84.ディアナのひしゃげた心
ヘンドリック四世。
ヴェンデルスの王。
確実に城にいると思われた王が、なぜかこの辺境にいる。
ディアナはハインツ商会として王宮に出入りしていたから、すぐにその顔が分かった。
しかし同時に彼女の脳裏に沸き起こったのは、あの煉獄。
戦乱を鎮められず、ハインツ商会の有り余る金を使い尽くし、挙句首都を燃やし、ディアナの愛する両親を間接的に殺した、あの王が──
あの王が、のうのうと目の前に、無神経にも姿を現したのだ。
「いやあああっ、いやああ!出てって!出てって……!」
レオンは壊れたように叫び続けるディアナを背に回すと、はっきりとした口調で彼らにこう言い放った。
「出て行って下さい」
ロベルトはたじろいでいた。まさかあのディアナが、こんなに取り乱すとは思ってもみなかったらしい。
「レ、レオン。話だけでも」
レオンは村長と王をぎろりと見下ろした。
「断る」
王は表情を変えなかったが、額にじっとりと汗をかいている。
「妻は……ディアナは、ラトギプの戦火で両親を亡くした」
王はそれを聞き、痛み入るように瞳を閉じた。
「両親を弔う時間さえ与えられず、火の中を死に物狂いで逃げて、全く見知らぬ辺境で、どうにか頑張って暮らして来たんだ。やっと安定した生活が出来ると思った矢先に、こんなところまで追いかけて来やがったのか……この疫病神が!」
ロベルトが慌てて訴える。
「ラトギプは今、大変なことになっているのだ!王宮の騎兵隊は今、分裂して争っている。王派と教皇派、更に外部から民衆が攻め入り、内乱状態にあるのだ。王はこのまま王宮にいては危ない。だから、しばらく身を隠していなければならないんだ。この辺境は国境に接していて便利だ。匿ってくれれば、戦乱が終結した際にきっと褒美が……」
「褒美なんかいるかよ!」
レオンは吐き捨てた。
「ようやく手に入れた平穏を壊されるぐらいなら、褒美なんかいらない。その褒美とか言うのも、どうせハインツ商会から踏み倒した金だろうしな」
農民の青年の、全てを見通したような蔑んだ視線に、村長も王も青くなった。
その時。
「うっ……」
ディアナが部屋の片隅で、静かに嘔吐を始めた。
その余りにも哀れな背中に、男たちは声を失くす。
レオンは歩いて行って、ディアナの張り詰めた背中をさすってやった。
ふとレオンが王を振り返る。
「帰れよ」
青年の鬼気迫る表情に唾を飲み、ようやくロベルトは言った。
「……また来る」
ロベルトは王を連れ、こそこそと馬車に戻って行った。
「……ディアナ」
レオンは妻の名を呼んだ。
「もう帰ったぞ。安心しろ」
「うぅ……」
この数分で急に痩せたように見えるその肩を、レオンが支える。
「ディアナはずっと頑張って、この辺境をここまで豊かにしたんだ。この平穏を壊していい理由なんてない。誰にもその権利はない……王にも、だ。俺は絶対にあいつらをこの家に入れない。だから……」
と、ぐらりとディアナの体が傾いた。レオンは慌ててその体を抱き止める。
「おい、ディアナ!ディアナ!」
レオンはディアナの頬をぺちぺちと叩いた。
ディアナは失神している。
レオンはそれを呆然と眺めてから、唇を震わせて目をこする。
それから妻の汚れた顔を布巾でごしごしと拭いてやると、その体を抱き寄せた。
「本当はずっと、苦しんでたんだな……ディアナ」
その気丈さゆえ、決して苦悩を表には出さなかったのだろう。
感情を押し殺しているという自覚すら、まるでなかったのかもしれない。
レオンはディアナを二階へ運び上げると、そっとベッドに寝かせた。
そしてようやく寝息を立て始めた妻の顔を、彼はじっと見つめる。
「……ディアナの心は、俺が守る」
レオンは自身にも言い聞かせるように呟いて、ディアナの手をそっと握った。




