夏の幻想
どこかから、カナカナの鳴く声が聞こえる。
物悲しい、何かの終わりを告げるような声。
僕の顔を生ぬるい風が撫でて、深緑の木々がさざめいた。
アスファルトを灼く真夏の光芒は、僕の視界を真っ白に奪っていく。
噎せ返るような暑さで、額に汗が滲み、頭がぐらぐらしてくる。
どこかその辺に、自販機はないか。
できたら大塚製薬がいい。
こんな時には、ポカリ・スエットが飲みたい。
というか——。
どうして僕は、こんな所にいるのだろう。
朧げになった記憶を手繰り寄せてみる。
しかし、パズルのピースが嵌まることはなく、何一つ思い出せない。
仕方なしに、僕は鉛のように重い両足を引きずって、宛もなく周囲を散策してみることにした。
車なんて一台も止まっていない駅前の鄙びた駐車場を抜け、僕はかろうじて舗装されている農道を歩いていく。
土と草の匂いが、鼻腔を抜けていく。
遠くでカブが走り抜ける音がした。
路傍に停められた軽トラからは、『FM富士』のDJジローの声が聴こえてくる。
若々しい緑に染まった桃畑の中では、脚立に上って爺さん婆さんが枝の剪定をしている。
「もう、そんな時季か」
僕はふと、そんな事を思った。
しかし、なにを以って「そんな時季」と感じたのか、それすらも釈然としなかった。
「おかしいな」
そんな言いようのない違和感を覚えながら、僕はひたすらに歩いていく。
ふと、視界にくすんだ赤色の鳥居が見えてきた。
随分ボロボロで、支柱には「今すぐお金貸します」なんて類いのビラが無造作に貼らていた。
「ここ、神社か?」
呆けた頭でそんな事を考え、僕は吸い寄せられるようにその鳥居をくぐり抜けた。
拝殿へと続くお粗末な参道には、たくさんのコスモスが群生していた。
ピンクやマゼンタに染まった彼らは、夏の陽光を浴びて楽しそうに揺れていた。
「懐かしいな」
またそんな言葉が口からこぼれた。
懐かしいって、何が——?
さすがに違和感は強まり、懸命に記憶を辿るも、やはり何も符号はしなかった。
そんな事を考えているうちに、目の前に古ぼけた拝殿が姿を現した。
賽銭箱の周辺には、無数の吸い殻や缶ビールの空き缶が転がっていた。
地元の不良たちの、格好の屯所になっているようだ。
僕はその光景を見て、深いため息を吐いた。
すると、どこからか「カキィン」という威勢のいい金属音が聴こえてきた。
僕はすぐに、その音がした方へと向かってゆく。
拝殿の裏手へ回ると、こじんまりとした広場があって、そこで五、六人の少年が野球をしていた。
「野球、かぁ」
そうつぶやくと、また一つ気持ちのいい金属音が響いて、青空へ白球が吸い込まれていった。
そして、彼らの悲鳴にも近い叫び声がこだまする。
「お前、飛ばし過ぎなんだよ!」
「うっせー。お前の球、止まって見えるぜ」
「なんだとー!」
遠目からそんなやり取りを見て、僕は思わず笑ってしまう。
「あっはははは。懐かしいな」
すると、少年らの一人が僕に気づいて、声をかけてきた。
「そこの兄ちゃん、誰だよー!」
まずいな、と思い、お茶を濁してすぐに立ち去ろうとしたその時。
声をかけてきた子とは違う少年が、続けて言った。
「なあ、兄ちゃんも野球やんねー? 今、五人しかいないんだよ」
黒いナイキの帽子をかぶり、少し肌の焼けた彼は、精悍な面持ちで僕を見つめていた。
その”誘い”が、おふざけや茶化しではない事が、なんとなくだが伝わってきた。
野球なんて、もう随分やった記憶はないが……。
少しだけ考えて、断る理由もないなと思って、快諾する。
「よっしゃ。僕も混ぜてよ」
そう答えて、彼らの輪の中に入っていくと、すぐに金属バットを手渡された。
「兄ちゃん、頼むぜ。今日だれもケータローから打ててないんだ」
そう言われて打席へ送り込まれると、視界の先には先ほどの黒いキャップの少年が立っていた。
「兄ちゃん、勝負だ」
少年は白い日光を背負いながら、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
「カーブで決めてやる」
彼はそう言って、僕に向かってボールを突き出した。
