10.幸せの種を蒔こう。
ディアナは、村生活は一筋縄では行かないことを学んだ。
レオンは言い知れぬ葛藤を抱えていたのだ。
(かりそめの結婚式なんかに浮足立っちゃって……私ったら、救いようのない馬鹿だわ)
おままごとに興じている場合ではなかったのだ。
けれど少し報われる気がしたのは、彼が庭師としてハインツ邸に来たことがやはり救いだったということ。
触れ合った手を、レオンは真剣な表情で見つめている。
その瞬間、ディアナの心にある決意が浮かんだ。
「レオン、ここは荒地なんかじゃないわ」
レオンは顔を上げる。
「ここを、楽園にしましょう。今までの辛いことを全部忘れられるような楽園に」
レオンは困ったように笑う。
「ディアナは突拍子もないことを言うな」
「あら、そんなことないわ。だって……」
ディアナは手を離して部屋の隅に移動すると、木箱からごそごそとあるものを取り出して見せた。
「じゃーん!」
「それは……」
「お父様が残した、種よ!」
ディアナは種袋に頬ずりした。
「生前、お父様が言っていたの。この種を蒔けば、世界が変わるって」
「……本当に?一体、どんな種だって言うんだ?」
「ええっと……食べられる花が咲くって言ってたわ!」
「花で腹は膨れないし、世界なんか変わらないだろ、さすがに」
「でも、お父様は嘘をつくような人じゃないし」
「……確かにな」
レオンは気を取り直すように立ち上がった。
「どこに植える?その花の種」
「あの裏山はどうかしら」
「あそこは管理が行き届いていないからな……」
「あらそうなの?藤がきれいに咲いていたのに」
「あそこに生えているのは、全部が野生の草木なんだ。何もかもごちゃごちゃしていて、畑にするには向かない山だ」
「じゃあ土だけあそこから持って来て、この平原に植えればいいわね」
「この一帯は水はけが良すぎる」
「だから、その水はけのいいところに穴を掘って、土を入れればいいじゃない」
「ああ……そういうことか」
レオンの目が少し輝きを取り戻す。ディアナはほっとした。
久方ぶりに、庭師レオンを見た気がしたのだ。
「穴は俺が掘るし、土も持って来るから、ディアナはここで待ってろ」
「私も行くわ」
「傷がまだ……」
「私、レオンが作業しているのを見るのが前から好きだったの」
レオンは目を見開く。
「……は?」
「だから、ハインツ邸の裏庭、あったでしょ?私の部屋の窓が裏庭に面していたじゃない。私、暇さえあればあなたの仕事ぶりを眺めていたのよ」
途端にレオンは真っ赤になった。
「うそ」
「嘘じゃないわ」
「だってほぼ裸で作業して」
「そうね。でもそれが、庭の美しさと相まって風情が」
「……うわっ。気ィ抜いてた。危うくお嬢様にヤベーもん見せるところだった……」
「ヤベーもん?」
「……お願いだからそのことは忘れろ、な?」
「ええー何でそんなこと言うの?とてもいい思い出なのよ?」
レオンはこめかみを指で押さえた。
「ま、しょうがない……とにかく、種を植えることにするか」
二人は連れ立って小屋を出た。
レオンは木のベンチを納屋から持って来ると、それを軒先にどすんと置いた。
「ディアナはここで座ってろ」
ディアナは言われた通りにした。またあの日常が帰って来ると思うと、心が躍る。
日差しが高くなっている。レオンはバケツいっぱい土を裏山から取って来た。
小石だらけの地面をスコップで掘る。本当に、地道に固い地面を掘り返す。
楕円の穴が開いたところに土を入れる。
牛に食べられてしまわぬよう、柵を張り巡らした。
その間、ディアナは種袋の種を種類ごとに分けた。
全部で十種類はありそうだった。アルファベットをコインに書き付け、種ごとに前方に並べる。
井戸水をとくとくと注いでやる。
これで作業は終了した。
「……こんなもんで、いいのかしら」
「どの種が何なのかをまずは把握しよう」
「全部、ちゃんと芽が出るかしら」
「気になるようなら、もう少し蒔いたらいい」
ディアナは一種類につき三つずつ種を植えることにした。
そのようにしても、種はまだまだたくさんある。
「気候と種の特性にもよるから、芽が出ない種もあるだろう。そういうのを、きちんと書き付けて管理するんだ。ディアナ、出来るか?」
彼女は頷いた。
「うん、やってみるわ」
「春に蒔いて、いつ花が咲くのか……場合によってはずっと先に咲く花もあるかもしれない」
「……うん」
「急に大きくなるものも、あるかも」
「……」
ディアナはレオンの横顔を眺める。
大きな体の男がしゃがみ込んで小さな種を見つめる様子が、彼女の胸を打つ。
(私、こういうのが好きなんだ。大の男の人が、儚いものに真剣に向き合っているのが)
「……ディアナ?」
「!はいッ」
「俺の顔、何かついてる?」
「!別に、何も……」
ディアナは赤くなって胸の鼓動を押さえた。レオンは立ち上がると、彼女に言う。
「……腹、減ったな」
ディアナはレオンを見上げる。
彼は笑顔で、少し期待するような視線をこちらに向けていた。
(あ。お食事かぁ)
そう思うと同時に、ディアナはじわじわと背中が幸福に痺れるのを感じていた。
(まるで本当の夫婦みたい……)
敬語を禁止してから、レオンは余り彼女に遠慮をしなくなった。それがディアナには震えるほど嬉しい。
「あなたの好きなものでいいわ。何にする?」
「また、じゃがいものクリーム煮が食べたい……かな」
「そんなものでいいの?」
「……美味しかったから」
「じゃあ、そうしましょう。ああ、早く卵が出て来ないかしらね。そしたらもっと料理の幅が広がるのに」
二人が帰ってからしばらくして、小屋から暖かい湯気が立つ。
束の間の幸福が荒野に訪れた。