87.あンのクソジジィ
一方その頃。
女たちはディアナの家で暖炉に火をくべ、ゆったりと編み物に精を出していた。
そこに、新聞を手にしたイルザがやって来る。
「大変よ!ヴェンデルスの王が行方不明ですって!」
ソフィアは怪訝な顔をし、ラウラは声に気づかず、ディアナは椅子から飛び上がるほど驚いた。
「あら、そんなことがあるのかしら」
手を休めずソフィアが言う。
「誘拐されたのかしら?それとも逃亡?まさか、暗殺……」
「王が逃亡して何が解決するって言うのよ。きっと誘拐だわ。何でも、今ラトギプでは国王派と教皇派、更に民衆も加わって、兵隊同士で争ってるらしいじゃないの。王を誘拐して現場を攪乱しようとする層がいるのよ」
「あら、じゃあアイゼンシュタットの犯行ってことも」
「可能性としてはあるのかしらね?ディアナ」
水を向けられ、ディアナはうろたえた。
「あい……?はひっ」
「どうしたのディアナ。具合が悪いの?」
「……いっ、いいえ」
ディアナは棒針に目を落とす。
多分、姉の推理は外れている──
あの愚鈍な王はきっと、ただ単純に、何の考えもなしに、自分の身の安全だけを考えて田舎へ逃げたに違いないのだ。
ロベルトが困り果てていたのも、そういうわけなのだろう。
あの王はこれからどうするつもりなのだろうか。新聞にまで書かれたということは、見つかるのは時間の問題だ。王宮周辺があそこまで混迷を極めると、帰るのも難しい。
しかし帰らねば、敗走とみなされ自動的にヴェンデルスは敗戦。
「困りましたねぇ」
ソフィアが言う。
「どっちに転んでも、ヴェンデルスの負け確定ですわね」
イルザが苛立たし気に応えた。
「それは前から分かっていることだわ。問題は、負け方よ。負け方によって、民衆がどのように助かるかが決まるわ。降伏宣言をちゃんと出していただかないと、戦乱は終わらず混乱が尾を引くわ。陛下にはさっさと王宮に帰って欲しいものね」
「でもイルザさん。王宮にいたらいたで、誰かに殺されるかもしれませんのよ。今は逃げるのも、案外そう悪くない選択かもしれません。みんなが落ち着いたら──」
「どうやって三つ巴の荒くれたちを落ち着かせられるって言うのよ!ああ、やきもきするわ……」
一番王のことでやきもきしているのは、ディアナかもしれない。
ロベルトに匿われ、落ち着くのを待っていては、いつまで戦乱が長引くか分からない。
街の住民は飢えていると聞く。
このまま放置していたら、大規模な内乱にも発展しかねない。
内乱が発生したら──
ディアナは腹をさする。
(この子は、産まれた時から辛い情勢にさらされるかもしれない……)
まだ、いまいち反応のないディアナの腹の中。
けれど確実に腹は膨れ、今までの服は入らなくなって来ている。たまに腹がぽこっと張るし、いるのは間違いなさそうだ。
「内乱が始まったら私、ここにはいられないわ」
ソフィアが大きなお腹をさすりながら言う。
「動ける内に、逃げた方がいいかしら……」
ディアナはどきりと顔を上げた。イルザが嬉々として応える。
「そうねぇ、ことによってはそれがいいわ。アイゼンシュタットなら、まだ食糧難ではないらしいし」
ディアナの頭の中が、ぐらぐらと煮えて来る。
「そうだわ。ディアナも一緒にアイゼンシュタットに逃げればいいわよ」
ディアナはがたん、と椅子から立ち上がった。
「……ディアナ?」
戸惑う姉に、ディアナは言う。
「私、この土地を見知らぬ誰かに蹂躙されたくない」
家の中は水を打ったように静かになった。
「逃げたら、畑が荒れ果ててしまう。せっかく私たち、ここまで頑張ったのに──」
イルザは表情を曇らせた。豊かな生活をしていた彼女には、想像もつかないことだったらしい。
