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第八章.農民と王様

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84.ディアナのひしゃげた心

 ヘンドリック四世。


 ヴェンデルスの王。


 確実に城にいると思われた王が、なぜかこの辺境にいる。


 ディアナはハインツ商会として王宮に出入りしていたから、すぐにその顔が分かった。


 しかし同時に彼女の脳裏に沸き起こったのは、あの煉獄。


 戦乱を鎮められず、ハインツ商会の有り余る金を使い尽くし、挙句首都を燃やし、ディアナの愛する両親を間接的に殺した、あの王が──


 あの王が、のうのうと目の前に、無神経にも姿を現したのだ。


「いやあああっ、いやああ!出てって!出てって……!」


 レオンは壊れたように叫び続けるディアナを背に回すと、はっきりとした口調で彼らにこう言い放った。


「出て行って下さい」


 ロベルトはたじろいでいた。まさかあのディアナが、こんなに取り乱すとは思ってもみなかったらしい。


「レ、レオン。話だけでも」


 レオンは村長と王をぎろりと見下ろした。


「断る」


 王は表情を変えなかったが、額にじっとりと汗をかいている。


「妻は……ディアナは、ラトギプの戦火で両親を亡くした」


 王はそれを聞き、痛み入るように瞳を閉じた。


「両親を弔う時間さえ与えられず、火の中を死に物狂いで逃げて、全く見知らぬ辺境で、どうにか頑張って暮らして来たんだ。やっと安定した生活が出来ると思った矢先に、こんなところまで追いかけて来やがったのか……この疫病神が!」


 ロベルトが慌てて訴える。


「ラトギプは今、大変なことになっているのだ!王宮の騎兵隊は今、分裂して争っている。王派と教皇派、更に外部から民衆が攻め入り、内乱状態にあるのだ。王はこのまま王宮にいては危ない。だから、しばらく身を隠していなければならないんだ。この辺境は国境に接していて便利だ。匿ってくれれば、戦乱が終結した際にきっと褒美が……」

「褒美なんかいるかよ!」


 レオンは吐き捨てた。


「ようやく手に入れた平穏を壊されるぐらいなら、褒美なんかいらない。その褒美とか言うのも、どうせハインツ商会から踏み倒した金だろうしな」


 農民の青年の、全てを見通したような蔑んだ視線に、村長も王も青くなった。


 その時。


「うっ……」


 ディアナが部屋の片隅で、静かに嘔吐を始めた。


 その余りにも哀れな背中に、男たちは声を失くす。


 レオンは歩いて行って、ディアナの張り詰めた背中をさすってやった。


 ふとレオンが王を振り返る。


「帰れよ」


 青年の鬼気迫る表情に唾を飲み、ようやくロベルトは言った。


「……また来る」


 ロベルトは王を連れ、こそこそと馬車に戻って行った。


「……ディアナ」


 レオンは妻の名を呼んだ。


「もう帰ったぞ。安心しろ」

「うぅ……」


 この数分で急に痩せたように見えるその肩を、レオンが支える。


「ディアナはずっと頑張って、この辺境をここまで豊かにしたんだ。この平穏を壊していい理由なんてない。誰にもその権利はない……王にも、だ。俺は絶対にあいつらをこの家に入れない。だから……」


 と、ぐらりとディアナの体が傾いた。レオンは慌ててその体を抱き止める。


「おい、ディアナ!ディアナ!」


 レオンはディアナの頬をぺちぺちと叩いた。


 ディアナは失神している。


 レオンはそれを呆然と眺めてから、唇を震わせて目をこする。


 それから妻の汚れた顔を布巾でごしごしと拭いてやると、その体を抱き寄せた。


「本当はずっと、苦しんでたんだな……ディアナ」


 その気丈さゆえ、決して苦悩を表には出さなかったのだろう。


 感情を押し殺しているという自覚すら、まるでなかったのかもしれない。


 レオンはディアナを二階へ運び上げると、そっとベッドに寝かせた。


 そしてようやく寝息を立て始めた妻の顔を、彼はじっと見つめる。


「……ディアナの心は、俺が守る」


 レオンは自身にも言い聞かせるように呟いて、ディアナの手をそっと握った。

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