38.イルザとグスタフの牧歌生活
次の日の朝、イルザが目を覚ます頃にはグスタフが朝食の準備をしていた。
小麦粉に卵、牛乳、砂糖を混ぜ合わせてフライパンで焼いているのだ。
イルザも何もしないわけには行かず、のっそり起きて行って井戸から水を汲み、湯を沸かす。
棚から妙に真新しく美しいティーカップを取り出し、紅茶を淹れる。
差し向かいの食事。
しっとりとしたパンケーキの美味しさに、イルザは何度も頷いた。
「何でも、産みたて搾りたてを使うと美味しいわね」
「やはり街で食べるものは、運んでいる最中にどうしても鮮度が落ちるからな」
ふとイルザは思う。
(食事の内容について夫と話したのなんか、初めてじゃないかしら)
手の込んだ料理など、いくらでも食べて来た。
けれど自らが動き、調理し、並べることなどなかった。
(普通の村人は、きっとみんなこんな生活を営んでいるのだわ)
そう考えると、自分達の方が変わった生活を営んでいるのだということに気づく。
(そしてこういう朝を迎えているのが、普通の夫婦なのだわ)
「私が薪を割る」
イルザは顔を上げた。
「お前は何もせず、楽にしていればいい。粗末なベッドで疲れたろう」
疲れているのは、床で寝ていたグスタフの方だろうに。
イルザは、心の奥底がじわじわと熱くなって来るのを感じていた。
「……私も、何かしますわ」
「力仕事ばかりだぞ。お前に出来るわけがない」
「あなたにばかり負担をかけるのはよくありませんもの」
グスタフがぽかんとイルザを眺める。イルザは微笑んだ。
「他にはどんな仕事がありますの?」
「レオンが言っていたのは、水やりと掃除と牛のブラシがけ……」
「それ、私がやりますわ」
「大丈夫か?」
イルザは頷くと席を立ち、豪奢な絹のドレスからペチコートを引き抜いた。ハイヒールもぽんぽんと脱いで、近くにあったディアナのサンダルに履きかえる。グスタフは呆気に取られた。
「これでいいわ。じゃあ私、先に井戸へ行ってますから、食べたお皿を持って来て下さいね」
グスタフは無言で頷き、紅茶を口へ運んで小屋の中を見渡す。
雑多にぶら下げられた籠と鍋。粗末な瓶にきゅうきゅうに活けられた生花。壁に引っ掛けられた二着の作業着と、手を拭く麻布。
使うべきものが使うところにあり、愛でるべきものが愛でる場所にある。
グスタフは呟いた。
「……私達は持ち切れぬほど、持とうとしてしまったんだ」
物がなければ、互いを頼るしかない。
「持てば持つほど、人との関係性が薄まるのかもしれないな」
彼はなぜディアナがレオンを欲したのか、この小屋にその答えが全てあるような気がした。
イルザが外で皿を洗っている音がする。グスタフはその音に、今までにない安心感を得ていた。
グスタフは空になった皿を持って立ち上がる。イルザに皿を託し、小屋の横に薪割用に積み上げられた木々を切る。
この石だらけの乾いた土地には、何もない。近くに家もなく、鳥のさえずりのみが聞こえる。
作業ばかりしているので、話し声もしない。だが互いの立てる生活音で、互いの存在がくっきり浮かび上がって来る。
(あれほど他人との会話に飢えていたのは、何だったのか……)
黙々と作業すればするほど、自分の中に言葉が蓄積されて行く。
作業を積み重ねれば積み重ねるほど、満足感が湧き上がる。
それはイルザも同じだった。
誰かがやってくれる仕事。それを自分がしている時、意外と面倒には思わなかった。
自分のため、相手のためだったからだ。
これが不特定多数に向けた作業だと、疲れも生じるであろう。しかし二人だけに向けられた仕事である場合、むしろ自分を誇らしくさえ思うのだった。
(私ったら、誰かのために手を動かしたことがなかったんだわ)
街でやる手作業と言ったら、手紙を書くぐらいしか正直なかった。口を動かす仕事は多々あったが。
(……口だけ動かしていても、空しいのは当たり前よね)
皿を拭いて食器棚に戻す。踵を返し、今度は小さな畑に水をやる。
「あら。白い花が咲いてるわ」
ディアナのエディブルフラワーの畑に、見たことのない白い花が咲いていたのだ。
(帰ったらディアナに教えてあげなくちゃ)
そんな時。
遠くから、男がひとりやって来た。栗色の髪の大きな男で、がっちりと固太りしている。その手には玉ねぎが束ねられていた。イルザが歩いて行くと、その青年は驚いてこう尋ねた。
「あれ?ディアナとレオンは……」
「こんにちは。私、ディアナの姉です。街から逃げて来ましたのよ」
大男は得心したように頷いた。
「お、道理で似ているわけだ!二人はどこへ行ったんです?」
「ええっと……ちょっとリップス村まで出ておりますの」
「ああそう。申し遅れましたが、俺はレオンの兄のフリッツです。玉ねぎが多く収穫出来たんで、おすそ分けに来たんですよ」
「あらありがとう。ちょっと待っていてね」
イルザは小屋に戻ると、砂糖を瓶に詰めてやって来た。戦時下で村では物々交換をしていると聞いていたからだ。
「うちからもおすそ分けです。良かったらこのお砂糖、使って下さいな」
「ああ、こんないいものを助かります。後日もう一山玉ねぎをあげなくちゃね」
フリッツは玉ねぎをイルザに手渡すと帰って行った。
グスタフがやって来る。
「おお、玉ねぎじゃないか」
「とてもいい香りだわ。新玉ねぎよ。お昼はこれを輪切りにして、ソテーして食べましょう」
ふと二人の間に沈黙が訪れる。
「……何て言えばいいのかしら」
イルザがぽつりと感慨深く呟いた。
「私、今、なぜかとても幸せなの」
グスタフも頷いた。
「私もだ」
幸福な沈黙と、鳥のさえずり。
二人は互いにもたれ合うと、玉ねぎを抱えたままそっと互いに口づけた。
唇を離してからイルザは呟く。
「あなたとなら私、何があってもやって行けるわ……ここに来てようやくそう思えたの。あなたは私のために、何でもやってくれる人」
「イルザ……」
「あとは痩せてくれれば言うことないんだけど」
グスタフがぎくりと顔をこわばらせ、イルザが笑う。
「……お願い。そうすれば、もっとあなたを愛せる気がするから」
「うーん。やるしかないか……」
イルザの夫への愛情が、ゼロから1になった瞬間であった。
グスタフとイルザは玉ねぎを分け合うと、それらを吊るすために二人、軽い足取りで小屋へと戻って行った。
暖かい食卓を得るために。




