2.令嬢、平民の生活を嗜む
レオンが手を握っていてくれる。ディアナは久々に人の体温に触れ、ほっとした。
「あの後、どうなったの?」
「はい。ディアナ様は失神し、頭から血を流していました。ですので村の医者を呼び寄せ、応急処置を」
「そうなの……何日くらい寝てた?」
「三日ほどです」
ディアナはふうと息を吐いた。まだ、三日しか経っていなかったのだ。
彼女はふと腹を押さえた。
「……お腹空いた」
すると、固くなっていたレオンの頬がようやく緩む。
「何か食べますか?」
「そうね。何かある?」
「干し肉とじゃがいもが」
「それだけ?」
レオンは呆れるように首を横に振った。
「申し訳ありませんが、お嬢様。平民の食事はどこもこんなもんです」
ディアナはぎくりとして視線を外す。
「……ごめんなさい」
「大丈夫です。ディアナ様は知らなかっただけなんですから」
レオンはディアナから手を放すとすぐさま立ち上がり、小屋の隅でごそごそと材料を取り出した。ディアナはそっと体を起こすと、興味深そうにそれを観察する。
本当に、箱にはじゃがいもしか入っていない。
それから彼は天井からぶら下がっている干し肉を、ナイフでざくざくとはぎ取っている。
細かく切って鍋にぶち込み、岩塩とコトコト煮る。
そこに、乱切りしたじゃがいもを投入する。
本当に、それだけなのだ。
ディアナは「信じられない」と思うが口には出さない。
炭火にかけて放っておけば出来る料理らしく、レオンは椅子に腰を下ろした。
ディアナは気になっていることを尋ねる。
「レオン?」
「……はい」
「どうしてあの時、ハインツの屋敷に来たの?」
レオンは少し瞼を閉じて何か考え込むと、答えた。
「ハインツ商会の皆様が、気になって」
「どうして?」
レオンは彼女の問いに、信じられないと言いたげに目を見開いた。
「アウレール様とカミラ様には大変お世話になったので」
「そう?でも、屋敷の使用人は全員逃げたのに……」
「……彼らはそうしたかった。だけど俺はそうはしたくなかった。それだけです」
俺。
ディアナはレオンの本音を聞いた、と確信した。一人称の乱れが、説得力を持って心に迫る。
「まず玄関から入ろうかと。そうしたら、ご夫妻が群衆に……」
レオンは言葉を詰まらせた。
「玄関からは駄目だ、と思って。ディアナ様の部屋に行くのにどうしようかと考え、二階へよじ登ろうかと」
ディアナは胸を押さえる。
「水を被って助け出そうとしたら、ディアナ様が降って来た。だから、その……良かったです」
朴訥な語り。しかしディアナはその言葉を、とても輝かしい贈り物のように思った。
ディアナは目をこする。レオンは椅子ごと体をこちらへ向けた。
「見ての通り、私は貧民です。農業をやりながら、誘われるがままに副業として庭師も始めました。こんな食事しか出来ないような私に、アウレール様はたらふく食べさせて下さった。ディアナ様と同じ年の男だから、息子のようだとおっしゃって」
ディアナは頷く。彼女もまた、優しかった父のことを思い出していた。
「私にとって、ハインツ邸は夢のような場所でした。だから、失ってはならないと」
「……レオン」
「助かって良かったです、お互い」
「ありがとう、ありがとう、レオン」
ディアナは立ち上がろうとしたが、すぐさまレオンが飛んで来て肩を押さえた。
「立ち上がらないで下さい。しばらくは安静に」
その時、鍋がふきこぼれた。
「ああああ」
レオンはまた飛んで行って、鍋をどけた。
「……はぁ」
ディアナはくすくすと笑う。レオンは少し顔を赤らめ、こちらを振り返った。
「大丈夫よ。私、もう立てるわ」
ディアナはベッドから立ち上がる。
と。
どすん。
懐から床へ、種袋が落ちた。
ディアナはそれをそっと手に取る。その刹那、あの日種の話をした父の笑顔が彼女の脳裏に鮮やかによみがえった。
「……お父様」
涙がこみ上げ、ディアナはしゃくりあげた。
「お父様……お母様……」
レオンは真剣な顔で、ディアナに近づく。彼女は涙が止まらず、困り果てていた。
「ディアナ様」
ディアナは涙まみれの顔を上げた。
「抱き締めてもいいですか?」
ディアナの時が止まった。
「……へ?」
「あ、迷惑だったらいいんです。ただ、その……泣いている人を放っておけなくて」
「迷惑……じゃ、ない」
ディアナは顔を真っ赤にしながら首を振る。
近づいて来るレオンに、彼女は安心してそっと体を預けた。
あの日、庭で眺めていた彼の頑丈そうな肉体に、ディアナはしかと抱き止められている。
不思議な安心感に包まれた時、彼女ははっきりと悟った。
(私、この人が好き……)
レオンはまるで彼女の心を治療するかのように、注意深く同じ体勢で抱き止めたまま、恐る恐る突っ立っている。
その不器用な佇まいに、ディアナは前より余計に彼のことを好ましく思うのだった。