、慎重に足先でまさぐりながら、ゆっくりとトレンシーのほうへむかう。
「きみは村の生け贄として、ゴブリンに捧げられたって聞いた」
「だったら、ゴブリンどもがなにをしたかわかるでしょ?」




