58.愛はいらない
その日、ソフィアの申し出を断ったディアナはレオンと共に山小屋に帰ると、ごろんとベッドに身を投げ出した。
「私は平穏を求めているだけだったんです。夫だの愛だのは、別に最初からいりませんでした」
ディアナの頭の中にぐらぐらと、あの言葉がこだましている。
(……それって、本当にソフィア様の本音なのかな?)
ディアナは愛を美しいもの、好ましいものだと感じていたし、周囲を見渡しても愛を求める人が割と多かったように思う。
ディアナはソフィアの光を失った眼差しを思い出し、胸を痛めた。
(夫は無欲な人だとか言っていたけど、無欲な人が愛人なんか持つかしら?)
もし本当にそうならば、無欲であるはずの夫からの強烈なメッセージのような気もする。
(何にせよ、気になる夫婦だわ)
レオンはバラの花弁を集めた籠を食卓の上にどすんと置く。
バラの芳香が小屋いっぱいに広がった。
ディアナは籠に目を移す。次はバラのシロップを貴族の娘たちに提供するのだ。これでひと瓶、銀貨三枚が……
「ディアナ」
夫の影が目の前に落ち、ディアナはハッと我に返る。
「最近、やつれてるぞ。大丈夫か?」
ディアナは首をかしげる。やつれているとは初耳だ。
「……そうかな?」
「見れば分かる」
「えー!本当に!?」
ディアナは自分の手をじっと眺めた。レオンがぽつりと言う。
「働き過ぎだ」
ディアナは目の前に立つレオンを見上げた。
夕闇の中、心配そうに佇む夫の姿に、ディアナは少し罪悪感を覚えた。
「お金も大事だけど、ディアナの体はディアナだけのものじゃない」
ディアナはその言葉を噛みしめる。
「子どもだって欲しいし……今の内から体を大切にして欲しいんだ」
「……」
「家なんかあとでどうとでもなるから、たまには休んだらどうだ?」
「……」
「自分で稼いだ金を、たまには自分に使えよ。買い食いとか、気晴らしとかさ。この小屋に来てからそういうこと、全くしてないんじゃないか」
そうだった。
新しい家のことで頭がいっぱいで、何もかもを切り詰め過ぎていた。けれど。
「でもレオン、私、働きたいな。お金を貰えるって楽しいもの」
ディアナは今、これが楽しくて仕方がなかったのだ。
何もかもを与えられた人生だった。何かを与える人生になった今、それがとても刺激的で目新しい。
レオンもベッドに腰掛けた。
「楽しいのは分かるけど、心配なんだよ」
「レオン、私もっといっぱい食べるから安心して」
「……そういうことじゃない。ディアナ、立ち止まって想像してくれ。大きな家を建てたって、へとへとになって住む前に死んだら元も子もないだろ」
「レオンったら、大袈裟なんだから」
「今日だって、貴族の娘の与太話に振り回されてただろ。金欲しさに」
「そりゃ、ね……でもあれは人助けも兼ねて」
「始まったよ、お嬢様のお節介が。あの貴族たちは俺、いけ好かないな。あんまりお人好しを演じてるといつかめちゃくちゃに振り回されるぞ」
「だって」
レオンの唇が、ディアナの唇を少し強引に塞ぐ。ディアナは驚きに目を見開いた。
唇を放した夫が、低い声で囁く。
「……たまには俺の言うことも聞いてくれよ」
少し怒りをたたえた視線を向けられ、ディアナはちくちくする胸をおさえた。
「一番ディアナのことを考えてるのは、俺なんだよ」
レオンはそう言ってディアナを抱きすくめた。
「でもディアナは最近、俺のことをすっかり忘れてる」
ディアナは呆然とする。言われて初めて気づいたことだった。
家のため家のためと働いて来たが、その間、夫を顧みることはしていなかった。籠を持って馬で方々を回って、家に帰れば疲れ果ててすぐに寝てしまう。
ディアナは夫の肩に頬を乗せ、じっと考え込んだ。
「……ごめんね」
「いいんだ、分かってくれれば。お互い、少し休むことも考えよう。バラ園も流されて、しばらく仕事もないし」
「……どっか、行く?」
「そうだな。たまにはパブスト村から出るか。気分を変えてリップス村で外食でもして、たらふく食べよう。最近、腹いっぱいになった記憶がない」
確かにその通りだった。
切り詰め過ぎて、食事らしい食事にありついていない。
籠だって使い過ぎて裂け、ところどころに穴が開いている。
レオンの野良着も、もうぼろぼろだ。
気づけば家欲しさに、二人は何もかもを我慢し過ぎていたのだ。レオンの方が先に限界が来てしまった。そういうことなのだろう。
戦時下というのもあり、全体がギスギスしているこの世界で、気晴らしは貴族たちではなく彼ら平民にも必要なものなのであった。
(お金ならあるわ……そうね。何かを新調してみようかしら)




