68.夜の傷跡
クラウスが立ち上がり、ソフィアはびくりと身を震わせる。
彼はため息を吐くのをこらえた。
いつもこうだ。
触れようとすると、遠ざかる。話そうとしても避けられる。目を合わせようとしてもそらされる。
年老いた人間は、傷つかないとでも思っているのだろうか。
いや、むしろこれ以上傷つけないように、あえてこちらを遠ざけているのだろうか──
クラウスは奥歯を食いしばる。どちらにせよあちらが本音を言い出さないので、全て推測に過ぎないわけなのだが。
「何か用かな?」
しかしその葛藤をおくびにも出さず、クラウスはかつて親戚の子供にしてやった通りに大人らしく接する。
老いぼれがわめいても嘆いても、どうせ何も変わらないのだ。
と。
ソフィアが恐る恐る、ハンカチを差し出して来たではないか。
クラウスはそのリネンハンカチを見て、目を見張った。
〝K〟のイニシャルがグレーの絹糸で刺繍されている。
「ソフィア、これは?」
彼女はクラウスの青い瞳を覗き込むと、答えた。
「クラウスの頭文字です」
クラウスは目を疑った。
何となく、周囲がぼうっとしてくるような気さえした。
「これを、どこで……」
「私が縫いました。そういうわけで、もうメリッサのところへ行く必要はありませんね?」
クラウスは妻の目を見る。
妻の瞳は、夫の回答を待っている。
「ああ……そうだな」
「苦しくなければ、お使いあそばせ。では」
そう言い置いてすぐさま部屋を出ようとするソフィアの腕を、クラウスはがしりと捕まえた。
咄嗟に体が動いてしまったのを、クラウスは急に恥ずかしく思う。
「……おじ様?」
怪訝な顔で問う彼女に、クラウスは震える唇でこう告げた。
「ありがとう。大切にするよ」
ソフィアは目を見開いてから、何か悪いものでも見てしまったかのように直線的な足取りで部屋を出て行く。
取り残されたクラウスは、刺繍の部分をそうっと指でなぞった。
張りのある、柔らかな絹の感触。
それを感じるや否や、クラウスはあの夜を思い出し、ぐらぐらと頭を煮え返らせる。
深く深く彼女を傷つけてしまったあの夜。
「……ソフィア」
誰もいなくなった空間に、クラウスは声をかける。
それが、彼が今出来る精一杯の行動だった。
ソフィアはベッドに大の字になって寝転んでいた。
あれが、彼女の出来る精一杯だった。
けれど、彼はソフィアに礼を言うだけで、抱きしめてくれるわけでもキスをくれるわけでもなかった。
(おじ様はやはり、私をまだ親戚の娘か何かだと思っているのだわ)
ソフィアは光を失った瞳でぼんやりと窓の外を眺める。
(だってもう、おじ様はあの夜から私を求めることはなくなったんだもの)
ソフィアは自分の美しさを知っていた。
しかし、四女であるという点、周囲から変わり者と思われていた点、クラウスが妻を失ったという時期的な偶然が重なって、こうしてかなり歳の離れた夫と結婚するに至ってしまったのだ。
正直ソフィアは、クラウスを悪くは思っていなかった。
以前の美男子ぶりはよく知っていたし、年老いていると言えど、他の貴族男性よりよほど気が利いて気持ちのいい男だったからだ。
けれど。
夫婦になって、初めての夜──
(おじ様は、私の体では駄目なんだ)
夫と繋がることは叶わず、ソフィアのプライドはズタズタに引き裂かれてしまった。
(私は彼が死ぬまで、この体を持て余さなければならない)
老いた夫でも子どもを持てば気が紛れると思って嫁いだのに、その可能性すら閉ざされてしまった。
クラウスだって子どもがいないのをどうにかするために、若い自分を娶ったに違いないのに。
その不甲斐なさも、ソフィアの心を壊すのに充分であった。
もはや涙も出なかった。
しかも罪滅ぼしのように、夫は御用聞きの真似事をして来る。白旗を上げ続けるように。
(全部、上手く行かないわ)
ソフィアは貴族の妻たちが夫の求めを厭うのを思い出して歯軋りする。体を求められるほどには愛されていることに嫉妬する。
きっと彼女たちはその内身篭るだろう。
そうなれば、嫉妬で狂い死んでしまうかもしれない。
それに若妻ならば誰も知らないことかもしれないが、夫から対象外にされることほど、妻として悲しいことはないのだ。
誰にも話せない胸の内。ソフィアはただいたずらに、夜な夜な切り刻まれ続ける胸を撫でさするしか出来ないのだった。




