54.帰還
天に祈りが届いたかのように雨が引き、ディアナは美しい夕日に導かれるように窓を開け放つ。
雨で冷えた空気に乗って、馬の嘶きが聞こえて来た。
窓から下を見て、ディアナは部屋でそわそわと落ち着かず歩き回っているレオンに声をかける。
「レオン!見て!」
レオンは足早に窓の桟に身を乗り出した。
眼下には濁った水を掻き分けながら力強く進むレギーナと、ラウラを大事そうに前に乗せて手綱を繰るゲオルグの姿があった。
リップス村の宿の一階はギリギリ浸水を免れていた。
ゲオルグはラウラを先に下ろしてやった。エントランスで待ち構えていたダニエルとキートンは、傷ひとつなく現れた彼女にすがりつく。
「ラウラ!よくぞ無事で」
「ラウラ、よく帰って来た!」
ラウラは遠慮気味に笑ってから、用意していたかのようにこう告げた。
「ゲオルグが命をかけて助けてくれたの。二人とも、私ではなくゲオルグをねぎらってあげて下さい」
そう言い置いて、ラウラはゲオルグがやって来るのを待った。
濡れたままのゲオルグに寄りかかると、ラウラは周囲に何かを伝えるように、彼にゆっくりとキスをする。
ゲオルグは何かを了承するように目を閉じ、顔色ひとつ変えずじっと彼女を受け入れた。
呆気に取られている父と貴公子を尻目に、ラウラは振り返る。
「私、決めたわ。一度は諦めようと思ったけど、やっぱり私、ゲオルグと生きて行くことにする」
エントランスの時が止まった。
ディアナは二階の階段からその様子をそうっと伺うと、タイミングを見計らってタオルを手に走り込んだ。
「お帰りなさい二人とも!」
ディアナのカラ元気な声がエントランスに仰々しく響き渡る。
「疲れたでしょう?温泉に入るといいわ。あ、服も持って行くから大丈夫よ。さあさあ」
そして有無を言わさず二人の背中をぐいぐいと押した。ゲオルグとラウラは押されるがままに風呂場へと直行する。
彼らをそれぞれの温泉へ押し込み、ディアナは頭を巡らせる。
「さてと……あとはあの二人がどうするか、よねぇ」
エントランスに取り残されたキートンとダニエルは、互いに言葉を交わすことなくただただ立ち尽くしていた。
「ディアナ」
しばらくすると、新しい服に着替えた湯上りのゲオルグがディアナ達の部屋にやって来た。
「……代筆を頼みたいんだが、いいか」
ディアナが目を見開き、レオンがベッドに寝転がってくつくつと笑う。
ディアナは立ち上がると、ゲオルグ達の部屋へとついて行った。
グスタフの取り計らいで、今日はバラ園造園メンバーは全員宿泊出来ることになっていた。
ゲオルグとラウラは同じ部屋があてがわれていた。
どこか甘ったるい空気の漂う部屋で、ディアナは小さなデスクに腰掛けた。
紙とペンを持つ。
ゲオルグは小さな声で言った。
「ディアナ、こう書いてくれ。ラウラ。俺は字の読み書きが出来ない。もし字が書け、読めるようになったら結婚しよう」
ディアナは緊張で手が震えた。
こんなに素直な気持ちを伝える字を書くのが、本当に自分でいいのだろうか。
ディアナはなるべくきれいな字でそれを書きつけると、ラウラに見せた。
ラウラは泣き笑いを浮かべると、愛おしそうにゲオルグを見つめて答える。
「……はい」
ディアナは真っ赤になった。
「別に、字が書けなくても結婚していいのよ。でも、あなたがそう言うなら」
ゲオルグは表情を変えない。その代わり、じっとりと汗をかいている。
「私、ようやく自分の本当の気持ちに気づいたの。水が迫って死を覚悟した時、一番に浮かんだのはあなたが子供の頃の、あの顔だったから」
この二人はどうやら幼馴染らしい。ディアナは正直、なぜゲオルグがこんな美人と付き合えるのか常々疑問に思っていたが、その謎の一端がようやく解けた。二人は昔から好き合っていたのだ。
「耳が聞こえなくなって、手紙を出して、返事がなかった時は絶望したわ。それから徐々に私も体の自由がきかなくなって──正直、私は手紙の返事をくれないあなたを相当に恨んだの。私が障害を負ったから、来てくれなくなったんだって。でもたまに思い出したようにやって来るから、やっぱり弄ばれているんじゃないかっていう気がして落ち込んで……その繰り返し」
ゲオルグは目を閉じて首を横に振る。ラウラはそれをじっと見つめ、ふうと安堵のため息を吐いた。
「そう、違ったのよね。あなたは字が書けない、読めないっていうだけで」
そう言うと、ラウラは言葉を詰まらせて泣いた。
積年の誤解やわだかまりが、溶けて行く瞬間だった。
「き、きっと、あなたは私なんかより辛い思いを……」
ラウラの涙に、ディアナはがたん、と席を外した。
「もう、ゲオルグ。もう少し後に呼んでよ……」
ゲオルグは弱り切った顔で頭を掻いた。
「……すまない」
「また何かあったら後で呼んでくれていいから」
ゲオルグは無言で、思春期の少年のようにぎこちなく頷いた。
扉が閉められる。
ゲオルグはラウラの隣に座ると、彼女を支えるように肩を抱く。ラウラは安心して彼の肩にもたれかかった。
本来、愛情を伝えるのに言葉はいらないものなのだ。
愛は全て行動で伝えられるのだから。