背後から「お前! カーブなんて投げれないだろー」なんていう野次も飛んできた。
しかし少年はそれを気にもとめず、キャッチャーのいない打席に向かって思い切り投げ込んできた。
カキィン。
フルスイングした僕のバットは、少年の渾身の球を芯で捉え、気持ちよく弾き返した。
決まった。センターオーバーの二塁打といったところだろう。
三塁線で見守っていた他の少年らが僕の元へ駆け寄り、「兄ちゃんすげえ!」とまくし立てた。
黒キャップの少年はがっくりと項垂れ、「敗戦投手だ」と地面を蹴った。
そして、僕のもとへと近寄ってきて、「これ」と何かを差し出した。
それは、ジャイアンツの『二岡』のチップス・カードだった。
それを見た他の少年らが、「お前! いいのか?」「ぜったいもったねえよ!」と騒ぎ立てた。
すると黒キャップの少年は「いいんだよ!」とそれを断ち切った。
「ありがとう」
僕がお礼を言うと、少年はきまり悪そうに鼻を擦った。
「俺の球をヒットにしたのは兄ちゃんが初めてだよ。だから俺の大事にしてるカードをやる。それだけだ」
彼はそう言い切ると、仲間の少年たちに「行くぞ!」と声をかけた。
彼らは銀色に輝くそれぞれの自転車にまたがり、次々に走り出していく。
すると、一人の少年が僕に向かって声をかけた。
「なあ、兄ちゃんもともえやに行くか?」
そう向けられた水に対して、僕はほとんど考えることもなく——
「行くよ!」
と、自然に反応していた。
すると少年は大げさに笑って、「よっしゃ! ついてくるなら、自転車の俺らに頑張って追いついてこいよ!」と言って走り出した。
目の前を走っていく、少年らの背中を無我夢中で追いかける。
この、炎天下の中を。
走れども走れども、距離が縮まることはない。
乱れる呼吸、全身をおおう汗、白く飛んでいく世界。
暑さでもう失神するんじゃないか——
そんな事を思った矢先、視界の先に古ぼけた商店が見えてきた。
特徴的な赤いひさしには、「ともえや商店」とレトロな書体で書かれている。
少年たちは軒先に、好き勝手に自転車を止めて、なだれ込むように中へと入っていく。
涼を求めて、僕も彼らに続いていく。
「なあ、アミノ式売ってないかな?」
「俺はチェリオがいいな」
「ビッグカツ食べてえなぁ」
少年たちは目を輝かせ、それぞれの獲物を見定める。
僕はなんでもいいや、と思い冷蔵庫に入っていた缶のポカリ・スエットを購入した。
外に出ると、黒キャップの少年が赤いベンチに座ってポカリ・スエットを飲んでいた。
「なんだ、兄ちゃんもポカリか」
彼はそう言うと、キャップをかぶり直してはにかんだ。
そうこうしているうちに、他の少年らも店から出てきて、全員がその場で買い食いを始めた。
なんだか僕はそれが無性に楽しくて、自然と笑顔になってくるようだった。
すると、少年らの一人が出し抜けに口を開いた。
「今日の夏祭りどうすんだよ、けーたろ」
すると、黒キャップの少年が帽子を目深にかぶり直して、反応した。
「行かねーもんは行かねー。くだらねえし」
僕は事情が飲み込めなくて、空気も読まずに「夏祭り?」と訊いてしまった。
「今夜、花火大会があるんだよ。兄ちゃん、知らなかったの?」
少年らは、不思議そうな目で僕を見つめた。
そして、くすくすと笑いながら、一人が口走った。
「けーたろの奴、女子から一緒に行こうって誘われてんだ」
「そうそう、同じクラスのナガハマさん!」
ここまで言って、黒キャップの少年が立ち上がった。
「お前ら、茶化すんじゃねえよ!」
そう言って彼は自転車にまたがって、そのまま走り出してしまった。
「待ちなよ!」
僕は、すぐに彼のあとを追いかけた。
なぜかと問われても、分からない。
このまま、彼を一人で行かせてはいけないと、感じたのだ。
「兄ちゃん、追いかけんの!?」
背後から、少年たちの声が聞こえる。
僕は振り向かず、言葉だけで返事をする。
「ああ! 僕に任せろ!」
そう言って、僕は全力ダッシュを決め込む。
先ほどのランニングがいい準備運動になっていたおかげで、走ることはもはやそこまで苦ではなかった。
道の遠く先で、黒キャップの少年が左折したのが目に入った。