「……そうよね。牛も畑も、放置したら死んでしまうものね」
「ディアナさんは頑張ったもの。ここまでにするのに、どれだけの苦労があったかって思うわ」
慰められると同時に、ディアナはぶるぶると震え出した。
「あンのクソジジィ……」
「……ディアナ?」
「何でもないわ……私、ちょっと休むわね」
ディアナは作りかけのひざかけを置くと、二階の寝室へと上がって行った。腹を立てると、頭がくらくらする。
ベッドに横になっていると
「ただいまー」
レオンが帰って来た。狩猟は終わったのであろうか。
「あら、レオン。ディアナなら二階……」
「また具合が悪いんだな?ちょっと行って来る」
夫のいつもの足音。ディアナは布団から顔を出した。
「おーい、ディアナ……ああなんだ、起きてたのか」
レオンがベッドに近づいて来ると、ディアナはぐっと彼の腕を引き寄せた。
「何だ?」
「レオン、新聞見た?」
「うち、新聞なんか取ってないだろ」
「ついにバレたわ。ヘンドリック四世の逃亡が」
レオンは目を丸くしてから、声を潜める。
「村長の家はバレてないのか?」
「それはまだみたい。でも時間の問題だわ」
「この国はどうなるのかな……」
「さっきそれを姉たちと話していたの。内乱状態にでも陥ったら、私たちこの土地を追われるかも……」
レオンは真面目な顔で言う。
「もう、最悪それでも構わない。子どもとディアナが助かれば」
「でも、牛も馬も鶏も……畑だって、ようやく大きくしたのに」
「あんまりそういうことを考えるなよ。いざという時、身動きが取れなくなる」
ディアナはしょぼくれた。それを眺め、レオンが言う。
「分かるよ。ここはディアナが作り上げた理想郷なんだ。腐っていた俺を引っ張って、アイデアでどうにか金を稼いで、物凄く頑張って作ったんだ。けど、そういうのをぶち壊すのが戦争なんだよ、悲しいけど」
「……ヘンドリック四世を説得出来ないかしら」
レオンは固まった。
「……ディアナ?」
「私、あの臆病者の王なんかのために自分の理想郷を手放したくないわ」
「おい」
「どうにか城に押し込むいい方法はないかしら」
「今回ばかりは言わせてもらうぞ。余計なことはするな、本当にやめろ!」
レオンはディアナを抱きすくめる。ディアナは首を横に振った。
「私、王に直談判するわ。城に帰れって」
「おい、母親の自覚を持てよ。今まではそれでもよかったけど、もう駄目なんだよ。ディアナのその衝動は、未来の子どもを危険に晒す」
「私の子どもだから、きっと分かってくれるはず──」
「寝言はよせ!ディアナの子どもは俺の子どもでもあるんだよ!」
レオンは震える手でディアナの両肩を押さえた。
「……もう、家から出るなよ」
「レオン」
「今日から外出禁止!どうせそろそろ雪の季節だ。収穫もないし、牛の世話だけだ。ディアナが外へ出る理由がない」
「レオン……でも」
「駄目だ!駄目だ、駄目……」
レオンはそう言うと、声も出さずに泣き出してしまった。ディアナが呆然としていると、レオンは息も絶え絶えに訴える。
「か、必ず安全に産んでくれ。産んで死ぬのだけは、絶対──」
ディアナは殴られたような衝撃を受けた。
(そうだった……レオンの母親はレオンを産んですぐに……)
ディアナはガタガタ震えている夫の背中に腕を回し、抱き寄せる。
「ごめん、ごめんねレオン。分かったから、泣かないで。私、もう家から出ないよ」
レオンは自らの頬をこすりながら震える声で問う。
「……本当か?」
「うん、約束する」
守らなければならないものは、土地だけではなかったのだ。
伴侶の心。
この世で一番身近にあって、尊いもの。
(まずは無事に産んで、レオンを安心させてあげなければ……)
ディアナはレオンの頬にそっと自らの頬を寄せた。




