53.救出
もはや雨が激しすぎて視界すら不明瞭だ。
だがディアナと共に訓練を重ねて来た強靭な雌馬レギーナは、土砂降りの中、迷いなく手綱通りに走る。
まるでこちらの心を理解して、頭の中の地図を読みながら走ってくれるようだ。
「……お前は、いい馬だ」
手綱を繰りながらゲオルグがひとりごちる。
「飼い主の育て方が良かったんだろう」
ゲオルグは一人で雨の降り続く悪路を走り続けた。
末弟からの協力の申し出も断った。妻のそばにいてやるのがあちらの仕事だ。こんな危険な仕事をさせるわけには行かない。
ある地点まで走ると、もはや池のような濁流が足を洗い始めた。レギーナは構わずどんどん進んだが、ゲオルグは人の気配に気づいてその歩みを止めさせた。
案の定だ。
ダニエルが寄越した使いは、水を恐れてそれ以上先へ進めず立ち往生している。
ゲオルグが馬に乗ってやって来ると、ダニエルの使いが声をかけて来た。
「ん?あんたもダニエル様の使いか……」
「いや、違う。ではお前らがダニエルの使いか」
「あ、ああ。そうだが……」
「お前たちはもう主の元へ帰っていい。俺がラウラを助けに行く」
レギーナの両脇を蹴ると、彼女は嘶いてスイと水に体を滑らせて行った。ダニエルの使いはそれを眺め、呆気にとられている。
「……ほう。これは凄い」
犬かきならぬ馬かきで、レギーナは慣れた足さばきを水中で披露する。
陸に上がると、彼女は遠慮気味に体を振り立て水気を飛ばした。
何度か水に潜るような場所があったが、レギーナは難なく泳ぎ進んで行く。
そうこうしている内に、森の木々と滝のような雨の合間に、いつものレンガ色が見えて来た。
小高い場所に乗り上げ、ゲオルグは目を見張った。
レンガの家の半分ほどまで水位が上がって来てしまっている。家まで下り坂が続いていたので当然予想はしていたが、ここまでとは思っても見なかった。
さすがにこれ以上馬を進めるのは気が引けた。
「レギーナはここで待っていろ」
ゲオルグは馬を降り、あらかじめ用意していたロープを自身の体と近くの木に巻きつけると、服をあらかた脱ぎ捨てて泳ぎ出す。
家に入るとするなら──二階の窓しかない。
一方ラウラは、眠りから覚めた時には既に水が二階の床まで迫っており、恐怖のどん底に叩き落されていた。
耳が聞こえない分、雨音を拾えず大雨に気づくのが遅れてしまった。窓から外を眺めても、薄暗いし雨は滝のようになっているしで、どうやっても視界が滲んでしまう。
ラウラは泳げなかった。凍える足でベッドに戻り、膝を抱えるしかなくなってしまった。
死という言葉が頭をよぎる。
その時ラウラの頭に弾けるように浮かんだのは、バラを一輪差し出して来た少年の真っ赤な顔だった。
ラウラは目をこする。
幼き日の自分は、彼のあの行動で、感情を伝えるのに言葉など必要ないことを悟ったのではなかったか。
今思えば、あの日のゲオルグの行動は、二人の未来を暗示していたに違いないのだ。
やっぱり……とラウラは口に出す。
(あの人じゃなければだめなんだわ)
ラウラは膝を抱えてしゃくりあげた。
(あの人は、生きているかしら)
もし自分が死んでも、彼が生き永らえていてくれればそれで本望だ、とラウラは思う。
その時ラウラはすっかりあの貴公子のことなど忘れ去ってしまっていた。
まるでそんな人は空想の産物で、自分と何も接点がなかったかのように。
ガタン、と窓が鳴る。
ラウラは音に気づかず、悲嘆に暮れていた。
もう一度寝れば、眠りながら溺死出来るかもしれない──そこまで思い詰めていた、その時だった。
「ラウラ」
ふわりと自身の髪に触れる馴染みの手がある。
ラウラはハッと我に返って顔を上げた。
そこには、ずぶ濡れになったゲオルグがいた。
夢かと思った。
(もしかして、もうお互いに死んであの世にいるのかしら……)
ゲオルグが濡れた体でラウラを力強く抱き締める。その感触に出会って、ようやく彼女はこれが現実であることを知った。
ラウラはその背中におそるおそる手を回し、今まで我慢していた涙を流す。
彼の力の加減、体の熱さ、匂い、何もかもが懐かしい。
それから──
ラウラは彼の唇に触れると、指でなぞってからそっと口づける。
その時、本当に正直に、今死んでもいいとさえ思った。
「……行こう」
ゲオルグの口が何かを告げている。ラウラは夢見心地に頷いて、ゲオルグの首筋に再び腕を回した。
ゲオルグはあらかじめ結んでいた綱を引きながら冷たい水の中を渡る。ラウラも抱きつきながらじっと耐える。その内に雨は引いて、二人の視界は急に明るくなった。
重たい雲が退き、まるで入れ替わるように白い雲が現れる。
水面の向こうでは、レギーナが全てを見通すような目で、じっと主の帰りを待ちわびていた。




