62.マクガレン公爵
ソフィアが言っていた言葉の意味が、今になってディアナの心に重く迫って来る。
私は平穏に暮らしたいだけ。
夫は静かで無欲な人。
愛なんかは、別にいらない。
買い与えることでしか気の引けない夫。
その言葉の全てが、夫が老いているという一言で全て腑に落ちる。
布見本に再び視線を落とす。淡いブルーの絹。そこに「7/12 マクガレン公爵」の走り書き。
ソフィアがモノに救いを求める気持ちが、ディアナの心にきりきりと刺さる。
あの美しい風貌を、華奢な体を備えておきながら、老人を伴侶にあてがわれたソフィアの苦悩はいかばかりか。
寝苦しい夏の夜。
ディアナはいつものように、ことを終えて隣でまどろんでいるレオンの裸体を観察する。
何かをきちんと待っているように、備わっている機能。
それを受け入れたディアナもまた、自分の機能を使って満たされている。
ソフィアはこの感覚を、その老人と共有出来るのだろうか。
「……ディアナ?」
ディアナは黙って、夏のガーゼケットを頭まですっぽりと被る。
「……何で泣いてるんだよ」
「うー」
「……痛かった?」
「違……」
レオンはガーゼケットをちらとめくった。
「じゃあ何だよ」
「レオンはもし、私がおばあさんだったら」
レオンは目を丸くした。それから何かを思い出したように鼻を鳴らす。
「ソフィア様のことを思い出したってわけか」
「……」
「お節介なディアナらしいな。勝手に感情移入を始めたか」
「……」
「好きなら、何歳でも愛せる。でも何とも思ってなければ、愛せないだろうな」
「……」
「でもまあ、あの様子じゃ、もう無理だろうなソフィア様は」
ディアナは目をこする。
けれど、彼女はこの小屋に来たがったのだ。
愛人と夫を引き離すために。
そこに微かな救いを見出したいディアナだったが、一方で、その老人に愛人が出来るというのは一体どういうことなのだろうか。
「でも愛人がいるって言うから、少なくとも完全に枯れてはいないんじゃないか?」
夫の方でも、同じことを考えていたらしい。
「案外子どもでも出来れば、関係が変わるかもしれないぞ」
「子どもはそのために作るものじゃないわ」
「そうだけど……」
「浮気する老人なんて、余計にソフィア様が可哀想よ。私、マクガレン公爵が許せない」
レオンは冷たいシーツの上でディアナを抱き寄せた。
「……あんまり無茶すんなよ」
「絶対現場を暴いてやるわ」
「やめろって……」
ディアナが貴族の子女に肩入れしてしまうのは、自分もそうなっていた可能性があったからだ。農民のレオンに、その悲哀は分かるまい。
ベッドを新調することにして、ディアナはハンスの店に向かっていた。
しかしこれは、表向きの理由。
裏の理由は──
「ディアナ、まだ気が早いんじゃないか?」
ディアナとレオンは灼熱の丘を、レギーナに乗って下っていた。
「いいじゃない、いてもたってもいられないの」
「家の、まだ土台も出来ていないんだぞ」
「ああそうそう、新しい布も買おうかと思って」
「ふーん。変なの」
ディアナは布見本の冊子をちらりと見下ろす。
「7/12 マクガレン公爵」
きっとこの文字は、七月十二日にマクガレン公爵がハンスの店にやって来ることを意味しているに違いない。
今日がその七月十二日。
ディアナの目は、そのご尊顔を拝んでやろうという決意に満ちていた。
何なら飛びついて、愛人とのことを尋問してやろうかとさえ考えていた。
妙に肩に力が入ったまま、ディアナはハンスの店に到着する。
店の前を見て、ディアナはごくりとつばを飲んだ。
例の、マクガレン公爵の馬車がある。
馬を降りると、ディアナは恐る恐る店の扉を開けた。
その向こう側では、トルソーに着せられた淡いブルーのドレスを、うんうんと引き抜いているハンスとその従業員の姿があった。
ディアナは夫と共に店に入り、どきどきと周囲を見渡す。
あ、と声が出そうになった。
ロマンスグレーの髪の男性が、こちらに背を向けて立っている。
ディアナは目を見開いた。
ハンスがジジイだと言うのでてっきりしょぼくれた高齢男性を想像していたが、まるで違った。そこにいたのは背筋が伸びて背の高い、簡易だが生地の良いフロックコートをかちりと着こなした中年の男。
こつ、とディアナのブーツの音が床に響き、男性はこちらを振り返った。
口ひげを蓄え、青い瞳をした、ダンディな男性。その見開かれた目は、すぐにディアナを認め、細められた。
「……ハンス。別のお客様が来たようだぞ」
良く響く、野太く低い声。
ディアナは顔を真っ赤にした。
(思っていた姿と違う……凄い、大人の魅力だわ……!)
唇を震わせるディアナの顔を、レオンは苦々しい顔で覗き込んだ。
「おい、ディアナ……おーい」
ディアナは夫を顧みず、熱い熱いため息を吐いた。




