40.ゲオルグの隠し事
「先程の、ゲオルグが字を読めないというのはどういうことなの?」
問い詰められた料理長はため息混じりに口を割った。
「どういったも何も……あいつ、帳簿の付け方や契約書の書き方がわかんないらしいんだよ。簡単な暗算なら出来るようだが、紙に書くことは出来ないみたいなんだ」
「だからってあなたがその数字を誤魔化すのは駄目よ。ちょっと、その帳簿とやらを見せて下さい」
料理長は渋々といった様子で帳簿を戸棚から出した。
ディアナは帳簿の上から下まで視線を滑らせる。記載では、小麦の単価が市価より驚くほど高く設定されていた。契約書にも、同様の金額が書いてあった。
「つまり、ゲオルグには口頭でこれよりも安い金額を伝えて、払っていたということね?宿のオーナーからはこの帳簿通りの金額を受け取っていたということで合ってるかしら」
料理長は観念したように素直に頷いた。ゲオルグはこの男に、差額をちょろまかされていたのだ。
「これは……ひどい」
レオンも隣で怒り心頭だ。料理長は咳払いをし、仕切り直すようにしてから尋ねた。
「レオンよ。あんた、字は読めるよな?」
「当たり前だ。パブスト村にも、農閑期に教師が来る」
「ならゲオルグも読めるはずだよな?」
「……だと思うが?何せ長兄とは歳が離れていて一緒に勉強したことはないから、何とも言えないが」
「そうか。弱視なんてことはないか?」
「そんなことはないだろう。眼鏡をかけてるのも見たことがないし……」
「なら、なぜ字が読めないんだろうな」
「うっせーな……盗人風情が他人の病気の心配してんじゃねーよ」
ディアナは考える。
「字が読めない病気……?」
「そんな病気、聞いたこともないぞ」
「いえ……昔、その病について聞いたことがあって。アイゼンシュタット王国のかつての王が、その病にかかっていたと」
「はあ?そんな病気があるの!?」
レオンは驚きよりも、むしろ呆れている。
「そうよ。だからその大昔の王様は、文書を高官に代筆させていたの。それがもとで王位継承権に必要な書類が改竄されて、一時王家が二つに分裂してしまったことがあったわ。この歴史、覚えてない?」
「知らないな、隣国の歴史なんか……本当に、読み書き計算しか習ってないもんだから」
「そうなのね……だから、ゲオルグもその病気の可能性があるのよ」
ディアナはきっと前を向いた。
「そういうわけだから料理長、あなたのやっていたことは詐欺よ。ゲオルグにも、きちんとわけを聞きましょう。この料理長をどうにかしてもゲオルグがあのままでは、また別の詐欺の餌食になってしまう」
レオンは前のように、長兄を心から憎んではいない様子だった。
「……そうだな。今は多少の恩義があるし」
「ゲオルグの家へ行きましょう。あ……でも、約束を取り付けるのが先かしらね」
「タイミングが悪かったな。入れ違いになっちまった」
「手紙を出しましょうか」
「待て待て。字が読めない病気だってディアナが今、言ったところじゃないか」
「!そうだった……」
レオンは考え込む。
「そうか。だから、兄弟は全部口頭で」
「何か心当たりがあるの?」
「あいつ、手紙や書類を無視する癖があったんだよ。てっきり俺たちのことを下に見ているから無視してやがるのかと思っていたが、そうとなると事情が変わって来るぞ……」
「そっか。それなりに兆候はあったわけね」
「だから俺たち弟は、何かあるとゲオルグに直接会って話さなくてはならなかった。単なる王様ごっこに付き合わされていたわけじゃなかったんだな」
レオンの中でするすると、わだかまっていたかつての謎が解けて行く。ディアナは頭をいつも以上に回転させて考えた。
ふと、結婚式での出来事が頭をよぎる。
──ラウラは耳が聞こえなくなってから……
「あっ」
ディアナは思わず声を出した。
「……どうしたディアナ」
「ということはゲオルグは耳が聞こえなくなったラウラさんと一切、意思疎通が図れないわね」
レオンは目を丸くした。
「……んなっ……そ、そういうことか?」
「そうよ。だからゲオルグはラウラさんと別れざるをえなくなったんだわ、きっと」
「まさか、そんなことって」
「全部憶測に過ぎないけれど──もしこれが当たっていたとしたら、こんなに不幸な別れ方をした二人はなかなかいないでしょうね」
ディアナは目の前にある赤いバラのシロップに目をやった。
「……バラか」
ディアナはその瓶を手に取る。
「ラウラさん、これ気に入るかしら」
レオンはしばし呆けていたが、ようやく何かに気づいて頷いた。
「……持って行くか?」
「そうね。ラウラさんにあげるようにゲオルグに言ってみようかな」
「果たして素直に受け取るかね?あの無愛想な兄貴が」
「まだラウラさんを好きなら、きっと何だかんだ言いつつも受け取るはずよ」
「……うわっ。何か想像するとこっ恥ずかしー」
「あらそう?私達の未来のためよ。兄弟に嫁が全く来なかったら、困るのは私達じゃない」
「ディアナ……ロマンチストかと思いきや、意外と現実的だな」
「ふふふ。どちらにせよこれも人助けよ……あら?」
遠くから、馬の軽快な足音がする。ディアナは調理場から顔を出した。
「グスタフとお姉様がレギーナに乗って来ているわ!随分帰りが早いじゃない」
「あー。やっぱり駄目だったか……」
レオンも困ったように頭を掻いている。ディアナは大急ぎで宿の玄関に飛び出して行く。
「お兄様!お姉様!」
どうにか荒れそうな場をしのごうという覚悟で、妹が出て行く。
と。
馬を降りたイルザはグスタフに肩を抱かれてやって来た。そこにいるのはいつもの、貼り付けたような笑顔の彼女ではない。
ディアナとレオンは唖然とする。
姉夫婦はまるで周囲が見えないかのように互いを見つめ合うと、何やら秘密の言葉を囁き合い、笑い合っていた。ディアナとレオンは顔を見合わせる。
「これって……」
「うん」
「だ、大成功なんじゃないの……?」
姉夫妻はこちらに優雅に歩いて来ると、妹を見つけ次第、クスクスと笑いながらこう言った。
「あら、ディアナ。私、ようやくグスタフと夫婦になれたみたいよ」
ディアナは何度も頷いてから、目をこする。
「あらやだ。何で泣いているのかしら、この子ったら……」
イルザも泣き出しそうな顔で笑う。
「私、気づいたの。私は夫に、ものではなく、行動を求めていたの。グスタフはきちんとそれに応えてくれたわ。今までその状況が揃わなかったのが、私達夫婦にとって最大の不幸だったらしいわね」
少しバラの香りが残るディアナの両の手を、姉はそっと握りしめた。




