戦火からの逃亡
ついに戦火が市街地ラトギプに飛び火した。ディアナが目覚めた頃には、周囲は既に火の海となっていた。
ヴェンデルス国随一の豪商、ハインツ商会の館とて、その飛び火からは逃れられない。商会の令嬢ディアナは飛び起きてその赤い炎のような髪をひとくくりに束ねると、貴金属を懐に突っ込み階下へと駆け下りた。街のそこかしこで混乱に乗じた略奪が始まっているのが見える。彼女は広い屋敷の中、頼りの父母の姿を捜した。
「お父様……お母様……!」
使用人は既に全員逃げ出しており、どの部屋ももぬけの殻だった。ディアナは愕然とするが、致し方ないことと腹をくくる。
父母がディアナを置いて逃げたとは考えにくい。屋敷には既に三人しかいないようだ。
ディアナにはイルザという姉がいたが、二年前に結婚し、この家を出て隣国及び敵国のアイゼンシュタットに住んでいた。そちらの動向も気になるが、まずは父と母だ。
しかし、その捜索の機運は、脆くも一瞬で崩れ去った。
大きくカーブした階段の下。
そこに、略奪をする男たちの姿があった。
彼らの足元では無残にも血まみれのまま倒れているディアナの父母、アウレールとカミラが敷物のように踏み潰されている。
ディアナはそれを目の当たりにし、気を失いそうになる。が、何とか踏ん張った。
と。
「いたぞ!」
若い男の群れが更に屋敷になだれ込んで来た。ディアナは蒼白な顔を彼らに向ける。
「女だ!」
ディアナはそれで悟った。
彼らにとっては、ディアナもまた略奪品のひとつであるのだと。
ディアナはヒールを脱ぎ捨てて走った。
二階の窓に行き着き、階下を見下ろす。そこにかつてあった美しい裏庭は火にまみれて何も見えない。
庭師が毎週手をかけてくれたものも、戦火の中、一瞬で朽ちたのだ。
ディアナの前にあるは、炎のみ。
背後からは、薄汚い目をした男たちの群れが迫る。
ディアナは心を決めた。
その業火に身を投じることを。
開け放した窓。ディアナは足をかけると、火の渦に飛び込んだ。
地面にしこたま体をぶつける。
「……死んだ」
ディアナは念じるように、そう呟く。
「死んだんだ……私はこのまま死……」
「ディアナ様」
その瞬間。
ディアナの頭上からどばんと水が放たれた。
ディアナは驚いて顔を上げる。
そこには馴染みの青年の顔があった。
農作業によって鍛え上げられた筋肉質の大きな体、短い栗色の髪。
庭師のレオン。
彼もまたずぶ濡れで、桶を抱えたまま心配そうにディアナを見下ろしている。
「……レオン」
「逃げましょう、お嬢様」
「あの、なぜあなたがここに」
「いいですか、お嬢様。今すぐ逃げますよ、ここから」
ディアナはレオンに抱き上げられ、火炎が渦巻く裏庭を駆け抜ける。
「レオン、逃げるってどこへ……!」
「馬小屋にまだ馬がいます。馬でこの街を出ましょう」
ディアナは裏庭の向こうに見えて来た馬小屋を目にし、弾けるようにあることを思い出していた。
父、アウレールとの約束──
「困ったことがあったら、この種を植えるといい」
一年前のこと。
隣国との戦乱で王家に貸し付けていた借金が焦げ付き、いよいよ父の経営する貿易商、ハインツ商会が経営破綻する気配が漂い始めたある秋。
何も知らず裏庭で無邪気に花を摘んでいたディアナに、黒ひげの男──父アウレールはそう言ったのだった。
「この種は、秘蔵っ子だ。この種を蒔けば、世界の市場の勢力図が変わる」
その時の彼女は、それをほぼ聞き流していた。
てっきり、新しい花を植えたいという話をしているのかと思ったのだ。
「そうね、植えましょう。どんな花が咲くのかしら」
「これはな、食べられる花だ」
「あら、食用にもなるの?菜の花みたい」
「ははは、そうだな。でも菜の花より、もっとキレイなんだ」
平和な午後の会話。戦乱の前日談。栄華を極めたハインツ商会の斜陽。
あの日を思い出し、ディアナははっと息を呑んだ。
小屋に着き、彼女を床に降ろしてやりながら、レオンは少し怪訝な顔で問う。
「どうかしましたか?ディアナ様」
「……確か、ここに」
ディアナはきしむ床板を外した。
レオンも見守る中、現れたのは小さなズタ袋。
「お嬢様、それは……」
ディアナは袋を開ける。
中には、何種類もの種がぎっしりと詰まっていた。
「種、ですか?」
「ええ。レオン、あなた庭師よね?この種、何の種だか分かる?」
「さあ……それだけじゃ、何とも」
「……そう」
「早くここを出ましょう。私の住む村へ案内します」
ディアナはその種袋も懐にしまった。
レオンが連れて来た馬は、ディアナが乗馬をする際にいつも乗っていた白い雌馬、レギーナだった。彼女の不安そうな瞳を認めると、ディアナは鼻をさすってやる。
「レギーナ……あなたも、無事で……」
レオンはレギーナにも、馬水桶からばしゃばしゃと水をかけた。
「行きましょう、ディアナ様」
ディアナは頷いた。水に足を滑らせぬよう注意しながら、ディアナは先んじて乗ったレオンの後ろにまたがる。レオンは何か覚悟めいた手つきで麻紐を取り出すと、庭師と令嬢、互いの体をきつく縛った。
レオンはレギーナの腹を渾身の力で蹴る。レギーナは賢い馬なので取り乱さず、炎と狂乱の中にあっても主の手綱の通り走った。市内は既に脱出する人で溢れ返っており、進路もままならない。だがレギーナほどの足の勢いがあると、退避勢も全員避けてくれた。
戦火を逃れ、ようやく炎から逃げおおせるかと思えた、その時。
白く目立つレギーナの姿がいけなかったのだろうか。再び略奪を企る群衆に進路を塞がれた。
「……レオン!」
「レギーナ……跳べるか!?」
レギーナは賢そうな瞳を真っすぐ前方にのみ向け、少し唸った。
「行けるわ、レオン。飛越するから、手綱を」
ディアナは手綱をレオンから受け取った。ディアナは巧みに手綱を操作すると、アクセルとブレーキをいつも練習していた通りのタイミングで愛馬に踏ませる。
敵の馬が一列になってレギーナの進路を塞いだ、その時。
「跳べ!!」
レギーナは主の声に反応して一気に追い上げ、敵を障害物と判断し、ぐんと飛び上がった。
ずどん、と白馬は悪路に降り立つ。
そして再び走り出す。レオンとディアナは同時にほっと息をついた。
ディアナがレオンに再び手綱の操作を譲った、その時だった。
略奪の群衆が、苦し紛れに何かを投げた。
それが運悪く、ディアナの後頭部に命中した。彼女は気を失い、だらんと体を力なく傾けてしまった。
地面に転がったのは、大きな花瓶。
「くそっ……あいつら」
レオンは手綱を操作しながら二人のウエストを縛っている麻紐を胸元まで引き上げた。失神したディアナの後頭部からは鮮血が流れ出している。
「お嬢様……持ってくれよ……!」
レオンは全速力でラトギプ市郊外の荒野を駆け抜けた。
若き令嬢を救うために。