1.儚い思い出と、手を握る庭師
ディアナは過去の、とある日の夢を見た。
それは戦争が始まる前の、ハインツ商会の屋敷でのこと。
ディアナは自室の窓から裏庭を見下ろすのが好きだった。
そこでは、複数人の庭師が庭仕事をしていた。
上半身の服を脱ぎ、庭師たちはさきんさきんと庭木の樹形を整えている。
筋肉が気持ちよく動き、黙々と自然美を探求する彼らの姿勢の良い背中に、ディアナはいつも心躍らせていた。
彼女の周りは、口八丁手八丁の商人ばかりで埋め尽くされていた。揃いも揃って豊かな食生活のせいででっぷりと太っている。なのに足ばかり細くて、目と口ばかりせわしなく動かしているのだ。ディアナは内心彼らを軽蔑していた。父もその一員ではあるわけだが、それにしても若い男が同じようにしていると、その奇妙なほどの口賢しさに苛々させられた。
自分に、いくつか縁談が来ていると聞いた。
あのような美食に飽かして太りまわった男の元へ嫁ぐのだろう。
イルザのように。
ディアナはかぶりを振った。何も考えぬよう、裏庭へとひょこひょこ下りて行く。
そこにはディアナと年の近そうな、ひとりの青年がいた。
近づいたディアナの足元に、彼の剪定した枝がころんと落ちる。
「あ」
青年は慌てて体をこちらに向けた。
「その枝、棘が」
ディアナは心躍らせながら彼を見上げる。
「今切ってるから……近づかないで下さい」
それから、彼は枝の数々と対峙してじっと黙った。
鋏の音。木漏れ日に、せせらぎの音。鳥のさえずり。風の音色。
「……庭師さん」
青年は振り向いた。
「あなたの名前は?」
青年は、少し汗ばみながら答えた。
「レオン」
ぶっきらぼうにそう言ったが、彼の手は淀みなく動き続けている。
「レオン……」
ディアナは呟く。レオンは依然、前を向いたままだ。
「ねえ、今度新しい花が来るんでしょう?」
「そうですね」
「何て言う花?」
レオンはようやく、鈍色の瞳をこちらに差し向けた。
「それなら、もう来てますよ。東洋から輸入したんです」
「本当?」
「見ますか?」
「是非!」
ディアナは知っている。
この青年は人に興味を抱かないが、植物を愛でる人には視線を向けてくれることを。
こんなことを知るのに、三か月もかかってしまった。
名前を知るのには五か月もかかった。
何か話しかけようと思っても、あからさまに距離を取られたり、作業に没頭していたりして、なかなか話しかけることが出来ずにいたのだ。
それがようやく、今日叶った。
レオンはディアナの前に、巨大な牡丹の鉢植えを持って来た。
「わあああきれい!」
「ここまで大きくなる牡丹は初めて見ました。頭を支えてやらなきゃいけないんです」
「あ、本当だ。つっかえ棒で立ってる」
「アウレール様はこれを売り出そうとしています。この国の気候に合えば、必ず売れると」
「お父様ったら。最近は王家の庭に何を置こうかで頭がいっぱいになってるんだわ」
「仕方ありません。アウレール様は今、ディアナ様の婚礼費用を稼ごうと必死なんです」
ディアナはうつむいた。
そんな話をレオンの口から聞かされるのは、色々耐え難かった。
「イルザ様はその美しさから、更に規模の大きな、隣国のイシュタル商会に嫁入りされましたので」
やめて。
「ディアナ様には婿を取らせて、ハインツ商会を安泰にしようと」
やめてってば。
その時。
目の前の牡丹の花が、ぼとりと落ちた。
ディアナは愕然とする。
「レオン、ごめんなさい!」
令嬢は叫んだ。
「せっかくあなたが大事に育てたのに、私……」
空間が歪む。レオンが傍から消える。
ディアナは絶望しながら叫んだ。
「レオン!レオン!」
「ここにいます、ここにいますお嬢様」
その声に、ようやくディアナは目を開ける。
吹き出る汗で、彼女の全身はぐっしょりと濡れていた。
栗色の髪と、鈍色の瞳。
レオンがディアナを見下ろしている。
ディアナは手足をそっと動かす。ベッドの上だ。
目を動かして周辺を眺める。そこは馬小屋のような、ほったて小屋だった。
「わ、私……」
ずきん、と頭がきしむ。
「痛っ……」
「お嬢様、動かないで下さい。傷に障ります」
レオンの指先が伸びて来て、そっとディアナの前髪を掻き分ける。
「……ここは?」
「私の家です」
ディアナは、途端に目を丸くした。
「あなたの家!?」
「はい」
それから、ふと彼女は自分の手を眺めた。
レオンの手が、ディアナの手をしかと握りしめている。
その視線に気づいたらしく、レオンはそうっとその手を離した。
ディアナは慌てて言う。
「あの、手──」
「……すみません」
「謝らないで。不安だから、手を離さないで欲しいの」
レオンは困惑の表情で、彼女の手を再び握り直した。