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第八章.農民と王様

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89.最後の晩餐

 こうして、王はヘンリーという仮名でこの辺境で暮らすこととなった。


 ロベルトの方は家を壊されてしまったらしく、村には帰れないと言うのでダニエルの宿にしばらく身を寄せることにしたらしい。


 王はしばしば辺境をうろついて山菜を取ったり牛から乳をもらったりしていたが、そのやせ細ったつるつるの頭の親父を見て、イルザですらさすがにそれが王であることに気がつかなかったようで──


「ねえディアナ。最近あなたの山小屋に泊まっている人、あれ誰なの?」


 ディアナは冷や汗をかいたが、咄嗟に事前に考えた設定を述べ立てる。


「あれはね、市街地から逃げて来たヘンリーっていう人なの。猟をしたいので泊めて欲しいんですって。今はあの山小屋も利用する人がいないし、貸してもいいかなって……」

「そうなの?でも素性の分からない人をほいほい泊めては駄目よ」

「う、うーん。でも、戦争で住まいを失う苦しみは、私にも分かるから……」

「そうなのね!ディアナったら優しい子ねぇ」


 ディアナは笑って誤魔化しながら、最近とみに胎動を増やして来た腹を撫でる。


 つわりは治まったとは言え、出産の前に大きな出来事が起こったら、果たして咄嗟に動けるものなのだろうか。


 大きくなる腹と比例するように、不安も増大して行く。夫の前でああ言ってしまった手前、後に引けないことは分かっているけれど。


「ところでディアナ、出産予定日はいつ?」

「夏ごろになりそうよ」

「いいわね……はー、私も早く妊娠しないかしら……」

「こればっかりは……色々あるから、ね」

「そうみたいね。出来るところにはぽんぽん出来るのに、出来ないところにはほんと来ないのよ」


 姉は姉で、色々な悩みがありそうだ。


 生きるというのはとても素晴らしいことだが、苦悩が常について回る。


 手編みのひざ掛けが完成したのでそれを腹にかけ、ディアナはふうとため息をついた。


 心配事をすると、腹が痛くなる。すると胎動も静かになる。何とも言えない緊迫感が、常にディアナの腹には漂っていた。


 姉が持ち込んだ新聞を眺める。


 ラトギプは混迷を極めているらしい。第三国が介入するかどうかという話にまでなっている。


 王が不在のために。


(陛下はいつまでここで暮らすおつもりなのかしら)


 ディアナが窓の外を見た、その時だった。


 遠くから、人を乗せた大勢の馬がこちらにやって来たのだ。ディアナは口をおさえ、どきどきと胸を鳴らす。


「あら?あれは何かしら」


 イルザも異変に気づいたらしい。と、玄関がバタンと開いて、裏山に出掛けていたはずのレオンとゲオルグが雪崩れ込んで来た。


「おい、あれは何だ!」


 ゲオルグに問われ、ディアナは震え出す。ついにこの時が来てしまった。


 ディアナは慎重に馬に乗った人々を眺める。


 どうも彼らは兵士ではないらしい。武器のようなものを持っている人もいるが、ほとんどが丸腰の一般人だ。


「……民兵か?」


 同じことを思ったらしいゲオルグが呟いた。


「ここにいては危険だ」


 レオンがそう言って、ディアナの手を取った。


「みんな、馬に乗って逃げるんだ!」

「……どうしたレオン。なぜそんなに怯えている」

「なぜって……ここに、身重の妻がいるんだぞ!」

「気持ちは分かるが……この辺境は両側を山に囲まれている。逃げ場はない」


 冷静にゲオルグはそう言った。


「きっと略奪だろう。今出て行くと恐らく銃で撃たれる。略奪に夢中になっている隙に逃げるのが得策だ。略奪が始まったら、俺は山へ行く」

「そうか……山……」

「お前らも行くぞ。俺たち兄弟はあの山に精通しているから、大丈夫だ」


 ディアナはしかし、別のことに気を取られていた。


 馬に乗った人々の群れ。


 皆等しくやせ細っている──


 ディアナがかつて見た略奪は、明らかに威勢のいい屈強な連中が行っていた。あんなに骨と皮だけの痩せさらばえた人間たちに、そんな元気があるとは到底思えなかったのだ。


「イルザ」


 急に妹に声をかけられ、イルザはびくついて顔を上げた。


「ちょっと、ジャガイモをありったけ茹でて貰っていいかしら?」


 その場にいた全員が息を呑んだ。


「?ディアナ、一体何言って……」

「あの人たち、お腹を空かせているの。食事を与えれば、追い返せるかもしれない」


 ゲオルグが鼻で笑う。


「馬鹿を言うな。そんな甘いもんじゃない。あいつらは略奪をしに来ているんだぞ?」


 ディアナは言い返す。


「ゲオルグ。あなた、略奪されたことがあるの?私はあるわ。だから、彼らは略奪者ではないって分かるの」


 ゲオルグは気圧されて黙った。ディアナはおもむろに立ち上がると、鍋をごとんと用意した。


「おい、ディアナ……」

「レオン、貯蔵庫から猪肉の塩漬けを出して」


 言いながらディアナは鍋に油を落とし、小麦粉を炒め始めた。


 牛乳と混ぜ、とろみがつくまで炒める。とてもいい香りが漂って来たところで、イルザがようやく重い腰を上げた。


「そうね、ディアナの言う通りだわ……美味しいものでも食べましょう。お腹が空いているから、あちらさんも気が立つのかもしれないし」


 男たちはぽかんと口を開け、ハインツ商会の令嬢姉妹を眺める。


 部屋の中に幸せな香りの蒸気が立ち込め、煙突からふわふわと昼餉の気配が漂う。


 ダニエルが転がり込んで来た。


「おい!レオン、略奪者がここまで来てるぞ!」

「あら、ちょうどよかったダニエル。あなたの宿にあるワインをありったけここに持って来てくれないかしら」

「はあ!?」

「お願い。そのワインがきっと私達の命を救うの」

「ど、どういう論理だそりゃ……」

「いいから言う通りにして。パーティの準備よ」


 レオンはふらりとその場に腰を抜かした。


「ディアナ……ついに、気が狂ったのか!」

「何を言ってるの?ちょっとレオンも働いてよ!猪のお肉まだ?」

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