僕も全力で走り、同じ角を左に曲がっていく。
遥か先を走る彼は、ちょうど根津橋に差し掛かるところであった。
もう追いつけないかもしれないと悟った僕は、思い切り息を吸い込み、吐き出す。
「お前、逃げんなよぉぉ———!!」
光る午後。橋の欄干が眩しい。
彼は自転車を止め、こちらを振り返った。
真っ白の中に、佇む少年。
浮かび上がる、黒いナイキのキャップ。
僕は息を切らして、なんとか彼のもとへ追いついた。
肩を上下に揺らす僕を見て、少年は言った。
「この先なんだ」
僕は思わず訊き返す。
「この先……?」
「この先に、ナガハマさんの家がある。そこで待ってるんだ。俺のこと」
僕は息を整えながら、言う。
「なら、行けばいい」
彼は清流のように澄み切った双眸で、僕を見つめた。
「行って、どうなる?」
「え?」
「ナガハマさんのもとへ行ったとして、俺はどうしたらいいか分からない。このまま引き返すのが、一番なんだよ」
そんな、もっともらしいような言い訳を並べる彼に、僕は——。
心底いらついた。
「お前、都合の良いこと言ってんじゃねえよ!」
すると、彼は驚いたのか、呆然とした表情で僕を見た。
「ナガハマさんは勇気を出してお前を誘ったんだよ。男なら、それにきっちり答えろ」
「そんなこと、分かってるよ。でも……」
「ケータロー! 聴け!」
僕はそう言って、ふうっと一つ呼吸を整えてから、彼の肩を叩いた。
「お前は、ナガハマさんの事が好きなのか?」
「え……?」
少年は、目を右へ左へと泳がせ、分かりやすく動揺した。
「そ、そんなの……分からな……」
「分からない、でごまかすな!」
僕は、もはや暑さでバテきった体の底から、必死に声を出した。
「いいか? そうやってごまかしたら、一生後悔するぞ!」
「う……」
「いいか? もう一度訊くぞ」
そして——。
「お前は、ナガハマさんが好きなのか?」
光る午後。
橋の欄干は太陽を反射し、プリズムになっていた。
すべてが白く溶けていく夏の中を——。
少年は、走り去っていく。
僕は、決して振り向くことない彼の背中に向かって、ずっと手を振り続けた。
……おい。
……おいって。……なあ、大丈夫か。
誰かの声がして、目が覚めた。
「お前、目眩がするからってベンチに横になってさ。熱中症じゃねえのか?」
目を開けると、そこには小学校からの付き合いである健人がいた。
周囲を見回す。
どうやら、お寺の木陰のベンチで寝ていたようだ。
「今日は大事な墓参りなんだからさぁ。平気か?」
「ああ、大丈夫。ちょっと暑くてさ、軽く熱中症になってたみたいだ」
「お前、随分うなされてたぞ。夢でも見てたのか?」
健人が、心配そうに僕を見つめる。
「うーん、確かに。夢……見てたのかもしれない」
そう答えると、健人は肩を竦めた。
「まったく、勘弁してくれよ。お前が倒れたんじゃ洒落にならねえだろ。あっちでみんな待ってるから、行くぞ」
「オッケー」
立ち上がってみんなのいる方へと近づいていく。
そこには、懐かしい面々が僕を待っていた。
「おお、慶太郎! 久しぶりだな」
「慶太郎じゃねえか!」
みんなが、口々に僕の名を呼んだ。
ああ、こんな感覚。
いつぶりだろうか?
「長浜が亡くなって、もう十年か」
「そうそう、高校に行ってすぐくらいだったから——」
鮮明に蘇ってくる記憶。
中学時代、散々両想いだと囃し立てられていた僕と長浜さんは、結局最後までお互いの気持ちを打ち明ける事なく、卒業した。
そして、そんな事をしているうちに——。
長浜さんは高校一年の夏に、事故で亡くなってしまった。
「長浜がいなくなっても、こうやって毎年変わらず夏はやってくるんだもんな」
ふと、健人がそんなことをぽつりと呟いた。
多分、そうなんだ。
長浜さんがいなくなっても、誰がいなくなっても、季節は変わらずに移ろいで、桃の花は散って果実が実り、また緑がそよぐ季節がやってくる。
いつだって、夏は変わらずにやってくる。
僕は線香を片手に、目の前の墓石を見つめる。
「夢の中の僕は、あなたに気持ちを伝えられましたか?」
決して答えの返ってくることのない問いかけは、夏の青すぎる空の中へ、煙とともに消えていった。