19.ディアナの姉イルザ
唐突なイルザのお出ましに、レオンは言葉を失っている。
「お姉様!どうしてここに……!」
「あら、どうしてって私、戦火から逃れるためにアイゼンシュタットから疎開して来たのよ。義父と夫だけ国に残して、彼ら以外のイシュタル商会の職員親族と一緒にね。もう少しラトギプ寄りの村で、束の間の牧歌生活を楽しんでいるわ。ここまで御者に乗せて貰ったのも、ちょっと退屈してたからなの」
そう言うなり、イルザは荷馬車から降りて来た。疎開先においても美しくその緋色の髪は巻き上げられ、おくれ毛がレースの襟元にふわふわとたなびく。全ての男を虜にするあの美しさで、彼女は妖艶に微笑んだ。
「あら、村娘風のドレス、とっても素敵ねディアナ!私、心配してたのよ。ラトギプもあらかた燃えたって聞いたから」
「あの、私……」
「でもどうやら無事で良かったわ!お父様とお母様はどうしているの!?」
ディアナは唇を噛んでうつむいた。それを見て、レオンが進み出る。
「大変申し上げにくいのですが……アウレール様とカミラ様は戦火の巻き添えに」
イルザが愕然と二人を交互に見る。
「!嘘……」
「何とかディアナ様だけは助け出せたのですが」
「……あら、あなたは確か庭師の……」
イルザはどこか疑わし気にレオンを見上げる。レオンはその視線に、何か感じるところがあったらしい。
「──申し訳ありません」
「……戦時下ではしょうがないこともある……あなたに怒りをぶつけるのは酷だわね」
レオンはうなだれる。ディアナはそっと意気消沈する彼に寄り添った。
「とにかくディアナ。あなたは助かって良かったわ。あの庭師に助けて貰ったのね?」
「ええ。戦火が落ち着くまで、ここに居候させて貰ったの」
「まあ。それはお礼をしなくちゃいけないわね」
言うなりイルザは、金貨五枚を取り出した。そしてそれをレオンに押しつける。
レオンは呆然と金貨を受け取った。
「はいこれ。妹を助けてくれたお礼よ。じゃあね、庭師さん」
そしてディアナの背中に手を添える。ディアナは慌ててかぶりを振った。
「わっ……私、行かないわ」
「何を言ってるのディアナ?こんな山小屋にいたら危険よ。山には野生の動物がいるし、それに──」
イルザはちらとレオンに視線を送った。
「あなたは嫁入り前なのよ?こんなところにいたら経歴に傷がつくわ」
ディアナはイルザに肩を抱かれ、馬車に連れ込まれそうになる。ディアナはレオンに向かって叫んだ。
「レオン!」
レオンはどこか決意の視線でもって、黙ってディアナを見つめている。
ディアナは目を見開いた。
レオンが決別するかのように、そっと視線を外したのだ。
「……レオン」
彼は小屋の方に顔を向けると、背中で言った。
「……お嬢様、お身体に気を付けて」
「そんな」
「どうかお幸せに」
先程の会話がディアナの脳裏によみがえる。
──こんなところで、ディアナは幸せにはなれないと思う。
レオンはそちらの選択をしたのだ。ディアナは頭が真っ白になった。
「何をしているの?早くこんなところから出ましょう、ディアナ」
レオンは去り、小屋の扉は閉められた。
ディアナの行くべき方向は絶たれたのだ。
ディアナはイルザに背中を押され、馬車に乗り込んだ。
夕日に照らされ、馬車はラトギプ方面に向かって走り出した。
薄暗くなって行く道程に呼応するように、ディアナの心もじわじわと闇に蝕まれていた。
(レオン……)
花冠を乗せてくれた手、抱き締めてくれた手。
(どうして)
それは金貨を握ったまま、ふいに消えてしまった。
彼の性格からして主従関係を崩すことは難しかったのだろう。生真面目な性格の彼がディアナを唯一の肉親から奪うような真似など、到底無理だったのだ。
そう自分を慰めてみるものの、絶望からは逃れられない。
イルザは隣でうとうとと眠っている。都会から出て来たままの姿で。
ディアナはふと自らの腕を眺めた。いつの間にか日焼けしている。
そこだけが妙に現実的で、あとは夢のようだった。
村人に祝福されながらキスをくれたレオンは、もうそばにいない。
突然過ぎる出来事に、ディアナは涙も出なかった。